第13話
何時もならやむを得ず裸眼の日は必ず塩を用意しているのに、今日に限って持っていなかった。
……参ったな。仕方がない。取り敢えず先ずは触ってみるか。
いや、触ってみた所で、俺には御祓いの才能がないから、どうなるモンでも無いが。
とは思うのだが、保に憑いた奴の目を保から逸らす事くらいは出来るかもしれない。実際、根拠は無いが、俺の全身の開き切った毛穴が保の体調不良の原因はこの影だと告げている。
仕方が無い。最悪、俺に憑いちゃったら、どっかで祓って貰えば済む事よね。
俺は心の中で、渋々財布の中身と涙の別れを告げと、指をポキリと鳴らした。
ええい、ままよ!
意を決して、保の背中に触れた俺は、触れた指先から焼け付くような痛みを感じた。かと思った直後、俺の全身に激しい悪寒が走る。と同時に激しい吐き気に襲われた。今までに経験した事の無い程の不快感だった。
しかし、直ぐにその不快感が治まると、指先に感じた痛みも嘘のように治まった。
隣にいる当の保を見てみると、その甲斐あってか、保の背中からはさっきの影が消えていた。
祓えた……のか?
俺は驚いて自分の手をまじまじと見詰めた。そう言えば、さっき感じた寒気や鳥肌も、今はきれいさっぱり感じなくなっている。
何かに憑かれた時に感じる馴染みのある倦怠感や吐き気すらも感じない。
「ちょっと、片瀬君、何をやっているの?」
岩久間さんが、不思議そうな顔で俺を見ていた。彼女だけではなかった。吉元さんや保までもが、俺を怪訝そうに見ている。
「や、まぁ、な、何でもないって」
慌てて執り成したものの、三人は相変わらずうさん臭い物でも見るかのような顔をしていた。
とほほほほ。
「あの、ところで新山さん、そろそろ医務室に行かれた方がいいんじゃないですか?」
吉元さんの心配そうな声に、皆の視線が俺から逸れた。
ううう。偶然とは言え、ありがとう、吉元さん!
「もー、そんな大層な。たいした事あらへんのに」
等と、言いつつも、慎重に立ち上がった保は、自分の身体の変化にやっと気付いたようだった。
「ん? あれ? 何や? えらい身体が軽うなったみたいやねんけど」
首をグルリと回し、ゆっくりと左右に傾ける。保の首からは、ゴキリと骨の鳴る鈍い音がした。
「あり? 頭が痛かったんも治ったみたいやわ。……何や、単なる偏頭痛やったんかなぁ」
と、呑気な口調で言った。
「偏頭痛って、新山君、貧血で倒れたんじゃなかったの?」
岩久間さんの言葉に、保は軽く頷いた。
「ああ、貧血な。まぁ、貧血やって言わはったんは吉元さんやしなぁ。……実は俺、貧血になった事、今までいっぺんもあらへんから、あれが貧血なんかどうなんか、よお分かれへんねんよ」
と、困ったように頭を掻いた。
どうなの、吉元さん――とばかりに、俺と岩久間さんが彼女の方を見ると、彼女は真剣な面持ちで保を見ていた。
「新山さん、そんな事ないですよ。あれは確かに貧血です」
「だってよ、たもっちゃん」
「そっかぁー?」
「そうです。だって前を歩いてらした新山さんが、突然倒れられたんですよ」
おいおいおいおい、とツッコミを入れる勢いで保に向き直った俺達は、態とらしく笑っている保に出会した。
「やー、最近、よお寝れてへんかったしなぁ。単なる寝不足やったんちゃうかなぁ」
「かなぁ、ってお前なぁ」
「本当に大丈夫なの? 一応、医務室に行っておいた方がいいんじゃない?」
「そうですよ。医務室に行きましょう、新山さん」
「もー、皆心配症やなぁ。大丈夫やって! ほら!」
昔からよく思うんだが、ドラマや漫画なんかで元気をアピールする時って、何でラジオ体操の真似事をするんだろうな。今、正にそれを行っているお前って、つくづくベタベタだぞ。
呆れていると、保の携帯が鳴った。二言三言相手と言葉を交わすと、慌てた様子で言った。
