【腔】
8人目に紹介するサイコパスは、
彼の名も、世間にはあまり馴染みがないだろう。だが、その理由は有馬富士夫や、前回の辺見瑠香のように、危険人物とみなされてメディアに緘口令が敷かれているという訳ではない。
工藤平太が犯した罪は、3人の監禁殺人である。
今までのサイコパスに比べれば、この犯罪歴は少々拍子抜けするものかもしれない。世間にあまり馴染みがない理由も、それに起因しているのだろう。
だが、工藤平太が殺めたのは、他でもない自身の家族である。
なぜ工藤平太が自身の家族を監禁の末に殺めることになったのか。その経緯を調べていく内に、筆者はあまりの残酷な真実に思わず目を背けたくなってしまった。
もちろん、こうしてコラムの題材にしたからには、きちんとまとめ上げる責務がある為、筆者は最後まで目を背けずに工藤平太という”深淵”を覗き続けた。
工藤平太というサイコパスの真実。それを正確に読者諸君に伝聞できれば、その”深淵”を覗き続けた甲斐があったというものである。
工藤平太は、何不自由ない中流家庭の次男として誕生した。父親の
夫妻には、利発な長女と少々引っ込み思案な次男という二人の子供が誕生した。姉である
家族仲は良好なものであり、どこにでもいるようなごく普通の一家族であった。
その平凡な日常が崩壊したのは、工藤平太が9歳の時だった。
父親の工藤鐘夫が、会社から多額の借金を背負わされて解雇されたのである。この解雇は会社から不当になされたものであり、本来ならば背負うべきではない責任を不当に取らされたのだが、工藤鐘夫は為す術なく押し付けられてしまった。
生活は一変し、社宅を追い出された工藤家は四人で住むには狭苦しい団地に身を寄せた。工藤鐘夫は肩を落としながらも、どうにか家族を養うために鉄工所の作業員へと再就職したが、暮らしは以前よりも厳しいものとなった。
工藤玲子はパートを掛け持ちし、献身的に働いたが、あまり身体が丈夫ではなかった為、病気がちになった。
姉弟は一変した生活に困惑しつつも、仲睦まじく暮らしていた。テレビが見れなくなっても、満足に夕飯が食べられない時も、決して笑顔を絶やさずに面倒を見てくれる姉に、工藤平太は希望を見出していた。
だが、立て続けに不幸が襲う。工藤玲子が病に倒れ、ほぼ寝たきりの状態になってしまったのである。身体を省みずに無理な労働を繰り返した末の出来事だった。
働き手をひとり失った工藤家の生活はますます厳しいものとなった。工藤鐘夫は収入を妻の病気の治療に当てることが出来ず、他者からの援助も得られないままに極貧生活を強いられることになった。
この頃より、工藤鐘夫は狂い始めた。家族に八つ当たりするようになり、収入を家計に入れずにパチンコで浪費するようになった。負けが込んで帰ってくると、母親の看病と弟の世話をしていた工藤凛に暴力を振るった。それを見て泣き喚く工藤平太にも、怒鳴りつけて暴力を振るった。
寝たきりの工藤玲子は病に伏せながらも、その光景を痛ましい思いで見つめていた。病院にかかれることはなく、日に日に体調は悪くなっていく一方だった。
時折、工藤鐘夫は我に返ったように自身の行動を省みて、涙することもあった。すすり泣きながら、我が子を抱きしめて許してくれと懇願する父親を見て姉弟は共に涙を流したが、その翌日には暴力を振るわれた。
学校にも満足に通えなくなった姉弟は、母親の傍らで過ごすようになった。めげずに懸命に母の看病をする姉を慕い、工藤平太は空腹等の不自由に対して文句を言わないことに決めた。
そんな日々が二年ほど続いた頃、工藤玲子が亡くなった。経済的な理由から葬式は行われず、ひっそりと火葬され、あっという間に骨壺になった母親に、姉弟は涙した。
工藤鐘夫は同じように妻の死に涙したが、これをきっかけにとうとう精神が壊れてしまった。
身体的な虐待はそれまでも行われていたが、工藤凛に対して性的虐待をするようになったのである。
狭い団地の一室に、姉弟の逃げ場はなかった。工藤凛は抵抗できずに父親の餌食にされ、工藤平太はその様を無力に見ていることしかできなかった。
