第16話
そう言えば……。
医務室から出た俺達は、馬鹿話をしながら分かれ道まで来ていた。近藤達が練習をしているグラウンドと、校外へ出る門への分かれ道。
じゃあな、と手を上げかけた俺は、ある事を思い出した。
「なあ、キンちゃん、俺の噂って聞いた事あるか?」
俺は、岩久間さんが言っていた言葉を思い出していた。俺が結構有名、って何だ?
「ん? んあー……」
近藤は俺から目を逸らすと、在らぬ方向を向いたまま、困ったように頬を掻いた。
「やっぱり聞いた事があるんだな」
質問と言うより、確認の口調で畳み掛ける。
「んー、まあ、気にすんなって」
笑って誤魔化そうとする近藤の首――というか頸動脈を腕で絞め上げつつ、怒らないから言ってみろ、と続けた。
「ギブ、ギブ!」
近藤は俺が絞め上げている腕を叩いて、訴えた。
「言う! 言うから外せ!」
尚もバシバシと俺の腕を叩いていた近藤から希望通り腕を外すと、逃げないように、そのまま肩を組んだ。
「いやー、実はカタやんってば、柔道でちったぁならした腕だって事くらいだよぉ」
……確かに、それならば身に覚えが無い訳ではないが、それだけではないと近藤の怪しい視線が告げている。
「それから?」
「え? カタやん、それだけだよぉ。う、疑り深いなぁ」
近藤よ、そのうわずった声が全てを台無しにしているぞ。
「近藤君、友達だよなぁ」
「んあ? ああ」
「だったら言えるよなぁ、本当の事」
先の首絞めの位置にさり気なく腕の位置を戻す。
すると近藤は、渋々言った。
「キレると手がつけられないって。キレて喧嘩相手を半殺しの目に遭わせたって聞いたんだよぉ。それで、柔道を辞めさせられたんだって。……違うんだろぉ?」
確かに違う。あれは柔道の試合中の単なる事故だった。
あの時俺は、裸絞めという技を掛けられていた。プロレスでいうところのチョークスリーパー。息が出来なくて掛けられた相手が落ちるという代物。実はさっき近藤に掛けた技も、これだったりする。勿論、かなり手加減はしていたが。
元々、寝技が嫌いな俺が、相手に潰され亀のように防御した所を背後から腕で頸動脈を絞め上げられたのだ。
どう足掻いても、外れそうにないくらいガッチリと技が掛かっていた。苦しくて、このまま死んでしまうのではないか――と、思った事までは覚えている。
しかし、実はその後の記憶がぽっかりと空いているのだ。
後で人に聞いた話によると、俺は何とか時間一杯で技を外し、組み直した次の瞬間、相手を投げていたのだそうだ。その際、相手は運悪く足を骨折してしまった。ただそれだけの話だ。別段、誰も俺を咎めなかったし、骨折した当の本人も俺を恨んじゃいなかった。とは言え、俺が自己嫌悪に陥らなかったとは言わないが。
けれど、そんな事が原因で柔道を辞めた訳じゃない。あの時、思い出してはいけない過去を思い出してしまったのだ。俺が殺されかけた過去を。生きる為に、身体が勝手に動いたのだ、と気付いた。
だから辞めた。次にまた同じような事が起きたら、と不安になった。無意識に相手を殺してしまうかもしれない、と。
「カタやん?」
物思いに耽っていたらしい。
近藤が目の前で手をヒラヒラとさせていた。
「大丈夫か?」
「ああ、すまん」
「落ち込むなよぉ。誰もこんな話、信じてないんだしよぉ」
ガシッと、両肩を掴むと、近藤は言った。一応、慰めてくれているらしい。
「いや、落ち込んではないんだが……」
「で、実際の所はどうなんだ? 相手は死んだのか?」
……おめぇはよぉ。
「勝手にひとを犯罪者にしてんじゃねぇよ。それにだいたい、柔道やってたのに喧嘩なんてしやしねぇよ。柔道の試合中に、相手が足を骨折しただけだってぇの」
俺の返事を聞いた近藤は、ちぇっ、と舌打ちをした。
近藤、お前ってやつぁよぉ。
「つか、あれか? カタやん、ひょっとして強かったのか?」
今、初めて気が付いた的な顔をして、近藤はまじまじと俺を見た。
「まぁ、人並みに、かな」
「その言い方は相当つえぇな? ……だからかぁ!」
と、握り拳をもう片方の掌で打つという、漫才でしか見た事のない納得のポーズを見せた。
何が、だからなんだ?
