第11話

「……う」 

 彼女が小さな唸り声を発した。俺は慌てて一時思考を中断する。 

 俺同様、頭を打ってはいないとは思うのだが、気を失っている彼女の頭を取り敢えず俺の膝に載せ、携帯電話で誰かに助けを求める事にした。 

「えっと……岩久間さんあたりが無難、かな」 

 そう呟いて、ジーンズの前ポケットから携帯を取り出して初めて、俺は不自然な事に気が付いた。今、ここにいるのが俺とミサという娘の二人だけだという事に。 

 これって、尋常じゃないんじゃないの? ついさっきまでは講義が終わったばかりで周囲に人が溢れていたというのに、今のこの状況は何だ? 嘘みたいに人の気配を感じない。と言うか、無い。しかも何故だか音っこともしない。 

 普段生活していると、何かしらの生活音が耳に入って来るものなのに、今はそれすらも聞こえない。耳が痛くなる程の静寂が辺りを支配していた。 

 何かが俺達の周りを取り囲んで外の世界を遮断しているかのような、妙な錯覚に陥る。生まれてこのかた他人以上に妙な経験を経て来た俺ですら、こんな経験は初めてだった。 

 何か……が、いるの、か? 

 口に出していたらしい。俺の独り言が耳に入ったのか、膝に横たわっていた彼女が、動いた。 

「おい、大丈夫か?」 

 俺の問い掛けに二三度瞬きをすると、彼女は目を開けた。 

「あ……」 

 彼女はぼんやりとした視線を俺に向け、俺の顔をまじまじと見た後、慌てたように身体を起こした。 

「あ……や……す、す、す、すみません!」 

 怯えたように俺から視線を逸らすと、彼女は言った。 

 ……そんなに怯える程恐い顔なのか、俺って。 

 俺は顔で笑って心で泣いて――ってな心境で、大丈夫かと再び彼女に問うた。 

「あ、え、は、はい。だ、だ、だ、大丈夫ですっ!」 

 何故か焦って彼女は答えた。 

『ちっ』 

 彼女の返事に呼応するかの如く、近くで舌打ちする声が聞こえた。まるで耳元で言われたかのような近さだった。 

 反射的に振り向くも、そこには誰もいなかった。気のせいか、と思っていると、ミサという彼女も、怯えたように周囲を見回していた。 

 空耳じゃ……ないのか? 

「お、片瀬、んなトコで何してんだ? そっちのは彼女かぁ? 片瀬も隅に置けないねぇ」 

 不意に同じ学部の野郎に声を掛けられた。 

 見るとさっきまでいなかった筈の学生達が、俺達二人の周りを遠巻きに見ている。 

 いったいどうなっているんだ!? 

「おい、いつまでもこんな所でイチャついてないで、いい加減立ったらどうだ?」 

 苦笑混じりの声に、んなんじゃねぇよ、と否定しながら立ち上がる。次いで、ミサという娘の腕を取り立ち上がらせた。その手にはしっかりと何かが握られているようだった。 

「ちょっと、時間あるかな?」 

 彼女にだけ聞こえるように、耳元で囁く。それに彼女は無言で何度も首を縦に振った。 

 な、何、この娘? そ、そんなに恐がらなくてもいいのに……。 

「おい、片瀬、この荷物、お前のか? ……って、んな訳ねぇか」 

 明らかに女物の手提げ鞄と分かるそれを掲げた別の野郎が声を掛けてきた。 

 俺自身、今襷掛けにしている鞄がある。違うと一応返事をしようとしたら、彼女が私のですと小声で言った。 

「おい、片瀬、この眼鏡、ひょっとしてお前のか?」 

 彼女が鞄を受け取っていると、これまた別の野郎が眼鏡らしき物を掲げてみせた。 

「げ! マジかよ」 

 俺は力無く呟くと、ノロノロと俺の眼鏡だった物の残骸を受け取った。道理でさっきから視界が妙にクリアーだと思ってたんだよ。階段から落ちた際に、眼鏡を飛ばしてしまったらしかった。しかも飛ばした時の衝撃でフレームは曲がり、レンズも片方にはヒビ、もう片方は割れるといった惨事に見舞われていた。 

 ……ったく、いったい俺が何をしたって言うんだ? 