工藤凛は父親に蹂躙された後、泣きながら工藤平太を連れて家を飛び出したが、姉弟に救いの手が差し伸べられることはなかった。度々繰り返した家出は毎度失敗に終わり、家へと連れ戻された。一度警察へ事情を訴えたこともあったが、姉弟の言葉に耳を貸すものはおらず、単なる家出と処理された。
絶望した姉から笑顔が消え、工藤平太は自身も絶望した。生活は変わらず極貧状態が続き、父親はろくに姉弟の面倒を見ることはなかった。時折父親が持ち帰るパチンコ店の景品の安っぽい菓子だけが、二人に与えられた食事だった。
そして、追い打ちをかけるように再び悲劇が訪れる。工藤鐘夫がいつものように姉弟に対して虐待を行っていた際に、工藤平太を庇って工藤凛が酷く殴りつけられた。壁の柱に叩きつけられた工藤凛は、頭を強く打って動かなくなった。
工藤鐘夫は慌てて介抱したが、工藤凛は冷たくなっていった。我が子を殺めてしまったことにより、崩壊していた理性が僅かに息を吹き返したのか、工藤鐘夫は大声で泣き叫び、許してくれと喚いた。
やがて、工藤鐘夫はゆっくりと立ち上がり、部屋の隅に転がっていたベルトで自らの首を吊った。
姉の遺体に取りすがって泣き喚く工藤平太を前にして、工藤鐘夫は最期に贖罪の言葉を遺した。
ごめんな、平太。ダメなお父さんで。許してくれ。
その後、部屋に独り取り残された工藤平太は、どうしていいか分からず部屋の中に留まっていた。姉と父親、部屋の隅に放置されていた母の骨壺に縋って泣くのを繰り返すだけで、外に助けを求めようとはしなかった。
「外に出たら、私は本当に独りぼっちになってしまう気がしたんです」
当時の心境を工藤平太はこう語った。
拘束衣を着せられず、しずしずとものを言うその姿は、どこにでもいるような中年の男そのものだった。まるで、人生に疲れて生気を失い、喫煙所で座り込んで遠い目をしているような———。
やがて、父親の死体からボタボタと糞尿が垂れ始めた。しばらくすると姉の身体にハエがたかり始め、蛆が湧くようになった。
口の中や眼孔に蠢く蛆を見て、工藤平太はいてもたってもいられなくなった。父親が姉を蹂躙する際に使用していたガムテープを見つけると、姉の目や口、鼻、耳に貼り付けて虫の侵入を防いだ。
吊られたままの父親の死体にも同じ処置を施した。糞尿や体液が垂れてこないように、ズボンを脱がして肛門にも覆うようにテープを貼り付けた。姉の身体にも、後に同じ処置をした。
「
「今でも、夢に見ます。部屋で独り、父と姉の
二人の死から五日後、部屋から漂う異臭に気が付いた住民によって工藤平太は保護された。警察は死体に施された異様な装飾に他殺の可能性を考慮したが、それは後に工藤平太の証言によって覆されることとなった。
その後、工藤平太は児童養護施設へと入所した。周りには同じように虐待を受けていた者や、両親の顔を知らない者が多く、息苦しさを感じることはなかった。似たような境遇で育った人間に囲まれ、工藤平太は穏やかな少年期を過ごした。
だが、その影では常に苦悩していた。毎夜のように部屋で独りになる夢を見ては跳び起きていた。夜尿症に悩まされだしたのもこの頃からだった。
傍目からはおねしょ癖のある優しい子、としか認知されていなかった為、工藤平太が病院にかかることは一度もなかった。
「とても優しい子でした。年下の子の面倒見も良くて、みんなから慕われていたんですよ」
かつて児童養護施設にて働いていた者はこう語っている。(本人の希望により匿名)
「そういった施設には、問題行動を起こす児童が多いんです。愛されるということを知らずに育ってしまうと、非行に走ったり、児童同士で喧嘩をしたりすることは珍しくありません。わたしも幾度もそういう経験をしました。愛情を与えないことには、人は歪んでしまうんです」
「でも、あの子は一切問題行動を起こしませんでした。いつも静かにしていて、何か諍いが起きると真っ先に止めに入る、心の優しい子でした。ただ・・」
「たまに独りにしていると、もの凄く寂しそうな眼をするんです。まるで、誰かが迎えに来るのを寂しく待っているような・・・」
順調に成長した工藤平太は、進学した工業高校を卒業後、児童養護施設の援助を受けながら一人暮らしを始めた。
就職先は土木工事業を営む会社であり、児童養護施設の施設長の手引きあってのものだった。