「そうかそうかぁ」
当の近藤は、うんうんと、独り納得している。
「なぁ、何だよ」
「ん? あー、すまんすまん」
近藤は笑って謝ると言った。
「この噂、格闘系のクラブから流れてきてたからさぁ。お前、入学した頃、勧誘された事あるだろぉ?」
「ああ、あるよ」
……今もだけど。
「やっかみだ、やっかみ! 気にすんなって。それにおめぇ、この噂って、大学入って直ぐの頃の話だぞぉ。……んでもよぉ、何で今頃んな事聞いてきたんだぁ?」
「いや、岩久間さんがさっき俺が有名だって言ってたから気になってな」
「岩久間さんが? もうとっくの昔に賞味期限が切れてる話だぞ? て言うか、これって一部の格闘系クラブの野郎しか聞いた事無い噂だと思うんだがなぁ……」
……アメフト部は何時から格闘系のクラブになったんだよ。
「いずれにしろ、気にする程の話じゃねぇだろぉ? 誰も信じてねぇしなぁ。俺なら気にしねぇぞぉ。お前も気にするな」
そう言ってバシバシと豪快に俺の背中を叩くと、笑って去って行った。
ったく、他人事だと思いやがって。
……少しは手加減しやがれ、ってぇの!
苦シイヨ。息ガ出来ナイヨ。誰カ、助ケテ――。
その夜、久々にあの夢で目が覚めた。今日、近藤と話していた為に、思い出してしまったに違いない。
そう、俺が幼稚園に上がる前、もう何年も昔の悪夢。久々過ぎて、恐怖は感じない。ただ感じるのは不快感のみ。
この不快感には身に覚えがあった。時折寝覚めに感じる不快感と同じだ。何時も夢の内容までは覚えていないが、起きた時に感じるそれは、今感じている物と間違いなく同じだった。
忘れていたと思っていたのだが、案外俺もナイーブだったようだ。
苦笑をもらしつつ、俺は汗をかいたTシャツを脱ぎ捨てた。素肌に感じるひんやりとした空気が心地良い。
冷蔵庫から冷やしておいた麦茶のピッチャーを取り出すと、コップに並々と注ぐ。それを一気に飲み干すと、部屋の窓を開け、暫くボーッと夜景を眺めた。
何と言う事のない景色。けれどその現実がしみじみと安心感を俺に与える。
生きているという当たり前の現状が、何と不思議で有り難い事なのだろうか。
俺の父親は、裁判官をしている。今はとある高裁に勤めているが、俺が巻き込まれた事件当時は、地方の地裁に勤務していた。
その事件は、とある小さな町の町議会から始まった。後に国会を巻き込む黒いスキャンダルとして世間を揺るがす一大事件へと発展する、そんな事件の始まりだった。
けれど、親父が担当していた時点では、単なる小さな町の談合事件に過ぎなかった。
後々大事件となる地裁判決の前日、事件は起こった。俺が誘拐されたのだ。
犯人の要求は、ズバリ明日の判決の無罪。
犯人は、この時点では何の関係も無い筈の真面目な会社員達だった。
しかし一旦膿が出始めたら止められなくなるのもまた真実。ある大物国会議員の圧力で、事件に関わったある小さな会社が社員数名で起こした事件だった。
結局、俺を誘拐した事で彼等は墓穴を掘る事となった。予想もしていない政界の汚職が明るみに出る事となったのだ。
そして、犯人等が警察に逮捕される直前、何を思ったのか中の一人がパニックに陥って俺の首を絞めたのだ。
それまで、皆親切だった記憶がある。中には当時の俺くらいの年頃の子供を持っている人間もいただろう。
中でも一番俺に親切だった男――今の親父と同じ位の歳の男が、俺の首を絞めたのだ。泣きながら、『ごめん』と何度も謝りながら。
苦しくて息も出来ず、もがいても男の腕から抜け出せず、もう駄目だと思った。そうこうしている内に、俺の意識が途切れた。
新聞記事等によると、直後に踏み込んだ警察によって俺は助け出されたらしい。しかしその時点で、俺の呼吸は既に止まっていたというのだ。直ぐに蘇生処置が施された為、今、こうして俺は生きている。
事件後、生きて行く為に必要な事だったのだろう。俺はその時の記憶をあの柔道の試合で思い出すまで、すっかり忘れていた。試合の後、色々と調べて知ったのがこの程度。
何度か両親に尋ねてみようと思ってはみたが、流石にそれははばかられた。
そして俺は、柔道を辞めた。
もしまた柔道で同じ状況に陥ったとしたら、生きる為に今度こそ殺してしまうかもしれない。殺意は無くとも、自分が生きる為に、百パーセント以上の力で戦ってしまうかもしれない、と。
事件の後、両親と叔父の強い勧めで柔道を始めたのだが、身を守る程度には強くもなっていたし、自分にはこれだけの力があれば充分だとも。
その時気付いたのだ。この事件があったからこそ、両親が俺を過保護なくらい心配し続けて来たのだろうという事。そして、俺が霊を視始めたのもこの事件以降だという事に。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます