第十一章 そして全てはその光の中に

     1

 主審の笛の音が鳴り響き、後半戦が開始された。


 残り時間は四十五分。

 その時間が尽きた時、今年のリーグ戦を泣いて終えることになるのか笑って終えることになるのか、はっきりすることになる。


 石巻いしのまきベイスパロウは、後半戦の開始と同時にメンバーを入れ替えた。


 ぼうきぬ イン

 さねあいつみ アウト


 前半戦の終了間際にレッドカードを受けて退場したCBセンターバツクもとハルの位置に、そのまま谷保絹江が入った。


 一枚減った前線はそのままで、つじうちあきのワントップとした。


 ワントップ適性としては美摘のほうがあるのだが、ささもと監督としては秋菜の持つ機動力やゴールへの嗅覚に賭けたのだろう。このようなチーム状態であるためFWフオワードに訪れる決定機など実に数少ないものの、秋菜は毎年のように他クラブからオファーを受けている優れた選手であるのだから。


 秋菜ワントップの利点は、もう一つ考えられるだろう。

 美摘が長身であるが故に、時間が経過するほどに焦って単なる放り込み作業になってしまい、神戸SC相手にそれでは絶対に点など入らないからだ。


 さて、その後半戦の経過であるが、最低でもあと三点を取らないとベイスパロウの降格が決定するというのに、前半戦となんら変わることはなかった。つまり、神戸SCが圧倒的に攻め続ける展開のままであった。


 神戸SCに、必死さはまるで感じられない。

 練習さながらの気楽な雰囲気でボール回しをしているようであり、ベイスパロウとしてはそれがまた厄介でもあった。


 笹本監督のプランとしては、こちらが先制された以上は、相手はそれほどには攻めてはこないだろう。そう考え、ある程度はボールを保持して、押し返すことも出来るのではないかと考えていたのであるが、実際は正反対であった。神戸SCはボールを繋いで繋いで、折あらばどんどんと攻め込んでくる。


 神戸SCにとっては、相手に退場者が出ているのだからもう失点の心配などせずに、点を取れるだけ取ってやろう、と、ボーナスゲームのつもりでいるということか。


 しかし、

 攻め込む神戸SCと、自陣にべったりのベイスパロウ、エンドが変わった以外には前半戦となんら変わらない構図ではあったが、だが少し視点を変えて見ていたならば、前半戦とは明らかに異なるものがあるのが分かったはずであった。


 それは、ベイスパロウの選手たちの表情だ。

 疲弊し切った、苦しそうなその表情は相変わらずであるが、その奥底に、かすかな希望のようなものが感じられ、そしてその、かすかでしかない希望を、叶うと心から信じている。選手たちの苦しそうな顔から、そのような気持ちが伝わってくるのである。


 見ていて、気持ちのよい顔であった。

 顔の表情だけではない。お互いに掛け合う言葉も、前半戦より明らかに数多く、声大きいものになっていた。前半戦などは、時の経過とともにどんどん少なく、小さくなってしまっていたというのに。


 そうした明らかな相手の変化に、楽しくパス回しをしている神戸SCの選手たちはまだ誰も気が付いていないようであった。


 例え気が付いていたとしても、なんら動じることも、策を講じることもなかったであろうが。

 当然だ。

 毎年残留争いしているような弱小軍団がなにを画策してこようと、正面から堂々と叩き砕くだけの実力が、自分たちには備わっている。現実として自分たちは後半戦のこの時点で二点をリードしており、そして選手の数も一人多いのだから。

 楽しんでボールを回し、隙を見て切り込み、ゴールを狙う。ただ、それだけだ。


 そんなオーラを放つ神戸SCの選手たちの中で、一人だけ異質な空気を身にまとっている者がいた。


     2

 チョ・ウンミである。

 いまにも怒鳴り散らしそうな、感情をぐっと押し殺しているような顔。その感情のエネルギーがあまりに膨大であるがためか、押し殺し切れていないどころか、麻痺でもしているかのような歪んだ表情になってしまっていた。


 そうした気持ちは、顔の表情だけでなく行動にもはっきりと表れていた。

 プレーが荒くなっていた。

 そして、焦っているのか、とにかく自分でいきたがる。ボールを運びたがる。味方に制止されない限り、どこまでもボールを追おうとする。


 前半戦終了間際の、PK失敗によるショックからまだ立ち直れていない、ということであろう。おそらくは。


 かどうかは分からないが、もとあかねはそう考えている。


 誇り高き優秀な民族である自分が、日本人ごときに尊厳を傷付けられた。そのことに我慢のならない彼女は、雪辱を果たすためのゴールをとにかく奪いたいのだろう。


 プレーの途切れる都度、「大丈夫だから。普段通りにやれば絶対に点は取れるから」と、味方になだめられるほど、熱くなっていた。

 チョは片言の日本語で鼻息荒く、分かってると返すが、行動を見る限り全く分かってはいないようであった。


 相手をする身としては、普段通りのチョは怖いが、このようにカリカリとしているチョもまた相当に厄介であった。


 後半戦から戦術を変えて、チョに対してだけはほぼマンマーク気味にもとあかねが付いているのであるが、食らいつくのが精一杯で冷静に状況を見渡す余裕など全く持つことが出来なかった。

 チャンスが少ないからこそ、奪った後は冷静に組み立てたいのに、ただ蹴り飛ばすのが精一杯で、ことごとくを相手に拾われてしまっていた。


 チョは小柄ゆえの長所というべきか非常に敏捷性が高く、切り返したかと思うと瞬時にトップギアに入るため、茜は何度も抜かれかけた。


 対応するに慣性の法則を筋力でねじ曲げなければならず、その度に足首の筋が悲鳴を上げたが、なんとか耐え続けた。


 出場機会こそなかったが、自分だってなでしこジャパンに選出されたことがあるのだ。茜はそう自分を奮い立たせ、チョに食らい付き、食い止め続けた。


 一度、審判の見えない角度で脇腹に肘鉄を受けたが、茜は苛立ちを飲み込み、耐えた。こっちが思わずやり返して一発退場になるのを狙ったのだろうが、そうはいくか。

 ファールを受けたアピールすらもしなかった。

 頻繁にメディアに取り上げられる存在であることが審判の心理に影響を及ぼすのか分からないが、とにかく神戸SCは有利な判定を受けることが多い、と陰でささやかれているからだ。

 本当かどうかは知らないが、もしそうであるならば、誰にも見えていなかったファールについて苦情だけをいっても、審判の自分への心象が悪くなるだけだ。


 我慢し続けることで調子に乗ってどんどんラフプレーを乱発してくれるんなら、むしろこっちに好都合。審判がしっかりとジャッジしてくれるのならば、の話だが。


 チョに対して激闘を繰り広げる茜であったが、他の選手たちも同様に、やはり防戦で手一杯ではあるものの神戸SCを相手に一歩も引かない粘りを見せていた。


 しかし、やはり単なる実力としては相手が一枚も二枚も上であり、決定的なピンチを何度も作られていた。


 運も手伝ってなんとかボールを奪い取ることに成功したてらなえであったが、相手の連動した守備に、あっという間に奪い返された。


 奪い取った神戸SCのさわれいは、すぐに斜め前にいるコン・ミギョンへ送る。そしてコン・ミギョンからまた斜め前のたかりようへ。


 ボールを追ってベイスパロウの選手が次々と挑みかかるが、まるでラグビーの速攻のような、走りながら横へ横へのパスワークで神戸SCはするりするりと上がっていく。


 高井遼子はFWたかさきりようとのワンツーでぬのようをかわし、CBでありながら流れの中から完全にサイドを突破。素早くクロスボールを上げた。


 ゴール前でもつれあいながらも、神戸SCのとおのぶがマッチアップするぼうきぬをかわしててタイミングよく飛び込み、思い切り頭を叩き付けていた。


 至近距離から猛烈な勢いのヘディングシュートがゴールへと襲い掛かったが、ここでGKくすもとともは、笹本監督の認める潜在能力の高さを発揮してみせた。しっかり的確にポジショニングを取りつつ、シュートが放たれたその瞬間に、優れた動体視力と反射神経とで弾道を見切り、すっと横へ動きつつ腰を落としてキャッチ。胸の中に抱え込んだ。


 決定的な場面を防いだことに、場内から拍手が起きた。


 友子は、ほっと大きく息をはいた。


     3

 ボールを抱え、左腕を大きく上げて合図をすると、軽く助走し、持っていたボールを落とし、蹴った。


 もう、こっちに来るな!