現場作業員として働きだした工藤平太は、働き者だ、機転が利く、物覚えがいいと評判が良く、あっという間に会社に受け入れられていった。
当の工藤平太も、手に職を付けられたことに安堵していた。だが、それ以上に安堵していたのは、ようやく独りで暮らすことが出来るということに対してだった。
これはかつて工藤平太が勤めていた会社の同僚だった者の証言である。
「オレが会社の飲み会でベロンベロンに酔っぱらった時に、先輩(工藤平太)に介抱してもらったことがあったんす。もう記憶が無くなるくらいベロベロで、気が付いたら朝、先輩の家にいたんすよ。そしたら——」
「先輩の家って、いや、アパートなんすけど、ビビるくらい物がないんすよ。冷蔵庫も、テレビも、エアコンも、タンスとかテーブルとか、家具家電が一切なかったんす。唯一、隅っこに黄ばんだ布団が敷かれてて、オレはそこに寝かせられてました」
「先輩も酒を飲んでたから、床で寝てました。床っすよ。何にもないとこで。俺が起きたことに気が付くと、先輩は早く帰れって不機嫌そうにしてたんで、ヤベッて思って帰りました」
無論、工藤平太はミニマリストを目指していたわけではない。かつて自身が幼少期に過ごしていた部屋を再現しようとしていただけである。
「私は無意識に部屋を、幼少期を過ごした団地のようにしようとしていました。私は心のどこかで、あの頃に戻りたかったのかもしれません。施設にいた時よりも、あの何もない部屋は安息の空間でした」
土木現場作業員として順調にキャリアを積んでいった工藤平太は、社内でも信頼の厚い人望ある人間として評価されていった。
そして27歳になった工藤平太は、後に妻となる
布浦麻理は同僚の友人を通じて紹介された工藤平太に、どこか惹かれるものを感じた。物静かで、他の者とは違う一線を引いたような雰囲気と、眼の奥に宿る悲哀を見抜いた布浦麻理は、工藤平太に近付いた。
「私は妻と最初に出会った時、物好きな人間がいるものだなと思いました。私のような人間に近寄ってくるなんて、頭がおかしいとしか思えないでしょう」
「私は怖かった。人から思いを寄せられることが怖かったんです。しかし、妻はそんな私の警戒心を解きほぐしてくれました」
工藤平太は布浦麻理から想いを打ち明けられ、交際を始めた。最初はぎこちなく、まるで普通の人間のふりをするような態度で接していた工藤平太だったが、次第に打ち解けていき、布浦麻理は初めて心を許せる存在となった。
布浦麻理は利発で人柄も良く、周囲から頼りにされるような面倒見の良い性格だったという。工藤平太が布浦麻里に惹かれたのは、かつての心を許せる存在であった姉の姿が重なっていたのかもしれない。
四年間の交際を経て、工藤平太は布浦麻理と婚約、入籍した。結婚式は挙げなかった。親族がいない工藤平太を、布浦麻理が気遣ってのことだった。
空っぽで殺風景だった部屋の中は、工藤麻理が持ち込んだ家具で満たされていった。悩まされていた夜尿症もいつの間にか治っていた。工藤平太は他者から愛される喜びを次第に思い出し、自身の中に在る心の暗闇は影を潜めていった。
だが、その暗闇は間を置かずに再び工藤平太の心を占領した。
工藤麻理が、子供が欲しいと打ち明けたのである。工藤平太はその言葉を聞いた瞬間に、言い様のない不安に襲われた。
「私は恐怖しました。家族を持つという事。つまり父親になるということです。父親になるということは、私にとって恐怖そのものでした」
工藤平太は自身の中にある影に向き合い、期待に応えられない旨を妻に打ち明けた。だが、工藤麻理は優しく夫を説き伏せた。
あなたは違う。きっといい父親になれる。私が保証する。だって、あなたはずっと優しいあなたのままじゃない。あなたが言う昔の事は、もうあなたの人生にとって、関係のないことよ。あなたは優しいあなたのまま、これからもずっと。
二年後、第一子である
もしも、自分が”あの父親”になってしまったら———。
四年後、工藤家に第二子が誕生した。
工藤麻理は、二人目の我が子を抱えて幸せそうに微笑んだ。
蘭、あなた、お姉ちゃんになるのよ。
おねえちゃんってしってる。しっかりものっていみなんでしょ。
うふふ、そうね。この子のお世話を手伝ってくれる?
