Sanctus 2

 帰還したエレナの報告を聞いて、セリナはうなだれていた。予想よりも近くに「零式」がいること、そして——オリガは彼女を守りきったことを自らの前に突きつけられてしまったからだった。

「どうしたの?」

 どうやら思っていた以上に表情に出ていたようで、珍しくハルカが心配の言葉をかける。その反応に多少の苛立ちを覚えながらも、彼女はいつになく、無難に——決して器用とはいえないまでも、ハルカに悟られない程度には無難に隠した。

「ううん、なんでもない」

 出撃の前日に、オリガと訓練をしたのは、エレナはもとより、ハルカにも黙っていた。そうするように彼女に言われていたのだ。


「セリナ、頼みがあって」

 セリナが自室に戻ろうと、螺旋階段を上ろうとしたときに、オリガに呼び止められた。彼女の橙色の髪の毛と、紫色の瞳、人なつっこい丸顔と真紅の鱗は遠くからでもよく目立つ。エレナと同じく、モスクワ詰所ステーションから転属となった彼女は、エレナとは対照的で、最初から誰とでも仲良くできるような性格だった。実のところ、セリナにとってはエレナよりも苦手な存在ではあるのだが、どういうわけかオリガはセリナによく訓練を申し込んでくるので、距離を置くにおけない関係である。

「どうしたのさ」

「……訓練、つきあってほしいんだ」

 セリナは、その緑色の瞳をオリガにまっすぐ向けた。

「そんな顔しても、言いたいことはわからないんだけど?」

「ああ、ごめんごめん。いや、いつも思ってんだけど、あたしより適役がいるんじゃないの、って思ってさ。半人前チェラヴィエクだし」

「——姉様シィストラがまた、そんなことを?」

 オリガの顔が曇る。

 それを見て、セリナはなぜか焦ってしまうのだ。

「あ、いや、でも判ってるんだ、あたしも生まれつきの人には勝てないって」

「そんなことはないよ。現に、君もハルカもとても強いじゃないか!」

 でも、明らかに彼女たちとは基礎体力が異なる、とセリナは思う。ハルカほど顕著ではないにしても、鱗の耐久力も回復力も、紫色の瞳をした、生まれながらの彼女たちより明らかに劣っている。それは、「V」というシステムそのものの欠陥でもあった。一度普通の人間として生まれついてしまうと、その後にドラゴンの遺伝子を付与されても、その適応に個人差が出る上、生まれながらにして遺伝子を付与されている彼女たちを超える適応を持たないのだ。

「僕は、姉様シィストラが誰よりも好きだし、愛しているけれど……それでも、君やハルカたちを半人前チェラヴィエクと呼んでいるのは直してほしいな。君たちが持っている、色とりどりの瞳が僕は好きなんだ」

「オリガって、いっつも素敵なこと言うね」

「それが僕の役目だからさ——さ、行こう」

 オリガはセリナの手を取って、優美に歩き始めた。こういうところが、セリナの苦手とするところだった。

 エレナたちと異なり、オリガもセリナも副長なので、屋外訓練場で訓練を行うには、それぞれの部隊長の許可が必要になる。だから、彼女たちは詰所ステーション内に設けられた通常の訓練場を使用する。

 鋼鉄の扉を開けると、寒々とした風が彼女たちに流れこんだ。鉄筋コンクリートに仕切られた殺風景な空間のあちこちに、錆びた鉄骨が配置されていた。中央には半径三メートルの円が引いてある。

「さて、始めようか」

 オリガは対竜装フォースを纏い、大鎌サイスを広げた。セリナも短い尾から鉈を抜く。

 両者は、ほぼ同時に地を蹴った。

 数回直線的に彼女たちはぶつかるが、すぐに決着がついてしまう。


「いつも思ってるんだけど……」

 大鎌サイスをセリナの首もとから外しながら、オリガはばつの悪い顔をする。

「手加減してるわけじゃ、ないんだよね?」

 セリナの鉈はあまりにも短すぎて、オリガには届かない。

「あたしがそんなこと出来ると思う?」

「でも、セリナは優しいからさ……」

 今まで、優しいという言葉を聞いたことがなかったので、セリナは思わず吹き出した。

「ああ、そうか。セリナはハルカがいないと力を出せないんだっけ?」

「そんなんじゃないって!」

「でも、ハルカが『V』になるから、セリナも志願したんでしょ?」

「そ、そうだけど……」

 セリナの目がほんの少し泳ぐのを見て、オリガは優しく微笑んだ。

「羨ましいよ、そういうのが」

 分厚い鋼鉄の床に三角座りをして、オリガは溜息をついた。

「僕らは生まれつき、身体にあらゆる感情を植え付けられてしまっているから、どれが本当の気持ちなのかわからないんだよね。だから、そうやって自分で簡単に決断できるのが羨ましい」

 そんなの、あたしたちだって同じだよ。

 とは吐き捨てられないセリナは、いつものように自己嫌悪した。言うなれば、その自己嫌悪の積み重ねで彼女はここまで生きてきたようなもので、だけれどオリガはそれを、大変だったと許してくれはしないのだった。

「でも、僕が姉様シィストラを守りたいという気持ちは、きっと条件付けじゃないって、そう思えるし、姉様シィストラはそう思わせてくれる大事な人なんだ。だから、僕はたとえ自分が倒れることになっても、姉様シィストラを守りたいんだ。……そんなことを言ってても、戦場ではきっと自分の身を最優先に守っちゃうんだろうけどね」

 オリガは悲しそうに俯く。彼女たちに施された条件付けは単純であるが故に強い。均整のとれた手足を覆う真紅の鱗。そのきめ細かさは、彼女が普通の少女だったとしても美しい肌を持っていただろうと思わせるほどであった。

 紅色が、どこか自分たちが流してきた血の隠喩のような気がして、セリナは目を伏せた。

「僕は——」

 不意に、オリガは立ち上がった。

「今度の敵は『罪竜グリェシュニク』で間違いないと、思っている」

 姉様シィストラはそこまで確信していないみたいだけど、と溜息を吐くように軽い言葉を付け加えて、オリガはセリナを見つめた。

「そうしたら、第三部隊はどうしたって大きな損害を受けるだろう」

「だったら、エレナを止めればよかったのに」

「本当にそう思う?」

 紫色の強い視線が、セリナを射抜いた。

 自分だったら止めただろうか、と一瞬考えて、セリナは言葉に詰まった。

「僕の役目は、『罪竜グリェシュニク』から姉様シィストラを引き離すことにあると、思うんだ」

 セリナはエレナのあの剣幕を思い出した。白銀のドラゴンと対峙した彼女は、間違いなく後先考えずに吶喊するだろう。セリナでも容易に想像がついた。

「——オリガは、命を捨ててまで、エレナを守れるの?」

 ふとした疑問が、セリナの頭の中をよぎった。紫色の瞳を持つ彼女たちは、自分の身を守る本能を過剰なまでに強く条件付けされていたはずだった。他の兵士を庇うことなど、想像がつかない。

「——わからない。けれど……僕はやらなくてはならないんだ」

 彼女の決意は誰にも止められないように、セリナには思えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る