 そう心の中で叫んだくすもとともであったが、すぐ自分の弱腰を恥じた。


 何度こっちに戻ってきたって、絶対に防いでやる。


 そう、心の中で修正した。


 ……でも、なるべくなら、あっちで戦ってよ……頼むよ、みんな。


     4

 さて、ともがそんな自分の弱さと葛藤しながらも全力を振り絞って必死に戦っているその頃、ベンチにおいても真剣な戦いが行われていた。


 ささもと監督とえのきコーチが、タブレット端末を操作して、専用アプリで布陣のシュミレートを行っているのだ。

 紙にプリントしてある相手選手の詳細データと見比べながら。


えいを出すなら、たえとだろうけど、ダナエと交代してあかねのワンボランチもいいかも。基本べったり引いてていいから、ボール持ったら、こう、英子が全体の中央にくるようにして」


 榎本コーチが、画面を二本の指でなぞりながら、選手を示す背番号の書かれた赤い丸を次々と移動させている。


「いや、それだと奪われた時にぽっかり空いたところを使われて、一気に攻め込まれるだけだ」

「そんなの茜に走り回ってもらえばいいでしょ。リスク追わずに逆転なんか出来るはずないでしょうが」


 などと二人が熱いやり取りをしているその隣では、先ほどからがピッチに向かってうるさいくらいの大声を張り上げている。


「チカちゃん、そこだ! 追え! 負けんじゃねえぞ! 茜ぇ、てめえ茜! 奪え! ……あ、コーチさあ、その布陣だけど、そこ二人で挟むよりも、縦の関係にしてさ、誰が交代すんのか知んねえけど、それをトップのほうに近付けた方がいいんじゃない?」


 ピッチにいる仲間を怒鳴り声で応援しながらも、時折タブレットを覗き込んでは二人の会話に加わっていた。


「むー。しかし」


 などと、なにを提案をしても決断しかねて首を横に振る笹本監督。


 その態度に、榎戸コーチがすっかり痺れを切らしてしまっていた。ロッカールームでは、若い子がいっぱいいるからってあんなカッコイイこといってたくせに、と聞こえるような聞こえないような声を発していたかと思うと、


「ほんっと煮え切らない男!」


 突然、イライラした表情を隠しもせず大き声で自分の膝をばんと叩いた。


「ねーっ」


 優衣と榎戸コーチは、お互いの顔を見ながら女の子同士(?)らしく小首を傾げて頷き合った。


「クマちゃんさあ、要するに戦術云々ってことよりも、最後の一人に誰を出すかってことだろ? 決められないでいるのは。違うか?」


 優衣は単刀直入に質問した。

 流れを変えるためのキープレーヤーとして、誰を投入すべきなのか。結局、取る戦術というのは、それによって自ずから決まってくるのではないか、ということだ。


 次の一人で交代枠を使い切ることになるため、監督としても安易に決めることが出来ないでいるのだろう。


 あとベンチに残っている選手は、

 万能タイプのFWであるとくやまかん

 組み立てが上手なMFしばえい

 そして優衣の三人である。


「優衣、お前、やってみるか?」


 自らと、目の前の相手の決意を確認するかのように、熊のごとくずんぐりむっくり剛毛の男は、ゆっくりと、低いしゃがれ声で尋ねた。


 その言葉を受けた優衣は、特に驚いたわけではないがほんの少しだけ間を置くと、にんまりと楽しげな笑みを浮かべた。


「いつやんだよっての。ここでやんねえでさ」


 立ち上がると、黒いジャージのズボンを脱ぎ、上着を脱いだ。


「優衣、あたしらの分も、頑張れよ」


 柴野英子が優衣の頭の上に手を置いた。


「おう」


 全身オレンジ色のファーストユニフォーム姿になった優衣は、ピッチ脇のスペースへと進んで、そこでアップを始めた。


 試合はまだ0-2のまま。

 ベイスパロウは粘りの守備を続けており、進展無しという意味で試合は膠着状態であった。


 点を取るために、これから優衣が投入されるわけだが、果たしてそれが試合の流れにどのような変化をもたらすことになるのか。これは一種の賭けであった。

 少なくとも現在のこの膠着状態は崩れることになるだろう。

 以前の優衣は、ボランチも出来るくらいに守備能力も高かったが、現在の優衣はほぼ攻撃一辺倒であるためだ。


 一種、両刃の剣的なところのあるものの、でも確かにこの状況で勝機を見出だすには、優衣が一番適任なのかも知れない。


 連係や守備に少し難があるものの、以前までの致命的な欠点だった気の弱さはもうすっかりなくなっているし、ここ最近、素晴らしい個人技も見せてチャンスに絡んでいるし、うるさいほどの元気は他の選手たちも良い影響を与えているようであるし。


 と、監督はリスク承知で優衣を選んだのだろう。


「暴れてこい!」


 笹本監督は、もじゃもじゃの腕を組みながら、優衣の背中へと声をかけた。


「監督命令とあれば」


 振り向いた優衣は、悪戯っぽい表情で軍人のような敬礼をした。

 す、とピッチへ向き直る。


「お疲れ、タエちゃん」


 優衣は右腕を高く上げた。

 小走りに寄ってくるぬまたえ。十一月の東北の切れるような寒さの中であるというのに、彼女はすっかり汗だくになって、大きく肩で息をしている状態であった。


「あと、任せた、よ」


 あまりの疲労に、足元がふらふら。優衣へハイタッチを返そうと手を上げるが、タッチし損ねてよろけ、倒れそうになった。


「分かった。ベンチでゆっくり休んでな」


 両手で妙子の肩を掴んで、支えてあげた。


「ありがと。大丈夫だから」

「そう? じゃあ、ちょっくら行ってくらあ!」


 後半戦、十六分。

 こうして背番号17、篠原優衣がピッチへと投入されたのであった。


     5

 はピッチへと入ると、全速力で自分のポジションへ。

 交代したぬまたえと同じ、右SHサイドハーフだ。


「ヤッホーみんな! お待たせちゃあん!」

「バーカ」


 両腕を振り回しながら楽しげに叫んでいる優衣に、もとあかねが早速、歓迎の荒い言葉をブン投げた。


 ベイスパロウのスローインである。

 てらなえが、両手に持ったボールを軽く助走を付けて投げた。


 つじうちあきが、右足を軽く上げて受ける。

 ターンし、前を向こうとするが、神戸SCのたかりようがすっと寄るほうが早かった。


 秋菜は身体を使ってキープしようとするものの、高井遼子に半ば強引に足を入れられ、ボールは跳ね上がっていた。


 そのこぼれを拾ったのは、優衣であった。

 これが本日の記念すべきファーストタッチであったが、しかし高井遼子にどんと肩を当てられ、よろけた拍子に奪われてしまっていた。


「ったく」


 苦笑する優衣。


 こいつの……おれの、この身体……がっちり鍛えてやって多少は改善されたと思っていたけど……


 優衣は困ったような、楽しいような、そんな薄笑いを、その顔に浮かべていた。


 なにが優衣なのか考えろ。


 以前に西にしひさにいわれた、その言葉を思い出していた。

 そして、走り出していた。


 スライディングでチョ・ウンミからボールを奪った野本茜は、優衣の前方を目掛けて強く蹴っていた。


 後方から飛んでくるロングボールを、優衣は一切振り返ることすらせずに、足の甲でトラップしていた。そしてそのまま、速度を落とさず走り続けた。


 斜め前から向かってきた神戸SCのDFふかがいを、全く速度を緩めることなくすっと横へ動いてとかわすと、相手の守備陣形が整う前に前線へアーリークロスを上げた。


 それを感じて走っていた辻内秋菜が、自慢の俊足を加速させてゴール前へと迫る。

 神戸SCのGKやまのぼりことが飛び出したが、先にボールに触れたのは秋菜であった。


 足でトラップするや切り返してGKをかわしてガラ空きのゴールへズドン、という算段でいたのかも知れないが、しかし受け損なってボールは転がりゴールラインを割った。


「エロ姉ちゃん、いいよいいよ! その調子!」


 優衣は叫びながら、頭上で両手をぱちぱち叩いた。


「試合中にそう呼ぶな!」


 秋菜は顔を赤らめ声を裏返らせて怒鳴ったが、すぐに落ち着いた真顔になって、


「優衣ごめんね、せっかくいいパスくれたのに」


 謝った。


「いいんだよ。次、次! 試合が終わるまでに三回決めりぁあいい。それだけのことなんだから」


 優衣のそのあまりにも楽観的な言葉に、思わず秋菜の顔に笑みがこぼれていた。


 神戸SCゴールキック。

 GKの山登真琴は、ボールを置くと、左から右へと前方を見回しながら怒鳴り声を張り上げた。


「おい、相手に舐められてんぞ! もっとやる気見せろ!」


 逆立った短髪や大柄な体躯にふさわしい野太い声であった。

 彼女はボールを転がし、DFの深貝百合江へと送った。

 戻しやがったら承知しねえぞ。怒らせた肩が、そういっているようにも見えた。


 そのおかげ、ということもないだろうが、深貝百合江はボールを受けるなり攻撃的にチョへと縦パスを送った。


 しかし、そのパスは通らなかった。

 いままさにチョ・ウンミへと渡るという寸前に、野本茜がボールとの間に素早く入り込んで奪っていたのだ。


 茜は、すぐさまヒールで前方へと転がした。

 寺田なえは、突然のことにちょっとびっくりしたようであったが、しっかりと足でトラップして、すぐさまドリブルで上がり始めた。


「茜ちゃんは守備に残ってて! ダナエどんどん上がれ! みんなも! エロ姉はダナエともっとくっ付け!」


 優衣は走りながら大声で叫び、先ほどの監督たちとのやりとりを、選手たちに短い言葉で指示していった。


 寺田なえはボールを持ち、中央を駆け上がっていく。


 深貝百合江が正面から迫って来る。

 なえは寄られる前に、斜め前方へ、辻内秋菜を走らせるようなパスを出していた。秋菜を信頼しているのか躊躇いなく、強く。


     6

 感じていた。

 秋菜は、背後などまったく確認していないのに、てらなえのパスを感じ、自慢の俊足をさらに加速させていた。

 疲労に萎えそうな気力を、なんとか振り絞って。


 後方からのボールがするすると秋菜を追い越した。

 それを受け、そのまま走り続けた。


 芝を蹴る重たい足音。ちらり振り返ると神戸SCのDFであるたかりようなかすみの二人が、必死に追い掛けてきていた。相手の予期せぬプレーに焦って、ボールしか見えていないようである。 