うん!ぱぱもおせわてつだってよね!
・・どうしたの、あなた———。
五年後、工藤平太は二児の父となり、幸せな家庭を築いていた。長女の工藤蘭は母親に似て、思慮深く面倒見のいい弟思いの性格に育った。次男の工藤優は父親似の大人しい性格だったが、いつもニコニコと朗らかに笑い、周囲に笑顔をもたらしていた。工藤麻理は二人の我が子を見つめては、いつも幸せそうに微笑んでいた。
だが、工藤平太はその笑顔の裏で、凄まじい苦悩に襲われていた。自身が幸せに包まれるほど、その苦悩は肥大していった。
妻と子供が幸せそうに笑う光景を眺める度、脳裏には幼少期の後ろ暗い経験が蘇っていた。
「まるでいつ爆発するか分からない爆弾を脳に抱えている様でした。怪物が住み着いているとでもいうのでしょうか。私はそれを抑え込むのに必死でした」
夜尿症が再発したのは、この頃だった。幼少期の夢を見てうなされ、夜な夜な汗だくで飛び起きることもあった。
熟睡することが出来なくなり、傍で人が寝るとどうにも落ち着かなくなった。あまりに寝付けない時は、こっそりと寝床を抜け出して居間の固い床の上で寝た。
やつれていく夫を心配し、工藤麻理は精神科への通院を進めた。言われるがままに工藤平太は精神科へ通院をはじめ、カウンセリングを受け始めた。
だが、いかに自身の影に向き合おうと、それが消え去ることはなかった。
そんな日々が二年ほど続いたある日、工藤平太は苦悩の末に、妻に離婚したいと申し出た。順風満帆な生活を送っていた工藤家に初めて訪れた試練だった。
工藤麻理は淡々と話を聞いた後、一筋の涙を流しながら優しく夫を抱きしめた。
大丈夫、大丈夫だから。精神科に通い続ければ、きっといつか治るから。だから、私たちと一緒にいて。お願い。
工藤平太はその言葉に涙し、自身の提案を取り下げた。自身の影に向き合い続ける覚悟を決め、決して家族と離れないと誓った。
だが、この決断が工藤家に悲劇をもたらす分岐点となってしまった。
工藤平太は懸命に精神治療を続けたが、虚しくもそれが進展を見せることはなく、逆に悪化していく一方だった。
夜尿症は治らず、独りでないと寝付けないようになり、居間の隅に布団を敷いて寝るようになった。周囲が片付いているのが落ち着かず、衣服やゴミを散乱させて過ごした。普通の食べ物が受け付けなくなり、安っぽい菓子と水だけで飢えをしのぐようになった。
まるで生活が幼少期に逆行するかのように、変貌していった。そんな夫を妻と子は心配し、様々な方法で心を解きほぐそうとしたが、日に日に工藤平太は感情のない骸のようになっていった。
とうとう仕事にも手が付かなくなり、工藤平太は休職という形で会社から離れた。やつれていく工藤平太を心配し、会社の面々は優しい言葉をかけた。
早く治して、帰って来いよ。お前の為なら、しばらく人員が減っても我慢してやるからな。
その優しさが、ズキズキと背中に刺さるようだった。
相対的に家にいる時間が多くなった工藤平太は、居間の隅でひたすらじっとしていた。眠りに落ちることもできなければ、動く気力も湧かなかった。
妻と子供たちが家にいない昼間が、唯一の安らぎの時間だった。部屋の隅で独り座り込み、安っぽい菓子を食べ散らかしては虚空を見つめていた。幻視していたのは、幼少期の陰惨な光景だった。
やがて夕方になると部屋の中が幸福で満たされた。幸せな光景に、過去が重なって見えた。二人の我が子が、かつての自分達姉弟に重なり、頭の中が恐怖で満たされた。
「幸福であるということが、私の枷になっていたのかもしれません。幸福から解放されれば、頭の中の怪物はいなくなるかもしれない。そういう風に考えていました」
「今にして思えば、本当に愚かな考えです。私は、一生孤独であるべきだったのです。家族など持たずに」
自分自身が恐ろしくなった工藤平太は、家族を避けるようになった。視界に入るだけで不安が止まらず、家を飛び出したこともあった。アパートの階段でうずくまり、何時間も震えてやり過ごした。
工藤麻理はその度に、子供達を寝かしつけた後で夫を迎えに来た。優しく微笑む妻に、工藤平太は母親の面影を感じて顔を歪ませた。
脳に巣食う怪物が爆発するのは、時間の問題だった。
きっかけは真夜中、居間の隅で震えていた工藤平太に工藤優が声をかけたことだった。
工藤優は尿意を催して寝床を抜け出し、トイレで用を済ませた後に、居間の隅で寝付けずに震えている父親を心配して声をかけた。
パパ、大丈夫?眠れないの?