「すまん。急にバイトが入ってしもうたみたいやわ。悪いけど、俺、行くわ」
ここから逃げ出せるのが嬉しいとでもいうように、いそいそと立ち去ろうとする。
「余り無理するなよ」
「わあーっとおって! ご心配には及びません、って!」
「新山君、それって説得力無いから」
俺が口にしたのかと思った程の適格なツッコミ、ありがとう、岩久間さん。
それに対し保は、酷いなぁ、等と笑ってみせただけだった。
まあ、でも何時もの保に戻ったとみていい、か。
「あ、吉元さん、さっきはほんまにありがとうな。今度何か美味いもんでも奢ったるからな」
明らかに体調が良くなった保の姿を目にしても尚、心配そうな様子の吉元さんに気付くと保は言った。
「いえ、そんな」と、彼女が恐縮している間に、保ははち切れんばかりの笑顔で手を振って去って行ったのだった。
「で、何の話だったっけ?」
台風一過。
残された俺と岩久間さんは、大きな溜め息を吐いた。
一気にドッと疲れが俺達に伸し掛かって来た気がするのは、気のせいだろうか。
吉元さんは、あれから直ぐに次の講義があるからと、去って行った。
俺達二人は、泣く泣く――と言うよりは喜んで次の講義を自主休講にする事にし、遅い昼食をとるべく学食に向かっていた。
「あれよ。例の新山君に纏わる噂の話だよ」
ああ、と頷いてはみたものの、何処まで話していたのか、すっかり忘れてしまっていた。
えーっと……。
「私ね、片瀬君からメールを貰って、皆に聞いて回りながら考えていたんだけどね」
学食の自販機で食券を買いながら岩久間さんは言った。
「今流れてる噂の大半は面白半分か、新山君に邪な気持ちのある人間が流したデマだと思っていたんだよね」
「んー、確かにそれは言えてるかもな。……あ、オバサン、俺カレーライスね」
「はいよっ!」
厨房の中から気持ちのいい声がした。
俺達は買った食券を持って、カウンターに寄り掛かった。
「今でもね、そう思ってはいるんだよ。でもね、皆の話を聞いていたら、何かこう、全部が全部単なる偶然と言うには無理がある気がしてきたんだよね。片瀬君はどう思う?」
「俺か? 俺は……」
「はい、お待たせ! うどんとカレー上がったよ!」
「早っ!」
俺達は同時に調理のオバサンにツッコミを入れながら、それぞれ笑って食券と食べ物を交換した。
沈んでちゃ、いい考えも浮かばないってなもんだ。
オバサンに感謝しつつ、俺達は人が疎らになった学食の隅のテーブルに腰を落ち着けた。
「まあ、作為的な物は感じる、かな」
カレーライスを一口口にしてから俺は答えた。
「作為的?」
チュルルルル――ってな具合に、うどんを可愛らしく啜った後、彼女は俺の言葉を繰り返した。
「作為的って、どういう事?」
「んー、あれだよ。つまりな、普通、何か変な事に遭遇したとしても、『誰それと関係あるから』とか、『誰それかのせいで』なんて、噂が起こる事って、先ず無い筈なんだよ」
「あ……。そう言えばそうだよね」
「だろ?」
俺は再びカレーを口にしながら考えをまとめるように、ゆっくりと咀嚼する。
「あ、なぁ、声以外に皆何か言ってなかったか?」
俺はもう一つ気になっていた事を尋ねるべく再び口を開いた。
「何かって?」
「ほら、誰かに押されたからコケたとかみたいな」
「ん? あーーーーーっ!!」
突然叫んだかと思うと、慌てて携帯を開いた。
「ごめん! 噂にも上ってたから、すっかり言うのを忘れてたよ」
メールを確認したらしい岩久間さんが言った。
「皆、災難に遭った時、誰かに押されたか引っ張られたかしたんだって」
「やっぱり」
俺は食べ終わったカレー皿を押しやりながら溜め息を吐いた。
「これで犯人らしき人物を見てる人が一人でもいれば、犯人を見付けて万事解決なのにねぇ」
同様に食べ終えたうどんの丼を押しやると、頬杖を突いて岩久間さんが言った。
確かに、彼女の言う通り……って!?