 舐め切って集中を切らしてるから、そうなるんだよ。

 秋菜はそう心で不敵に笑いながら、PAペナルテイエリアに入るか入らないかというところで真横へとボールを転がしていた。


 西にしひさが走り込んでいた。

 ふかがいに背中を引っ張られながらも、久子は右足をダイレクトで合わせていた。


 だが、角度がなさ過ぎた。ニアに寄ったGKやまのぼりことの、ど真ん中だ。山登真琴は少しだけ腰を落とし、胸の前に両手を広げ、構えた。


 楽々とキャッチ、と見えた瞬間、突然ボールがガクガクとぶれ出し、キーパーグローブを弾いていた。

 この至近距離からの力強いぶれ球が、狙いなのだとすると、実に素晴らしい久子の技術であった。


 その、弾かれ落ちたボールに秋菜が素早く詰め寄っていた。

 がら空きになったゴールへと蹴り込もうとするその瞬間、ダイビングのようにボールへと飛び付いた山登真琴が、かろうじて指の先端を当てて弾き飛ばした。


 すぐさまそれを追う秋菜であったが、ようやく駆け戻ってきた神戸SCのDF中田真澄が、かろうじてゴールラインへと蹴り出して逃れた。


「ああ、惜っしかったああ」


 腕を振り下ろし、残念そうに笑う秋菜。


 だが、まだチャンスは続いている。

 ベイスパロウのCKコーナーキツクだ。


     7

 が、小走りにコーナーへと向かった。

 後半二十二分、これがベイスパロウにとってこの試合で最初のCKであった。


 ボールパーソンの女の子からボールを受け取った優衣は、セットすると、三歩、四歩と後ろへ下がった。


 どんどんどん、両サポーターの太鼓の音が響いている。

 両サポーターの、応援の声が響いている。


 神戸SCゴール前は、敵味方が混然とひしめき合う状態、優衣はその中にいる仲間たちへと手を上げて合図を送ると、ゆっくりと助走し、振り下ろした足でボールをこすり上げた。


 ふわんふわん、と傍目に実に頼りないボールが上がった……のであるが、


「よっしゃ!」


 優衣は足に得たその感触に、宙を見上げ、思わず拳を握り、改心の笑みを浮かべていた。


「なんだ、ありゃ」


 ゴール前では神戸SCのなおもとすみが、鼻で笑っていた。

 直本だけではない。ふかがいも、なかすみも、さわれいも。


 当たり前だ。

 これはプロリーグではないものの、国内のトップリーグなのだ。それなのに、学び始めの小学生でもやらないようなキックミス。彼女たちからすれば「もしふざけてやっているのなら、サッカーを真面目にやっている者への冒涜だ」と怒ることなく、笑ってあげているだけ感謝して欲しいものだ、というところであろう。


 しかし、これはミスキックなどではなかった。

 これこそが、ベイスパロウが反撃の狼煙を上げたその第一歩だったのである。


 無回転で力なく飛んでいたボールは突然ぶれ始め、空中に静止したかと思うと、ゴールニアの位置でいきなりすとんと落下した。


 そのようなボールの変化を予想していたとでもいうのか、もとあかねが、後ろから飛び込んできていた。


 まさかこのようなボールがくるなどとは、神戸SCの誰も予想していなかったことだろう。驚愕、狼狽の表情が選手たちの顔に浮かんでいた。


 しかし、ニアにも神戸SCの選手はいる。なかすみとコン・ミギョンが、ボールへ飛び込もうとする野本茜へと身体を当てて、がっちりとブロックしていた。


 茜はガツガツと激しく身体をぶつけられて、揉まれ、転びそうになったが、歯を食いしばり気力と体力を振り絞り、一歩飛び出していた。


 飛んで来るボールに頭を叩き付け……いや、すぐ眼前にGKが構えているのを視界に入れると、少し身を低くして頭頂でボールを受け、その瞬間に身体を捻り、首を振り、擦らすように真横へと送っていた。そのまま二人のDFに後ろから押され、茜は潰れた。


 6番(野本茜)のヘディングシュートに備えていたGK山登真琴は、完全に意表を突かれたようで、慌てた様子でボールの行方を視線で追った。


 山登真琴にとっては味方のクリアを信じるしかない状況であったが、しかし、ボールの飛ぶ先にいたのは敵、石巻ベイスパロウのつじうちあきであった。


     8

 あきは、飛んで来るボールをしっかり見据えた。


 急にボールがQBKなどと心が焦ることもなく、というよりそんな暇もなく、身体が自然と反応していた。

 たかりように袖を引っ張られながらも、秋菜は、飛んで来るボールにタイミングを合わせて、頭を叩き付けていた。


 GKのやまのぼりことが横っ飛びをしてきたが、その指先を、ボールはすり抜けていた。


 秋菜の視界が、不意にぐるんと回転した。

 前への推進力と、DFに片腕を後ろに引っ張られていたことによるもので、倒れながらゴールの中に飛び込んでいた。


「あづっ!」


 肩を打ちつけた激痛に呻いた。

 身体に、なにかが当たっていることに気付き、手を伸ばし、触れてみる。それは、ボールであった。


 秋菜はゆっくりと上体を起こした。そして、自分がゴールの中にいることを認識した。

 改めて、手元のボールを撫でた。


 ここにこれがある。と、いうことは……

 ということは!


 びっくりした表情で、顔を上げた。

 そして、近くに立っている仲間たちを見回し、その姿、その表情を確認した。


 ベイスパロウの選手たちは、みな呆然と突っ立っている。

 仲間だけではなく、神戸SCの選手たちもまた、同様であった。


 静寂を打ち破ったのは、しのはらの叫び声。


「アッキーちゃん! ナイスゴーール!」


 優衣はそう叫びながら、秋菜へ向けて右拳を前に突き出した。


 誰かが口に出すまで、みな、目の前に起きたことがとても信じられなかったのだろう。

 目の前に起きていること、それはどう見ても間違いのない現実だというのに。

 それほどに、信じがたいことが起きたのである。


 優衣のその声が引き金となって、呆然とした状態から我に返ったベイスパロウの選手たちは、突然に爆発し、狂ったような大声を上げていた。


 そんな仲間たちの態度に、秋菜も一瞬目を大きく見開くと、朝寝坊に気が付いた時よりも遥かに勢いよく立ち上がり、両手を天へと突き上げ、そして心の底から絶叫をしていた。


 秋菜は仲間たちに取り囲まれていた。


「アッキー、よく決めた!」


 ぼうきぬが、秋菜の頭を掻き回した。

「追加点、頼みますよ!」


 てらなえが、背中を強く何度も叩いた。


 ドンドンドンドン、と鳴り響く太鼓の音。ベイスパロウゴール裏にいるサポーター二十人の、悲鳴にも似た、歓喜の叫び。


 しかし、それらを全て掻き消すかのように、相手の百人いるサポーターによる神戸コールが轟いた。


 神戸SCのGK山登真琴は、ゴールの中に転がっているボールを拾い上げると、わざわざ秋菜に肩をぶつけて前へ飛び出し、大きくボールを蹴ってセンターサークルへと戻した。


 秋菜たちもすぐに駆け戻った。

 そう、喜んでいる暇はない。残り時間に焦るべきは、むしろこちらのほうなのだから。


 神戸SC、とおのぶのキックオフで試合再開だ。


     9

 とおのぶはくるりと振り返ると、戻すようにすぐ後ろにいるたかさきりようへパス。


 そこへ西にしひさが突っ込んでいき、プレッシャーをかけた。


 高崎涼子は、躊躇なく最終ラインのふかがいへと戻した。

 CKで、相手(篠原優衣)の蹴り損ねが逆に災いして不運にも失点したものの、うちの3バックは鉄壁だ。守りは硬いし、そこからしっかりと組み立ててくれるから、戻すことへの抵抗はない。というところであろう。


 ふかがいからさわれいに繋がり、そこから縦パスで一気になおもとすみへ。ベイスパロウのプレッシャーを受けると無理せず反転、コン・ミギョンへと戻し、そこから前線の遠野信子、また戻して沢田麗奈へ。


 沢田麗奈は、突然ロングボールを前線へと送った。


 ベイスパロウDFぼうきぬなかけいの間から抜け出した直本香純が、ゴール近くに落ちたボールをトラップせずにダイレクトにシュート。


 完璧に枠を捉えていたが、ベイスパロウのGKくすもとともがしっかりとキャッチした。


 やはりというべきか、神戸SCは失点前と変わらずどんどんボールを回し、支配し、安全を確保しつつも隙あらば攻めてくる。


 だが……

 一見、実に成熟された見事なパスワークではあるが、選手たちから隠し切れない幾ばくかの動揺が滲み出ているのを、ベイスパロウの選手たちはみな、肌で感じ取っていた。


 うちらみたいな激弱のチーム相手に、失点したからだ。と。




 まずは粘って一点もぎ取ろうよ。

 そうなりゃあ向こうさん、うちをすっかり嘗めきってるもんだから、うろたえて勝手に崩壊するぜ。

 そんで最後にはうちの方がパスサッカーであいつら翻弄して、逆転勝ちだ




 ハーフタイムにしのはらの発した台詞がまさに暗示となって、ベイスパロウの選手たちはよりこの試合への自信を強めつつあった。


 その自信が、すっかり疲労している選手たちの身体に、不思議な活力を与えていた。


 その活力に後押しされて、持てる力以上のものを発揮して、神戸SCへと食らい付き続けていた。


 現在後半戦二十六分、残り時間はあと二十分しかない。

 選手たちの中に勿論のこと焦りはあるはずであるが、しかしここで攻め急いではいけない、じっくりと耐えて時がくるのを待たなくては、と、攻守の意識を乱すことなく守備的に戦い続けた。