工藤優はいつもの調子で言った。工藤平太はグラグラと不安定に揺らぐ精神で、必死に我が子を安心させようとした。
ごめんな、優。ダメなお父さんで。許してくれ。
口にした瞬間、目の前にあの時の父親が現れた。失意に暮れ、涙を浮かべて贖罪の言葉を言い放つ父親を、まるで自身の鏡合わせのように幻視した。
「気が付くと、私は大声で泣き叫んでいました。許してくれ、許してくれと叫びながら。妻と娘がそれに気づいて起きてきました。どうしたのと問われた瞬間、私は意識を失いました」
目覚めると、傍らには妻と二人の我が子が倒れていた。皆、身体のあちこちに痣が出来ていた。足と腕はガムテープで固定されており、口にも猿轡をするように貼られていた。
一体何が起きたのか理解できないでいたが、ジリジリと痛む手と、その指先に纏わりつく粘り気に、グラグラと脳が揺らいだ。意識は混濁していたが、身体は覚えていたことを理解した。
「私はその時、ようやく気が付いたのです。頭の中に巣食っていた怪物は、他でもない私自身が望む姿だったのです」
目の前に広がる光景に、工藤平太は懐かしさを覚えていた。なぜか、今までにないほどに、心は安らいでいた。まるで、永らく追い求めていた安息の地に到達したかのような、晴れがましい気分だった。
「家族が倒れている傍で、私は何年振りかに熟睡しました」
再び目覚めると、妻が意識を取り戻していた。工藤蘭も目を開けていたが、ぐったりとしていた。工藤優は目を閉じたままだった。
妻がモゴモゴと何事かを言おうとしていたが、ガムテープのせいで聞き取れなかった。工藤蘭の目は、急激に変わり果ててしまった父親に対する恐怖で染まっていた。
罪悪感など感じなかった。むしろ、安らぎの時間を邪魔するな、と感じていた。そのまま何もせずに、目を閉じて時間が過ぎるのを待った。モゴモゴという呻き声と、押し殺したような甲高い悲鳴が耳に入っても、目を開けることはなかった。
やがて、部屋に静寂が訪れていた。目を開けると、三人とも呼吸をしていなかった。どれほどの時間が経ったのか判別できなかったが、三人の身体が冷たくなって身体が硬直している様を見るに、随分と長い間、目を閉じていたようだった。
妻と二人の我が子の肌に触れたが、やはり何も感じなかった。強いていえば空腹だった為、散乱していたゴミの中から菓子の食べカスを探して食した。その後、再び眠りについた。
次に目覚めると、下半身が濡れていた。寝ている間に漏らしていたようだった。アンモニア臭とは違う異臭が鼻を刺し、起き上がると家族に虫が湧いていた。身体中の腔という腔の中で、無数の虫が蠢いていた。
弛緩していた意識が、急激に張り詰めた。いてもたってもいられなくなり、久方ぶりに立ち上がると、膝が折れて倒れこんでしまった。
床に這いつくばり、落ちていたガムテープを手繰り寄せると、家族の腔という腔を塞いだ。虫が湧いてこないように、異臭を吐かないように、汚いものを垂れ流さないように、家族という形が崩れるのを防ぐ為に、自分自身が救われる為に、目も鼻も口も耳も肛門も、全ての腔を塞いだ。
家族三人の腔を全て塞ぎ終えると、達成感に包まれた。帰ってくるべき場所に帰ってきたような、奇妙な安心感を抱いてまた眠りについた。
連絡の取れない工藤家を心配して、工藤麻理の勤め先の人間が家を訪ねてくるまでの七日間、工藤平太は家族の亡骸と共に眠りこくっていた。
逮捕後、工藤平太は抜け殻のような廃人になってしまった。問いかけにも答えず、虚ろな目で虚空を見つめるばかりで、取り調べは困難を極めた。
だが、現場の状況からして、工藤平太が家族を監禁した後に殺害したのは明らかだった。