「はい。紅茶で良かったかな」 

 中庭にあるベンチに彼女を誘った俺は、自販機で買って来た缶紅茶を彼女に手渡そうとした。 

 しかし彼女は俺を恐れているのか、ベンチに腰掛けたまま受け取ろうとしなかった。やれやれ。 

 俺は彼女の座っているベンチの上に缶を置くと苦笑しながら言った。 

「良かったら飲んで」 

 そう言いながら、彼女の前にしゃがみ込んだ。 

 さて、彼女に何処から話を聞けばいいのやら。 

 そう言えば、さっきから彼女が握り締めている物は何なのだろう? 

 何時もならば、赤の他人の私物に興味等持とう筈も無いのだが、今日に限っては気になって仕方がなかった。何か、胸騒ぎのような物を感じる。 

「ちょっと、変な事、聞いてもいいかな?」 

「え、あ、はい!」 

 弾かれたかように、彼女が答えた。 

 相変わらずの彼女の怯えように、寧ろこちらが怖じ気付いてしまいそうになりながら質問してみる。 

「君、さっきから右手に何か握っているよね」 

「え? ……あ」 

 言われて初めて気付いたらしい。彼女は握り締めたままだった自身の右手の拳を見た。彼女が拳を開くと、かなり力を入れて握っていたらしく、掌にはしっかりと爪の跡が付いていた。 

「……これって」 

 その掌の中から出て来た物は、茶色い石だった。その石には一本の筋が入っており、表面には金で出来た蔓と葉が絡み付いている。 

「ストラップの先、かな?」 

「……ペンダントトップかも」 

 石に金具が付いた為、それは単なる石ではなく、アクセサリーの一部だと分かる。 

 次の瞬間、彼女は火傷でもしそうな勢いで、パッと放り出した。 

 反射的にそれをキャッチすると、俺はマジマジとそれを見た。 

 どうって事の無いただの石だ。なのに何でこんなに気になるのだろう……。 

「じゃあ、誰の?」 

 俺の問い掛けに、彼女は首を左右に振った。 

「……分かりません」 

 ぽつりと、彼女が言った。先程、落ちそうになった時、咄嗟に何かを掴もうとして掴んだのだと思うとも。 

「誰か、いたの?」 

「分かりません。でも……」 

 そう言ったきり、何故か躊躇ったように彼女は黙り込んでしまった。 

「……あー、ねぇ、ところで君、例の噂知ってるよね?」 

 話を促そうにも、何を話せばいいのか分からず、気が付けば俺はそう口にしていた。 

「噂……ですか?」 

「そう、噂」 

 そう言いながら、この内気そうな彼女にストレートに尋ねていいのかと、一瞬、躊躇した。 

 しかし、どのみちいずれは本人に聞いてみなくちゃならないと思っていた話だ。俺は思い切って尋ねた。 

「保……新山に関わったら、災難に遭うっていうあれ」 

「……ああ」 

 予想していた通りの反応だった。 

 この『ああ』には、知ってはいるけど関わりたくはないんだよね的な深い意味が込められているように感じる。 

「聞いたんだけど、君も災難に遭った一人、なんだって?」 

 俺の言葉に、彼女が固まった。 

「詮索するようで悪いんだけど、その時の状況を教えて貰えないかな? ほら、俺、一応新山の友達だし……」 

 心配なんだ、と続けようとしていた俺の耳に、蚊の鳴くような声が入って来た。 

「……違います」 

「え?」 

「違うんです!」 

 初め、聞き間違いかと思ったが、次に彼女は力一杯否定した。 

「え、それってどういう事?」 

「だから違うんです! あれは角田さんが偶然転んだだけなんです!」 

 俺の方が戸惑ってしまうくらいの勢いで一気に話すと、彼女はとうとう泣き出してしまったのだった。 

「じゃあ、あれは単なる事故だった、って訳だ」 

 暫くして泣きやんだ彼女――吉元実沙(よしもと みさ)さんに、俺は言った。 

「はい。角田さん、濡れた渡り廊下で滑って転んだんです。その日、一時的に雨が降ったんで、それで廊下が濡れてたんだと思うんですけど」 

「あの日って?」 

「あの、片瀬さんも見てらしたと思うんですけど。……新山さんと話をした日です」 

「見てたって……。ごめん。えっと……もしかして保とメアドの交換の話をしてた日?」 

「はい、その日です。私、新山さんと話をしたのって、数える程しかありませんから、間違いないと思います」 

 かなり必死な様子で彼女が言った。 

 ……けどそれじゃあ、一連の保災難説としては成り立つんじゃねぇのか? 