 優衣から監督の戦術を伝え聞いたキャプテンもとあかねの指示もあるだろうが、それがなくとも無言の共通認識として選手たちは耐え凌ぐことを選択していただろう。


 自信を得た、現在だからこそ。


     10

 ボールを持ったとおのぶが、ドリブルで半ば強引にベイスパロウの守備陣を突破しようと突き進んできた。


 CBのなかけいが肩を軽く当て、ボールを奪おうと足を突き出す。


 とおのぶはターンでかわそうとしたが、ボールタッチを誤り、二人の足に蹴飛ばされたボールは軽く浮き上がり、落ちて転がった。


 そのボールを、ぼうきぬが拾った。

 怒ったような形相でチョ・ウンミが猛進してくるが、絹江はそれをかろうじてかわし、受けに寄ってきたもとあかねへとパスを出した。


 茜は、前へ振り向くと同時に爪先でボールを蹴り上げた。浮き球になったボールは、チョ・ウンミの頭上を飛び越えて、へと落ちた。


 優衣は、右足を上げてトラップしたその瞬間に、さわれいの激しいプレスを受けた。だがここで、優衣は観客を沸かせるプレーを見せた。すっと素早く回転して、戸惑う相手を一瞬のうちに抜き去ったのである。


 十代の頃から三十四歳の今日までフル代表で活躍し続けている、百戦錬磨の闘将である沢田麗奈は、ぽかんとした表情で突っ立っていた。自分が高校生の小娘などのルーレットに見るも簡単に突破されたことを、信じることが出来なかったのだろう。


 優衣はドリブルでぐんぐん進みむと、みなが自陣に引いて守っている中でひとり前線で張っているつじうちあきへと、速いグラウンダーのパスを送った。


 秋菜は、小走りに戻りながら受けたが、その瞬間、背後からガツンと激しい衝撃を受けてよろけていた。


 神戸SCのDFたかりようが密着していた。秋菜の両肩を押さえ付けて、股の間に自らの足を突き入れて、ボールを蹴り出そうとする。


 かなり強引であり、審判によってはイエローカードを出してもおかしくないようなプレーであったが、浜野まどか主審はファールすら取らず流し続けた。


 秋菜は高井遼子のラフプレーに耐え続けながら、必死にボールキープをして仲間の攻め上がりを待った。


 左サイドを、西にしひさが疲労困憊といった苦しそうな表情で駆け上がってきた。

 慣れぬポストプレーながらもなんとか粘り抜いた秋菜は、ようやく上がってきてくれた味方へとパスを出した。


 西田久子はボールを受けると、スペースを見つけて一気に中央へと切り込んでいった。


 神戸SCのDFふかがいが、PAペナルテイエリア内への侵入を阻もうと久子の前に立ちはだかった。


 ほんの一瞬ではあったが、二人による火花の散るような読み合いが展開され、勝利したのは久子であった。

 足の裏でボールを転がしたかと思うと、逆をつくことなくそのまま一気にゴール真正面へとトップギア。一種フェイントのフェイントとも呼べる駆け引きによって、相対した神戸SCのDFを振り切ったのである。


 そして走りながら身体を強引に捻ってシュートを打った。いや、打とうとした。その直前に吹っ飛ばされたのだ。


 危機を察知してボールを掻き出そうとしたなかすみのスライディングタックルを足に受けて。


 宙を舞った久子の身体は、次の瞬間、背中から地面に叩き付けられていた。

 激しく呼気を漏らすと、苦痛に顔を歪め、右足首を押さえて転がった。


 笛の音が鳴った。

 主審がイエローカードを高く上げている。中田真澄のプレーに対し、出されたものであった。


「おい、久子ちゃん、大丈夫?」


 優衣は駆け寄ると、軽く屈んで手を差し伸ばした。


「自分で、立てるから」


 久子は膝に手をつき、ゆっくりと起き上がった。

 とんとん、と爪先で地面を蹴り、右足首の具合を確かめた。


 そして、優衣の顔を睨み付け、


「それと、ちゃん付けはやめろ」


 蹴られた足や転ばされた背中が、まだ相当に痛むのだろう。それなのに苦痛を我慢して普段通りの冷たい表情や態度を作ろうとしている久子の姿に、優衣は知らず知らず嬉しそうな笑みを浮かべていた。


     11

 ベイスパロウはFKフリーキツクを得た。

 ゴールの側から向かって右斜め。PAペナルテイエリアのすぐ外だ。

 キッカーのは、地面にボールを置いた。


 視界が急激に暗くなってきた気がして、優衣はふと空を見上げた。

 朝からどんよりと曇っていた天気であるが、いつしか黒い雲が幾重にも折り重なって、いまにも雨が降り出しそうなほどになっていた。


 視線を元に戻した。

 ボールを踏み付け、ゴールを見据えた。


 神戸SCのGKやまのぼりことが、怒鳴り声をあげながら、味方に細かく指示を出して壁の位置を調整している。


 優衣の近くになおもとすみが立っていたが、主審に距離不足を注意されると、苛立ちに地面を蹴り付けて、数歩退いた。


 笛が鳴った。

 優衣はゆっくりとボールとの距離を空けると、ゆっくりとボールへと走り寄った。


 そして、渾身の力を込めて足をボールへと叩き付け、ゴールへ向けてズドンと豪快に蹴り込んでいた。

 それと同時に、味方の選手たちが一斉に屈んだ。

 ボールはミサイルのように低く速く、てらなえの頭上を越えた。


 神戸SCの選手たちはおそらく、完全に油断をしていた。

 まさかこの17番がこのようなボールを蹴るなど、誰も想像していなかったのだろう。舐めていた、というよりはその反対で、それほどに、先ほどのふわふわCKにやられたダメージが大きかったのだ。


 ボールは、ゴール隅を狙って弾丸一直線。

 見事ゴールネットに突き刺さった、かに見えた。

 しかしさすがは山登真琴、日本女子代表の正GKである。素早く横へステップを踏んだかと思うと大きく横っ飛びをし、がっちりと両手の中に捕らえていた。


 だが次の瞬間、神戸SCの選手たちが自らの目を疑うような光景が。

 山登真琴は、落球していたのである。

 無回転のボールがキャッチ寸前にぶれ出して、しっかりと掴まえ切れなかったのだ。


 こぼれをクリアしようとする高井遼子と、ねじ込もうとするせんチカ、二つのぶつかりあう力に揉まれたボールは高く跳ね上がっていた。


 落下地点にいち早く走り込んだのは、FKを蹴った優衣であった。胸でボールに触れると、そのまま走り抜けた。


 ゴール前の密集の中に単身を踊り込ませ、ボールを足の甲でちょんと跳ね上げ、地面を右に左に転がし、相手の股を抜き、身体を回転させ、突破を阻止しようと勢いよく突き出されてくる足をことごとくかわし、ボールにかすれさせることすらもなく、一瞬のうちに突き抜けていた。


 世界レベル、そういっても過言でない素晴らしいプレーに観客席からどよめきの上がったその瞬間、優衣は冷静に、ボールをゴールの中へと流し込んでいた。

 それと同時に、斜め後ろから直本香純に突き飛ばされて、よろけ、転んだ。優衣の切り返しに対応出来ず、思わず手が出てしまったのだろう。倒れた優衣の上に、直本香純の身体がのしかかるように重なってきた。


「重たい、邪魔! 痩せろ!」


 優衣は腕立ての姿勢で上体を起こし、首を持ち上げた。

 そして、目の前に転がっているボールが、ゴールラインを越えていることを確認した。


 同点に……追い付いた……


 ベイスパロウの選手、そしてサポーターが一心同体となり、爆発した。

 ピッチと、そして観客席のほんの一角ではあるが、素晴らしい同点ゴールに歓喜の渦に包まれていた


 優衣も、のしかかっていた元日本代表の身体を押し退けて立ち上がると、飛び上がって喜んだ。

 そこへあき、なえ、ようが次々と抱き着いてきた。

 だが……


 場内が、騒然となっていた。

 そして、その理由に気が付いたベイスパロウの選手たちからも、次々と喜びの表情が消えていった。喜びが消えたどころか顔面蒼白になっている者もいた。

 主審が、ゴール無効のジャッジを下したのである。


「これ、どういうことですか?」


 ベイスパロウのキャプテンもとあかねは、主審へと近づくと、その前に立った。

 食ってかからんという勢いを必死に内面に押し殺し、冷静さを保ちながらも、キャプテンとして最低限毅然とした態度を保ち、詰問をした。

 冷静さを保つ自信があってのことか、傍目からは分からなかったが。


 ゴール取り消しの理由であるが、優衣が相手を引っ張ったことによるファールを取ったとのこと。

 後ろにいる相手選手を引っ張ってわざと倒れ、後ろから押し倒されたと主張することによりPK判定になるのを狙ったプレーとみなし、笛を吹いたとのこと。


「抜け出して、がら空きのゴールだったんだから、そんなことするはずないでしょ!」


 茜は語気を荒らげた。


「瞬間的にそんな冷静な判断が出来ると思えません。最初から、引っ張って相手のファールを誘うつもりだったとしか思えない」


 と、浜野まどか主審はなおも自論を主張し続けた。


「そもそも、おれがいつ引っ張ってた? 後ろから突き飛ばされてのっかられたけど、それ以外に、接触した記憶なんかねえぞ! 録画されてんだろうから、ビデオ見てみろよビデオ」