警察は工藤平太の身柄を精神病院へと引き渡したが、事態は進展しなかった。いかなる精神治療を施しても、工藤平太から反応を引き出すことは出来なかったのである。
警察は最後の手段として、工藤平太をこの施設に収容した。この施設はいわば対サイコパス用の特別な檻、もといサイコパスの精神治療の最後の砦ともいうべき場所である。
実際に、この施設に収容されてから、工藤平太は正常な会話が出来るまでに精神が回復している。
いや、回復しているという言い方は間違っているのかもしれない。確かに工藤平太は会話が行えるようになった。
だが、その成果は常軌を逸した精神治療が施された結果、得られたものである。
工藤平太が収容されている病室の中には、隅に黄ばんだ布団が敷かれており、その周囲にはゴミや食べ物のカスが散らかったままなのだという。食べ物も安っぽい菓子や粗雑なものしか受け付けず、入院着は常に漏らした尿で汚れている。
そして、傍らには三人の家族を模した精巧な人形が寝かせられており、腔という腔にはガムテープが貼られているという。
施設は工藤平太と会話を行う為に、工藤平太が精神を安定させることが出来る環境を造り出したのである。
これは果たして精神治療と言えるのだろうか?だが、その荒療治(?)によって工藤平太の事件が解決に導かれたのは事実である。
「私はやはり、狂ってしまったのだと思います。幼少期、父親が最期の言葉を遺した瞬間から。あの時、私は二度と這いあがることのできない腔に堕ちてしまったのでしょう」
「この汚い部屋の隅。私はここで一生、愛する家族を殺めてしまったという罪を償わなければなりません。何度も何度も、家族の腔を塞ぎながら」
工藤平太は果たして家族を殺めたことを、心の底から後悔しているのだろうか?
取材中に何度も後悔の念は述べていた。その顔は、今にも消えてしまいそうなほどに憔悴しきっていた。
だが、その表情は悲哀に満ちているようで、どこか満足感や達成感を感じているようにも思えた。
取材の終盤、筆者は工藤平太にひとつの疑問を投げかけた。
「あなたは、自身のあるべき姿に成り得たことに対して、後悔していますか?」
工藤平太は沈黙した。憔悴した表情のまま、しばらく黙りこくっていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「もちろん後悔はしています。ですが、私は恐らく心の奥底では、この状況に安心しているのでしょう」
「ここへ来てから、私は毎夜、眠りに落ちることが出来るのですから」
幼少期の経験から、常人の道を外れてしまったサイコパスは、一度はまともな人生、幸せに満ちた道を歩もうとした。
だが、どう足掻いても生き方は変えられなかった。工藤平太はその幸福に満ちた人生を破壊してしまった。
まるで、サイコパスであることこそが、自身の歩む道だったとでもいうかのように。
自身のあるべき姿になった工藤平太は、その結果に満足しているのではないだろうか?
部屋の中に設置されている精巧な家族の人形は、何度も何度もガムテープを貼られては剥がされ、また貼り直すを繰り返されている。家族の腔を埋めては元に戻し、また埋めるを繰り返すことで、工藤平太の心の平穏は保たれている。その作業に終わりなどなく、恐らくは永遠に———。
いかに幸せに満ちようとも、工藤平太に空いた狂気の腔は埋めることが出来なかった。
前回の辺見瑠香と同様に、やはりサイコパスに救いの手を差し伸べることなど無意味なのだろうか?
それが真実だというのならば、やはりこの世界はあまりにも残酷である。一人の常人が、誰しも起こり得る不幸の連続によって、狂気の腔へと堕ちてしまうのだから。
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