「それに、滑ったって言っても、よくある不注意にしか過ぎない事でしたし、噂にあるような話なんかじゃないんです、本当に」 

 俺が考え込んでいる間も、彼女は喋り続けていた。 

 何なんだろう、この彼女の必死さは。 

 俺は首を捻りつつも、気になっていた事を彼女に尋ねた。 

「けど角田さんって、あの時、君と一緒にいた娘だよね? 彼女が、その話を吹聴してるとも聞いたよ」 

 俺の言葉に、彼女はああ、とばかりに脱力したかのようだった。漫画なんかでよく見る顔に縦線がかかったような状態、とでも言えば分かり易いかもしれない。 

「それならどうして君はその話を否定しなかったの?」 

「……言えるような雰囲気じゃなかったから」 

 黙り込んだ後、彼女はポツリと言った。 

「雰囲気じゃなかったって?」 

「私、その噂が流れ始めて、暫く経ってから知ったんです。でも、もうその頃にはかなり噂が大事になってて」 

「それで違う、って言えなくなったんだ?」 

 その言葉に、彼女はコクリと頷いた。 

「たまたまその噂を初めて聞いた時、角田さんもいたから……本人を目の前にして違うだなんて、言えなくて。でも、嘘に荷担するのも嫌だし、それで……」 

 再び泣き出した彼女の頭を思わずポンポンと軽く叩いた。 

「辛かったな。でも、よく我慢したな」 

 その言葉に、彼女はピクリと身体を震わせた。 

「本当に、ごめんなさい!」 

 一瞬、泣き止んだのかと思ったのだが、反対に号泣し始めたのだった。 

 な、何で? 何でこうなるの!? 

 それでも何とか彼女に泣き止んで貰う事に成功した俺は、今度はさっきの事故に関して尋ねた。 

「……あの、信じて貰えないかもしれないんですけど、あの時誰かに背中を押された気がしたんです」 

 かなり言い難そうに、彼女は言った。 

 ……また? 

 俺が聞いた人間は皆一様に誰かに押された“気がする”と言っている。しかも皆、押したとされる人間を見ていない。気のせいかも知れないという前提も一緒か……。 

「いや、信じるよ。君はそんな事で嘘をつくような娘じゃないだろ」 

 俺の言葉に、必要以上に涙腺が緩んでいたらしい吉元さんの目が再び潤んできたのに気が付いた。 

 あわわわわ! 何でよ!? まずいぞ、俺!! 

「ほ、他に何か気付いた事ってない?」 

 慌てて思わず質問をした後、実は本当に聞きたかったのだと気が付いた。彼女は嘘は吐いていないかもしれないが、まだ全ては語っていない。 

「……他に気付いた事、ですか?」 

「うん。君、さっき、何か言い掛けて止めたよね?」 

 質問の何に反応したのか……。 

 彼女は何かに気付いたかのように、一瞬大きく目を見開いた。 

「あ……でもきっと気のせい、だし」 

 ゴクンと彼女が喉を鳴らす音が聞こえた。 

 本当に嘘のつけない性格なんだな。 

「気のせいでもいいって。教えてくれないかな?」 

 俯いていた彼女は、ゆっくりと顔を上げると俺をじっと見た。そして何やら決意をしたらしい表情をみせると、重い口を開いたのだった。 

「声が、聞こえたんです」 

「声?」 

 彼女は力強く大きく一つ頷いた。 

 確かにあの時、俺も聞いた気がしたのだ。若い女の声を。 

「女の人の声だったと思います」 

 ビンゴ! やっぱりあれは空耳なんかじゃなかったんだ。 

「ねねね、何て言ってたか、分かる?」 

 残念ながら俺には聞き取れなかったが、もしかして、という思いで尋ねる。 

「……ええ、まぁ」 

 彼女は実に渋い顔をして口籠った。 

 それでも俺が期待に満ちた眼差しで待っていると、渋々といった体で答えた。 

「『このブス』、って言われました」 

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