 優衣もこればかりはさすがに頭にきて、茜に肩を並べて、主審に詰め寄っていた。

 ベンチからささもと監督もやってきて、猛烈な勢いで抗議をしたが、主審は篠原優衣が後ろの選手を引っ張ったの一点張りで聞き入れない。


 結局、茜は冷静さを保てなかった。主審に掴みかかってしまい、イエローカードが出された。

 ベイスパロウの選手たちが一斉に殺気だったが、しかし茜の受けたカードが抑止力となり、みな、押し黙ってしまった。


 当然のことではあるが、ベイスパロウの関係者で、この判定に納得のいく者は一人も存在していなかった。

 間違いなく、優衣のゴールは決まっていた。


 主審は優衣のファールというが、ファールを受けたのは優衣のほうだ。

 だから仮にそのシュートが決まっていなかったとしても、PKを獲得出来たはずだ。


 それが何故、流れからのゴールが認められなかったどころか、PKにすらならないのか。


「雰囲気ジャッジもいい加減にしろよ。強いチームの贔屓ばかりされたら、弱小チームはどうやって勝てってんだよ!」


 なおも笹本監督が執拗に抗議をするが、それでも判定は覆らなかった。


「しつこいですね、退席処分にしますよ!」


 主審としても、おそらくは正しいジャッジを心掛けてはいるのだろう。ただ、神戸SCというビッグネームに、どうしても心が無意識に影響を受けてしまうのかも知れない。


「なにお前のほうが怒ってんだよ! だから女の審判なんてレベルが異常に低……」


 激昂する笹本監督であったが、優衣がその口を塞いでいた。


「また、決めりゃあいいんだろ。たかだか、そんだけのことじゃん。さ、戻った戻った。むさ苦しいんだよ、野郎がピッチにいると」


 どん、と背中を押して熊を野へと追いやった。


「よし頑張っぞー」


 優衣も、組んだ両手を高く持ち上げ、悠々と持ち場へ戻り始めた。

 その両脇から、神戸SCのとおのぶたかさきりようとに挟まれていた。


「あんまりさあ、ああいう生意気なこと、いわないほうがいいよ。今後もサッカー続けていきたいんなら。なんか君、常識のない子みたいだから、お姉さんが親切に教えて上げるけど」


 遠野信子は表情こそ笑顔であったが、ぼそりと、しかし凄むような低い声で、優衣へと脅しをかけていた。

 実際に頭にきていたというのもあるだろうし、作戦上の意味もあるのだろう。生意気な若手に凄んでやることで、畏縮させ、まともにプレー出来なくなるさせるという。


 だが、遠野信子は読みを違えていた。優衣は、信子本人がいっていた通り、本当に常識がなかったのである。


「ああ、気い悪くした? ごめん。性分でね。チャンピオンなんだったら大人の余裕で聞き流してよ。……でもさあ、勝負のほうは、別に手を抜いてくれなくってもいいのに」


 優衣は楽しげに笑った。

 その言葉に、取り囲む二人の全身にぼっと黒い炎がともっていた。


「調子に……乗ってんなよ」


 高崎涼子は手を握り締め、そう言葉を吐き捨てた。

 二人は離れていった。


「ごめん」


 優衣は彼女らの背中に向けて、小さな声で謝っていた。

 挑発したことをだ。


 同じサッカーを好きな者同士だ。バカにするつもりなんて毛頭ない。

 でも、今日はどうしても勝たなければならないんだ。許してくれなくてもいいけど、せめて心の中でくらい謝らせてくれ。

 分かってくれるはずもないだろうけど、別にそれでも構わない。


     12

! ぼけっとしてんな!」


 もとあかねの怒鳴り声。

 既に審判の笛が鳴り、試合が再開していたのだ。


 神戸SCゴール前、GKやまのぼりことは、ボールを地面へ落とすと、踏み付けてころころと足の裏で転がした。

 すぐに前へ蹴らないのは、ベイスパロウの選手たちを焦らしているのだろう。


 神戸SCとしては、この試合がどうであれ、既に優勝を決めているのだし、ベイスパロウは、引き分け以下で降格。つまり喉から手が出るくらいに得点が欲しいのは、むしろ相手のほうなのだから、と。


 ただしそれは、自分たちを冷静にさせるためでもあったのではないか。

 予期せぬ失点をしたために神戸SCの選手たちは動揺し、少々まとまりに欠ける状態になってしまっていたが、落ち着きさえすれば、相手は所詮ザコ、残留を争う弱小チームなのだ、と。


 ベイスパロウのFWつじうちあきが突っ込んでくるのを見ると、山登真琴は引きつけて、ようやく、強く大きく蹴った。

 逞しい脚力に蹴り飛ばされたボールは、一気に最前線へ。


 神戸SC、たかさきりようが走り寄って、胸でトラップした。


 一見すると、綺麗なトラップであった。

 しかし、選手たちの焦りや緊張はそう簡単に解けるものではなかった。

 ボールの落ちたところを、ベイスパロウの西にしひさに狙われて、簡単に奪われてしまっていた。


 あまりにも簡単に奪われ、頭が真っ白になってしまったのだろうか。

 次の瞬間には、西田久子がピッチに倒れ、痛みに足を押さえていた。

 高崎涼子は、久子の後ろから足を掛けて、転ばせてしまったのだ。


 笛が鳴り、ベイスパロウはFKを得た。

 西田久子はよろよろと立ち上がったその瞬間に、ボールを蹴っていた。いわゆる、素早いリスタートだ。


 さわれいの頭上を通り越え、予期して走り込んでいたが拾った。


 優衣は、迫るDFなかすみを一瞬で抜き去ると、シュートを打った。

 勢いやタイミングは良かったが、真ん中過ぎた。GK山登真琴はパンチングで弾いていた。


 そこへ飛び込んでいた辻内秋菜が、ダイビングボレーを見せるが、上手くミート出来ずにボールは宇宙開発。


 秋菜は悔しがったが、しかし、その顔には笑みが浮かんでいた。いける、という確かな手ごたえを感じているようであった。

 そのような表情でいるは、秋菜だけではなかった。


「優衣も秋菜も、良かったよ!」

「続けてこう!」


 きっかけとなったのは、先ほどの、優衣の幻のゴールであろう。

 取り消されはしたものの、しかし、それは無駄ではなかったのである。

 あれから、神戸SCの選手たちの動揺が、さらにさらに大きく広がっていったのだから。

 そうしたところから生まれた、優衣と秋菜シュートだからだ。


 格下を相手に思いの他の苦戦を強いられているこの状況に、様々な負の感情が生じて複雑にからみ合ってしまっているようで、神戸SCの選手たちは、非常に硬く、重い動きになって、判断も鈍くなってきていた。

 相手の突破を許したり、簡単にボールを奪われるシーンがだんだんと多く目立つようになってきていた。

 目をつぶっていても繋がるような素晴らしいパスワークは、いつしか完全になりをひそめ、奪われないようパスを繋ぐだけで精一杯の状態になってしまっていた。


 それでも何度か、ベイスパロウの選手にパスをインターセプトされ、カウンターにより決定的なピンチを招いてしまっていた。GKが日本代表の山登真琴でなければ、既に何点か失っていたことだろう。

 そしてまた、神戸SCはボールを奪われていた。


 もとあかねが、コン・ミギョンからチョ・ウンミへのパスをカットしたのだ。

 前方で優衣が動き出したのを確認すると、すぐさまそこへグラウンダーの縦パスを送った。


 パスを受けた優衣は、反転、走り出そうとするが、そこへ横から神戸SCのとおのぶが飛び込んできた。


 二人はぶつかり、縺れ合い、倒れた。パスを受けなめらかに反転して飛び出そうとする優衣の動きに、遠野信子は対応出来ず、勢いを殺せなかったのだ。

 優衣の身体は回転しながら宙に浮き、背中から地面に叩きつけられた。


 笛の音が鳴った。

 遠野信子にイエローカードが出された。


「畜生」


 遠野信子は、起き上がると優衣を睨みつけ、歯ぎしりをした。


「いってえなあ、もう」


 優衣はゆっくりと立ち上がると、お尻や腿をパンパンと叩いて砂埃を払った。

 その顔には、微笑が浮かんでいた。

 チョ・ウンミになおもとすみに高崎涼子に、そして遠野信子、豪華絢爛な攻撃陣の皆様方が揃いも揃ってカリカリとイラついた精神状態になっていることから、もう神戸SCに得点は生まれないことを確信したからである。


 優衣は振り返り、キャプテンの野本茜へと視線を向けた。

 それだけで優衣の考えを理解したのだろうか、茜は、力強く頷いていた。


 突然、スタジアムの照明が点灯し始めた。

 昼間だというのに折り重なる雲に日が遮られて、空は真っ黒ですっかり夜のように暗くなっていたからである。


 優衣が倒されたことで、ベイスパロウは直接FKを得た。


 キッカーは西田久子だ。

 ボールをセットすると、長い助走距離を取り、狙わずありったけの力を込めて蹴っていた。


 ぐん、と一直線にゴールへと伸びるボールが、意外に精度も高くいままさにネットへ突き刺さろうとするその寸前、GK山登真琴がかろうじて拳を当てて、弾いていた。


 辻内秋菜がねじ込もうとボールへ迫ったが、その前に中田真澄がなんとか大きくクリアした。


 そのクリアボールを、野本茜は見上げながら走り寄り、しっかりと胸で受けた。

 落ちたボールを、足で踏み付けると、周囲を見回し、そして叫んでいた。


「みんな、どんどん上がれ!」


 それは、苦しい中をじっと耐え忍んで、遂に時がきたことを告げる合図であった。


     13

 チョ・ウンミが、もとあかねへと、小柄な体躯を戦車のように突進させて、迫っていた。


 これまで茜は、チョ・ウンミに対して、後ろを向いて守りながらなんとかパスコースを探したり、闇雲に前方へと蹴るだけであったが、初めて、自ら仕掛けていた。

 ボールを足の裏で転がして、左、と見せて右を抜いた。


 後ろからシャツの裾を引っ張られたが、腕を振るって払いのけると、駆け上がるてらなえに、縦のパスを送った。


 なえに対し、神戸SCのさわれいがすぐさまプレッシャーをかけるが、あまり意味はなかった。既にボールは、なえの横を走り抜けたぬのようへと渡っていたからである。


 洋子は、ゴール前中央に構えるつじうちあきへとグラウンダーのパスを送った。


 既にゴール前を固められていたため、秋菜は無理をせずに、一旦優衣へと戻した。


 たかりようのチェックを受ける前に、優衣は大きくサイドチェンジ。


 左サイドを駆け上がる、西にしひさへ渡った。


 ふかがいが、久子の背後からぴたりと密着していた。背中を手で押したり、股の間から足を突き入れこじ開けようとしたり、笛を吹かれてもおかしくないような激しいプレーで、強引にボール奪取を図ろうとする。