「何、やっぱり誰も何も見てないんだ?」
「うん。残念ながら、ね。傍目には皆勝手に転んだように見えていたみたい。んもー、違うのにぃ」
はあ、と、食堂中に聞こえるような大きな溜め息を二人して吐いたのだった。
その日、四限目の講義を受講後、家に帰ろうと大学の最寄り駅に入って行くと、見知った人間がいるのに気が付いた。吉元さんだった。
彼女は一人でホームに立っていた。電車が来たら、直ぐに乗車出来る位置に――電車待ちの列の先頭にいた。手には文庫本を持っている。紙製のブックカバーのせいで、何の本を読んでいるのかまでは分からなかった。
俺自身、手持ち無沙汰だったので彼女に声を掛けようかとも思ったが、あんなに本を一生懸命読んでられちゃあ、声を掛けるのも申し訳ない。
俺は彼女の並んでいる列の最後尾に並ぶと、何とはなしに彼女を見ていた。
すると、変な事に気が付いた。
何処からともなく、霧のような黒い影が、彼女の周りに集まり始めたのだ。最初は、余りにも薄過ぎて気付かなかったのだが、その色の濃さは徐々に増していくように思えた。
ホームには学校帰りの学生達を含め、沢山の人間で溢れていたが、誰一人としてその事に気付いている様子はなかった。
当の吉元さんはと言えば、チラリと見える横顔から判断するに全く気付いていないらしく、本を読みながら必死に笑いを堪えている風であった。
何も起こらなければいいのだが……。
俺は彼女から目を離すまいと、列から外れ乗車口が止まらない誰もいない――彼女の斜め後方へと移動した。
『間も無く、二番線に列車が入ります。ご乗車される方は、白線の内側に下がってお待ち下さい』
ホームにアナウンスが流れ、俺のいるホームの人間がそわそわし始めた頃、それは突然起こった。
不意に霧状の物が、墨を流し込んだかのような濃い影に変化したかと思うと、一瞬にして塊となって彼女に襲いかかったのだ。
「危ない!!」
考えるよりも先に身体が動いていた。
黒い塊に突き飛ばされた彼女の身体が走って来た電車に向かって飛び出す。
と、同時に、俺も線路に飛び込む。ホームに落ちた彼女の身体を抱え込み、そのままホーム下の空間に転がり込んだ。
直ぐ側を列車が軋るような音を立てて止まった。腕の中で吉元さんが恐怖の余り声を出せないでいた。俺自身、今まで一度も電車を恐いと思った事等無かったが、電車がこれ程大きく凶器然としているとは……。
時間の経つのがやけに遅く感じた。
沢山の人間が見守る中、俺達は駅員や乗客達に助け出された。
ショック状態に陥り泣きじゃくる吉元さんは、そのまま病院に一人搬送される事になった。足も酷く捻っているらしく、歩く事すら困難な様子だった。
俺はと言うと、未だざわつくホームで、他の目撃者と一緒に事情を聞かれる事となった。
面倒な事になったな……。
「貧血だと思いますよ」
人間、時として嘘をついた方がいい事もある。
俺は無表情に――かつて柔道の試合の対戦相手に見せた、俗に言う人殺しの目付きで――言った。
「そ、そうですか」
案の定、俺に質問してきた駅員は目を逸らした。
「他の方はどうおっしゃってるんですか?」
「皆さん、あなたと同じで、彼女が貧血を起こしたように見えたとおっしゃっていますね」
やはり誰にもあの影は見えていなかったのか。いや、実際見えていた所で、言う人間はいない、か。
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