 タッチラインを味方に、なんとかキープする久子であったが、仲間のフォローを待たず唐突に身体を反転させた。予期せぬ行動に相手がたじろぐ一瞬の隙に、足の外側でボールを蹴り出していた。


 SBサイドバツクせんチカがオーバーラップ。久子を追い越し、ボールを受け、走り抜けた。

 サイドを突破したチカは、低く速いクロスボールを上げた。


 ゴール前で、辻内秋菜となかすみが、身体をぶつけ合い、腕をからませ合い、争うように飛び込んでいった。


 二人の頭上へボール落ち、跳ね上がり、クロスバーの上を越えた。中田真澄が頭でクリアしたようにも見えたが、主審の判定はゴールキック。


 プレーが切れたタイミングで、神戸SCの選手たちが、お互いに声を掛け合い始めた。

 しかしそれは勝利を目指すための建設的なものというよりは、単に責任逃れや、イライラをぶつけているだけのように感じらるものであった。それほどに笑顔がなく、そして激しい罵倒の言葉が飛び交っていたのである。


 一人少ない相手に対して一点をリードしている状態だというのに、神戸SCの選手たちは異常なまでに焦り、困惑しているかのように見えた。


     14

 それは、全く間違ってはいなかった。


 焦っていた。


 石巻ベイスパロウなどというザコを相手にここまで押されている現状に、なんとか点を取って突き放し、早く落ち着きたいのである。


 例え内容が悪かろうと、勝ちさえすればメディアにそこまで叩かれることはないだろう。むしろ調子が悪かろうとも結果を残す、勝ち方を心得ているチームである、と好意的な記事を書いてくれるかも知れない。


 しかし……

 ついに、というべきか、その焦りから神戸SCに致命的なミスが生まれてしまった。


 組み立てろということでGKやまのぼりことからのボールを受けたはずのDFたかりようが、組み立てるどころか攻め急ぐあまりにさわれいへ送ろうとしたパスが蹴り損ねになり、誰もいないところへころころと転がってしまったのである。


 それを見逃さず、誰よりも速い反応を見せて猛然と駆け寄り奪い取ったのは、石巻ベイスパロウ、しのはらであった。


     15

 の視界を、真っ直ぐ伸びた一条の光が照らしていた。


 その光の先には、左サイドを駆け上がる西にしひさの姿が見えていた。


 あれを優衣が見逃すはずがない。と、久子は、相手のミスを確認した瞬間に走り出していたのだろう。


「いけえ!」


 優衣は右足を振り上げると、渾身の力と、強い願いをその足に込め、そして、振り抜いた。


 ボールは虹の軌跡を描いて力強く、かつ柔らかく、久子の元へと疾った。


 数ヶ月前までの優衣からは、考えられないようなキック力であった。筋肉の付き難い肉体なりに研究して、筋力増強に努め、また蹴り方を研究し続けた結果だ。


 頼むぜ、久子ちゃん。

 優衣は、自分の蹴ったボールの行く先を見つめながら、ぎゅっと拳を握った。


     16

 がむしゃらに走る西にしひさと、後ろから追い上げた神戸SCのふかがい、二人の肩が並んだ。


 二人は押し合い、揉み合うようにボールの落下地点へと入った。


 奪い合いに勝利したのは、久子であった。

 目測で落下地点を正確に捉えながらも、相手との駆け引きのために、肩をぶつけ合ったりと戦いながらも、少し速度を緩めてタイミングをずらしておき、そして一気に速度を上げて、ボールを受けたのだ。


 久子は受け、速度を落とさずに、そのまま駆け抜ける。


 相手に上手く騙されて出遅れた深貝百合江であったが、しかし彼女は俊足が売りのDF。そして相手は過去の大怪我による鈍足の選手。当然のハンデだとばかり、速度を上げて目の前の背中を追った。


 次の瞬間、深貝百合江、そして、久子を知るベイスパロウの選手たちは、信じられない光景を目の当たりにすることになった。


     17

 なんだこれ……

 もしかして……奇跡?


 もとあかねは走りながら、前方で起きているその光景に目を奪われ、目を見開いていた。


 奇跡なんて言葉、軽々しく使いたくはないけれど、でも、

 じゃあ、その言葉以外に、なんて表現すればいいのか。

 だってそうだろう。

 ドリブルしているひさに、俊足のはずの相手DFがどんどん引き離されていくのだから。

 相手DF、ふかがい自身の疲労もあるのだろう。だが、それをいうなら久子だってそれ以上に疲れているはずだ。

 それなのに……


 十代の頃に右足首に大怪我を追い、なんとかサッカーを続けることは出来たものの、以前の足の速さは永久に失われてしまった。そのはずなのに……


 まるで、飛んでいるようだ。

 まるで、背中に翼があるかのように、ピッチ上を、はばたいているかのようだ。


 きっと自分を殺していつも必死に頑張っているご褒美に、神様が、翼、くれたんだ……


 実際には久子の背中に翼などは生えてはいなかったが、茜の目には、なんだか本当にうっすら金色に輝やく翼が見えたような気がした。


     18

 当のひさとしては、ただがむしゃらに、両腕を振って走っていただけであったが。


 なんともいえない不思議な力が己の奥底から湧き出てくるのは感じてはいたが、無我夢中であり、そんなことを考えている余裕などはなかった。


 だんだんと、神戸SCのゴールが近付いてきた。

 だが、角度がない。

 ゴール正面へ回り込もうにも、少し離れたところを並走をするなかすみによって、侵入経路を塞がれてしまっている。


 久子は決断すると、より加速させて、一直線にボールを運び続けた。


 ゴール前、久子に対してニアを閉じていたGKのやまのぼりことであったが、彼女もまた、決断を下したようで、一気に飛び出していた。久子がボールキープして仲間の攻め上がりを待たれたりされるほうが厄介、と判断したのであろう。ならばシュートコースがないうちに打たせるか、飛び出してボールをカットしてしまったほうが良い、と。


 だが結果としては、山登真琴の判断は誤りであった。


 久子は、ドリブルの速度を緩めた。

 と、ゴール前から熊のような巨体、GK山登真琴が突如走り出して、地響き立てるような勢いで向かってきた。


 考える暇はなかった。

 ただ、身体が動いていた。

 風に舞う木の葉のごとく、ふんわり柔らかな、独特の切り返しを見せ、山登真琴の突進を一切無駄のない紙一重の動きでかわしていた。


 それはまるで、昔の久子を見るようであった。短かったけれども、素晴らしい栄光の中にいた、かつての久子を。


 守護者不在となったゴールの中へ、久子は、ちょんとボールを蹴り込んだ。


 ゴールネットが、ふわりと揺れた。

 一瞬にして全身の力を吸い取られてしまったかのように、久子は不意によろけ、足をもつれさせ、倒れていた。


 鉛のように、異常に重たくなった身体を、地に手を付き、膝に手を付き、ゆっくりと持ち上げ、立ち上がらせた。


 振り返ると、自信なさ気におずおずと、みんなの……仲間たちの、顔を見た。


 なえ、チカ、あかね

 仲間たちは、誰もが呆然とした表情で、突っ立っていた。

 自分の目で見たことが、信じられないでいるのだろう。

 彼女たちの表情は、時間の経過とともに、ゆっくりと変化をしていった。だんだんと、素敵な、笑顔へと。


「同点だあ!」


 ぷるぷると腕を震わせていたつじうちあきは、不意に叫ぶと、どんより曇った空を見上げ、雲よどけとばかり両手を天へと突き上げた。


 ドンドンドンドン! ベイスパロウの応援席で、打ち鳴らされる太鼓の音。続いて、どっと歓声が轟いた。


 久子はゆっくり視線を落とすと、ふらついている自分の足を見た。

 そして、少し視線をずらし、足元に転がるボールを。

 再び顔を上げて、仲間たちの笑顔を。

 視界が、急速にぼやけてきた。

 袖で目を拭ったが、一瞬晴れるというだけで、次の瞬間にはもう曇ってしまっていた。まるで土砂降りの日のドライブだ。


 押し殺すような泣き声が、どこからか聞こえていた。

 久子は驚きに、目を見開いた。

 それは自分の泣き声であったのだ。


 なんで泣いているのか、自分でも理由が分からなかった。

 いい大人が、こんなところで恥ずかしい。

 そう思っても、どうしても胸の奥から込み上げてくる嗚咽の声を抑えることが出来なかった。


 まるで子供のような泣き顔であった。

 涙がこぼれないよう空を見上げたが、それでも大粒の涙がボロボロと頬を伝っては落ちた。


「久子ちゃん、すげえゴールだった。……感動しちゃった、おれ」


 が、ゆっくりと近付いてきた。


 久子は、自らも優衣へ歩みより、その身体を引き寄せると、抱き着き、胸に顔を埋めていた。泣き顔を見られるのが、恥ずかしかったからだ。


「だからっ、ちゃん付けするなっていってんだろ!」


 優衣のユニフォームに涙を擦り付けながら、その場をごまかすように強がった。


「じゃ、久子」

「まだ……そのほうがいい」


 ず、と鼻をすすり上げた。

 まだ試合は終っていない。まだ逆転もしていない。早く試合を始めなければならないというのに、久子はどうしても溢れる涙、嗚咽の声を止めることが出来なかった。


     19

 は、思わずひさの肩に腕を回し、その身体を抱きしめていた。

 そして、思っていた。

 久子のことを。


 いつもぶすっとした顔してっけど、

 怒鳴ってばかりいるけれど、

 お世辞の一つもいえねえような、ほんっとうに不器用な性格だけど、

 でも、

 こんな、最高に可愛い奴だったんだ。

 誰よりもサッカーが好きで、

 誰よりもストイックで。


 優衣は、まるで幼子の親のように、久子の身体をさらにぎゅっと強く、抱きしめていた。

 あれほど毎日のように過酷な筋力トレーニングで肉体を鍛え抜いているというのに、意外にも久子の身体は細く柔らかく、なんだか頼りないくらいであった。


     20

 後半まさかの二失点で同点に追い付かれた神戸SCの選手たちはみな、言葉どころか感情すらも忘れてしまったかのように、無表情に立ち尽くしていた。


 しばらくして、我に返るなり彼女たちが見せたのは、近くにいる者同士の激しいいい争いであった。


 だがそれは、先ほども同じようなことがあったがチームを勝利に導くための建設的な話し合いなどではなく、単にお互いを罵倒し、責め立て、自らの責任を逃れようとするものでしかなかった。


 そんな、神戸SCにとって最悪の状態のまま、とおのぶのキックオフで試合は再開された。


 イラついた感情はそのままプレーに繋がり、乱暴な蹴り方で後ろのたかさきりようへと戻した。


 さわれい、そこからふかがい、と一度最終ラインまで戻ったかと思うと、一気にロングボールで、前線で張っているチョ・ウンミへ。


 チョ・ウンミは落下地点へと走り、頭で受けようとするが、後ろから押されてよろめいた。


 背後に密着したベイスパロウのボランチもとあかねが、その背中を胸で突き飛ばしたのだ。

 茜は、飛んできたボールを頭で跳ね返し、クリア。


 ちょっとクリアが小さくなってしまい、神戸SCのコン・ミギョンが頭で大きく弾いて再びチョ・ウンミへと送った。


 茜は、再びチョ・ウンミの背中にぴったりとくっ付いた。と、次の瞬間には、前に回り込んでボールを奪い取っていた。


 走り出す茜であったが、怒鳴るような朝鮮語とともに激しく背中を突き飛ばされていた。

 よろめいて、そのまま前のめりに倒れた。


 笛が鳴った。

 両手で相手の背中を突き飛ばしたチョ・ウンミに向けて、主審はイエローカードを高く掲げた。


「いまのでもイエロー程度かよ」


 起き上がりながら茜は苦笑し、誰にも聞こえない小さな声で呟いた。

 怒り呆れるよりも、どちらかといえば嬉しかった。相手にカードが出るくらいに、自分の粘りが通用しているということが。

 一般的に攻撃と守備では、守備の選手のほうにこそカードは出やすいものなのに。


 茜だけではない。

 周囲にいる仲間を見回すと一人一人が、自分たちのやっていることや、自身のプレーなどに、確実な手応えを掴んでいるような、そんな表情であった。


 ほんと……凄いな。

 あいつは……


 茜は、唇の端を釣り上げ、小さな笑みを浮かべていた。その視線の先には、しのはらの姿があった。


 サッカーをやっているのが不思議なくらい華奢な身体だけど、元気は人一倍の女の子。

 そんな一人の女の子の元気が、絶望に落ち込んでいた仲間たちの心をここまで立ち直らせてしまえるものなのだろうか。

 しまえるのだろう。

 だって目の前で、いままざまざと、それを見せ付けられているのだから。


     21

 もとあかねがチョ・ウンミに倒されたことにより、ベイスパロウはFKを得た。

 ゴール真正面。三十メートル程度の距離があるため、蹴るのはではなくひさだ。


 久子は、ボールを置いた。

 主審に、ボールをもっと下げてと注意されたが、転ばされたのこの位置なんで間違ってませんと主張すると、主審はそれきり黙った。


 神戸SCゴール前ではGKのやまのぼりことが、必死の形相で怒鳴り声を張り上げ、壁の位置、枚数を調整している。


 主審の笛が鳴った。

 久子は助走すると、足腰のバネを利用し力強く蹴った。


 風に乗って、ぐんと伸びる。

 壁を越えたボールは、軽くドライブがかかって落ちながら、ほとんど初速のままの勢いでゴール隅へと突き刺さ……いや、GKが間に合っていた。久子から打ち出された瞬間に、素早く二歩ほど動くと大きく横っ飛びし、弾いたのだ。


 さすがは日本代表の正GKである。反応がほんの一瞬でも遅れていたならば、間違いなくゴールネットが揺れていただろう。


 しかしベイスパロウの攻撃はまだ続く。今度はCKだ。

 優衣が、助走なしのふわふわキックを上げた。しかし、そう何度もは起こらず、飛び出したGKに直接キャッチされてしまった。


 山登真琴は、がっしりと太い脚の筋肉で、力強く前線へと蹴った。

 しかし、ただ蹴っただけに終わった。

 たかさきりようが胸トラップしようとしたところを、忍び寄ったせんチカが簡単に奪っていたのである。


 チカの背後から高崎涼子の手が伸び迫ったが、少し身体を捻って腕を振り、それを払いのけると、受けに出てきたもとあかねへとボールを転がした。


 茜は、チカからのパスをワンタッチで優衣へ送る。


 優衣が受けて反転、走り出したところへ、さわれいが襲い掛かった。だが優衣は冷静、フェイントで抜こうとする素振りを見せたかと思うと、ちょこんとヒールで後ろへ転がした。


 DFのオーバーラップ、上がってきた右SBのぬのようがボールを受けて、勢い殺さず駆け抜ける。

 サイド突破から、クロスを上げた。


 前半に神戸SCが再三見せていた針の穴を通すようなクロスと比べて、お世辞にも精度が高いとはいい難いボールであったが、ふかがいたかりようが失点を恐れてかGKとともにゴール前を固めており、おかげでつじうちあきはプレッシャーなくボールをトラップ。


 反転した秋菜は、真横へとボールを運びながら、利き足ではない左足でシュートを放った。


 それは神戸SCゴール前をがっちり固める三人の、タイミングを外すことには成功したものの、しかし精度悪くクロスバーを直撃。


 後ろから駆け上がってきていたてらなえが、その跳ね返りに反応してダイビングヘッド。


 二人のDF間をぶち抜いてゴールインというまさにその寸前、かろうじて反応したふかがいが足を伸ばして落とし、高井遼子が大きく蹴ってクリアをした。


 ベイスパロウのCBなかけいがそれを拾うと、またベイスパロウによるボール回しが始まった。


     22

 神戸SCが絶不調であるのか、それともベイスパロウが絶好調なのか、相対的な問題であるためになんともいえない。誰の目にも明らかなのは、ベイスパロウのパスワークが神戸SCを翻弄し続けているということであった。


 元々ベイスパロウはパスサッカーを目指すチーム。しかし練習で出来ていることが、試合ではまるで出来ず、カウンターサッカーを余儀なくされることが多かった。しかし現在は、普段の練習の通り、いや、それ以上に気持ち良くボールが繋がっていた。


 ボールポゼッションをしながらのサッカーとなれば、水を得た魚のように実に躍動感を発揮するのが西にしひさであった。


 カウンターサッカーほどには足の速さを要求されないし、鈍足というその一点さえ除けば彼女は現在でも全ての能力において代表クラスの才能を有しているのだから。


     23

「残留争いしてんだよ! 一人少ないんだよ!」


 神戸SCチームキャプテンのさわれいが、この状況をなんとかしようと怒鳴り声を張り上げた。

 しかしその叫びには、ここまで狂ってしまった歯車を戻す力などはなかった。

 それどころかその悲痛な叫びは、単に選手たちの自信を失わせるだけのものでしかなかった。


 そこへさらに、選手たちの焦りに拍車をかけるような事態が起こった。

 百人のサポーターによる、ふがいない選手たちへのブーイングである。


 常勝クラブである神戸SCにとって、残留争いをしている下位チームに二点差を追い付かれるなどあってはならないこと。

 その上、逆転されるなど絶対に許されるものではない。

 と、そうした思いが、選手たちを奮起させるためのその行動へと繋がったわけであるが、試合中に味方からブーイングを浴びて状態の良くなるチームなどあるはずがない。


 要するに、選手同様にサポーターもここ数年、あまりにも負けを知らな過ぎたのだ。


 このようにして神戸SCは、物理的にも精神的にも明らかな劣勢となっていったのであった。


 常に相手を圧倒して勝つことのみを義務付けられたチームが、現在降格圏にいる相手と互角な勝負をしており、しかもその相手は、一人少ない状態なのだ。

 これを屈辱に感じない選手がいようか。

 冷静でいられる選手などいようか。


 例え内容が悪くとも、勝負には絶対に勝たなくては。


「無様でも勝ち切るのが常勝クラブ!」


 神戸SCの選手たちの思いを、沢田麗奈が代表し、叫んだ。

 しかしながら神戸SCには一向に復調の兆しは見られず。ボールを回せず、奪ってもすぐ奪われ、回されて、なすがままに相手の攻撃を受け続けていた。


 常勝クラブとはいえ、シーズンオフでの海外強豪クラブとの戦いなどで、彼女たちは劣勢時の戦い方という経験値を充分に得ているはずだ。

 それがこのような見るも無残な状態になってしまっているのは、毎年残留争いをしているような遥か格下の、しかも一人少ないチームを相手にここまで試合を支配をされた経験など、クラブ創設以来ただの一度もなかったからであろう。

 つまり、恥辱による焦りだ。


 神戸SCは、既にチームではなくなっていた。個人技だけでサッカーをやっている状態であった。


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 コン・ミギョンが、かろうじててらなえのスライディングをかわすと、西にしひさの頭上を越える浮き弾を、たかさきりようへと送った。

 だが、高崎涼子が歩み寄って胸で受けようとしたその瞬間である。


「いただきっ!」


 横から駆け抜けたしのはらが、奪い取っていた。

 優衣は前を向くと、大きく蹴ろうと足を振り上げた。


 そこへ、チョ・ウンミが斜め後ろから肩をぶつけてきた。腕をからませるように、強引に身体を入れてきた。

 さらには足の甲まで踏み付けられて、優衣は身動きの取れない状態になっていた。


 解放された時には、既にボールを奪い返したチョ・ウンミが、ドリブルで一直線にベイスパロウゴールへと向かっていた。


 そこへ、もとあかねが真横からスライディング。ボールを弾いた。茜の足に引っ掛かってチョ・ウンミは転んだが、笛は吹かれない。


 バウンドし、転がるボールを、西田久子が拾っていた。

 走り出そうとする久子の目の前に、なおもとすみが立っていた。


     25

 ぜいはあ、と、大きく肩で息をしている。

 相当に疲労し、弱ったような、なおもとすみの表情であったが、ひさの顔を見た途端に、弱気は一瞬で吹き飛んで、獲物を求める興奮した目付きへと変わっていた。


 すっと久子へと近寄ると、奪い取ろうと足を突き出した。ボールに向けてではあったが、誤って久子の足がへし折れようと構わない、そんな気迫、勢いで。


 対する久子は冷静であった。ボールをちょんと軽く蹴り上げ浮かせて、伸びてきたその足の甲の上を通過させると、自身は相手の脇から回り込んでボールを回収、そのまま駆け抜けていた。

 前方に見えるつじうちあきを走らせるスルーパスを出した。


 秋菜もそれを感じて走り出したが、しかし読んでいたふかがいにパスの軌道に入られカットされた。


 深貝百合江は、前方で手を上げる直本香純に気が付くと、彼女を走らせるように、強く大きく蹴った。

 精度は完璧であった。


 直本香純はサイドを駆け上がり、ボールを追い、足でトラップ、西田久子のスライディングをかわした。


 そのまま駆け抜ければ神戸SCに決定的なチャンスが訪れるはずであったが、しかしいったい何を考えているのか、彼女は足を止め、久子へと振り向いた。


「奪ってみなよ」


 唇を釣り上げて、なんともいやらしい笑みを浮かべた。可笑しいから、というよりは、自分の感情を見透かされないための演技のようにも見えた。


 久子は特に相手の感情に付き合うことなく、表情そのままに冷静に、すっと自らの身体を前進させて突っ込んでいた。


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 なおもとすみは足の裏でボールを左へ少しだけ転がすと、次の瞬間、右へ大きく蹴り、自身も大きくステップを踏んでボールを追った。

 身体を突っ込ませてきた西にしひさと擦れ違い、さあっと風が起こった。


 抜いていた。


 ほら、やっぱりたいしたことない。


 だいたいさっきみたいに子供みたいなドリブルのミスをしてるような奴が、何をかっこつけているんだか。たまたまゴールを決めたくらいで。嘲るような冷たい目で、人のこと見やがって。それで、そんな程度か。バーカ。


 直本香純は、かつてのチームメイトを完全に下に見て、にやりと笑みを浮かべながら、ちらりと背後を振り向いた。西田久子の、無様な姿を見てやろうと思ったのだ。


 そして次の瞬間に訪れたのは、かつてないほどの驚愕であった。

 全身の血液が逆流するかのような気持ち悪さであった。


 何故……あいつがドリブルをしている?


 その疑問に慌てて自らの足元を見ると、本来そこに存在していなければならないはずの物が、存在していなかった。


 直本香純は、ただ空気を蹴って走っていたのである。


 彼女はひっと一瞬息を飲むと、次の瞬間に絶叫していた。

 断末魔の悲鳴のようなおぞましい声を上げたかと思うと、直立不動で硬直したまま、ぷるぷると身体を震わせ始め、まるで支離滅裂な、汚い言葉、卑猥な言葉を矢継ぎ早に久子の背中へと投げ付けていた。


 どんどん小さくなっていくオレンジ色ユニフォームの背中に向けて、もう一度凄まじい絶叫を上げると、地面を強く蹴り付けていた。骨が折れるのではないかというくらいに。


     27

 西にしひさが少しの期間、神戸SCに所属していたことは、既に説明した。


 現在でこそ神戸SCは全員がプロ契約であるが、久子が入団した頃はほとんどがアマチュアであり、なおもとすみも例外ではなかった。その頃にいたプロ契約は、女子サッカーの生き伝説的な存在であるさわれいと、ブラジル人選手だけだ。


 西田久子は、久々のプロ契約候補者であった。


 直本香純は表面上は先輩として穏やかに細やかに面倒を見ていたし、実際に本心から、後輩を可愛がりたいという気持ちも持っていた。しかしその内面では、傷つけられたプライドと葛藤する毎日であった。


 プロ契約か否かというのは、運もあるにせよ、それは間違いのない周囲のその者への評価だからだ。


 まだ高校を卒業もしていない、どこぞのド田舎からやってきた、東北訛りの抜けていない、いつもニコニコと笑ってるだけの、ちょっと足が速くてちょっとボール捌きが上手なだけの、そんな子よりも自分が下なはずがない。

 アピール面で、少し運が悪かっただけ。


 ことあるごとに、直本香純は己の心の中でそのように唱え、自分を励ましていた。


 自分の気持ちに対して常にそうした働き掛けをしなければ崩壊してしまいそうなほどに、練習で見せる久子の技術やセンスは素晴らしいものであったのだ。


 「おっと、いままさに自尊心が完全崩壊、あと十秒で音を立ててガラガラ崩れま~す。じゅ~う! きゅ~う!」

 自分の頭の中にいる誰かが底意地の悪い笑い声を上げながら、ゆっくりとカウントダウン、あと少しでゼロを迎えるその寸前、練習中の事故により、自分の見ている前で西田久子は大怪我を負った。


 数ヶ月後にはフロントは非情にも久子に戦力外通告を下し、クラブを追い出した。


 その予期しなかった事態は、栄光への道を奪われた久子本人のみならず、直本香純にとっても最悪の結末であった。


 西田久子などよりも上である、と自分の能力を証明することの永遠に出来なくなった直本香純の自尊心は、結局のところ、崩壊を迎えた。


 サッカーを辞めることはなかったが、完全に別人のようになった。


 目に見えるなによりも大きな変化としては、自己の負の面を内に抱えずに平気で外にさらけ出すような選手になったことだろうか。それはサッカー選手のというよりは、普段の人間としての性格の変化であった。


 西田久子の幻影を追って、追い続け、代表にまで登り詰め、顔を知らない者のいないほどの存在にまでなり、現役女子サッカー選手として稀な高額所得者となっているのだから、あながち悪い面ばかりではなかったのだろうが、それ故に現在の彼女は、あの頃と比べて失う物を多く持ち過ぎていた。


 それにより、あの頃とはまた異質なタイプの自尊心が新たに作り上げられており、それがたったいま、破壊されたのであった。

 再び、西田久子によって。


 直本香純の脳細胞はついに沸点に達し、全て気化してしまっていた。


 後半から非常に荒いプレーを繰り返していたチョ・ウンミであったが、そんな彼女が思わず止めに入らずにいられないくらいの暴力的なプレーを、直本香純は見せるようになり、仲間、そして審判へも暴言を吐くようになり、交代を告げられた。


 それを拒絶し、頑なにピッチから出ようとしなかった彼女であるが、痺れを切らしたスタッフや選手に引きずられていく。もがき、暴れながら、久子への罵倒の言葉や、自分の才能賛美をスタジアム中に轟かんばかりのけたたましい大声で絶叫し、しまいには狂ったような笑い声を上げ、そして姿を消した。


     28

 神戸SCは興奮しきった荒馬を交代させたものの、しかしそれでこの雰囲気が落ち着くことはなく、流れの方向はまるで変わることなく、むしろ一気に加速を見せ、すっかりと防戦一方、跳ね返すのが精一杯の、何も出来ない状態に陥っていた。


 リーグチャンピオンだというのに、人数の一人少ない、降格圏にいるチームを相手に。


 だが、時間というものは止まることなくどちらにも平等に流れ続けるものであり、これそのものは神戸SCに有利といえる。

 当然だ。

 現在、後半三十九分、相手はあと五分強の間に点を取れなければ降格決定だからだ。

 つまりは、自分たちとしてはこのまま耐えれば、相手のほうにこそ得点への焦りからの綻びが必ず出てくるはずであるからだ。


 どちらが弱小チームなのか分からないが、とにかく神戸SCの選手たちはそう考え、精神的肉体的に萎えかける自己を励まし、石巻ベイスパロウの猛攻を耐え凌ぎ続けた。クロスを、シュートを、必死の形相で跳ね返し続けた。味方サポーターからの容赦のないブイーイングを背中に浴びながら。


 そして耐えに耐えた結果、彼女らの考えていた通りのシーンが訪れた。

 なりふり構わずがっちり引いて守る神戸SCを攻めあぐね、ゴール前でパスを回していたベイスパロウに対し、神戸SCのさわれいが相手の一瞬の隙を突いてのパスカットを見せた。


 ベイスパロウはあまりに前掛かりになり過ぎていた。

 つまり、神戸SCのカウンターが発動したのである。


「上がれ!」


 またとない、そして流れを変えられるかも知れず、そして得点を狙えるチャンスを得た神戸SCの選手たちは、沢田麗奈の叫びを聞くまでもなく全力で駆け上がり始めた。


 ベイスパロウのキャプテンもとあかねは疲労困憊といった顔で、ボールを受けて猛進しているチョ・ウンミへとなんとか追い付き、並び、身体をぴたりと当ててまとわりついた。


 チョ・ウンミはボールを奪われないよう巧みなボールタッチで、細かく蹴ってボールを運んでいたが、不意に切り返しを見せた。慣性の法則に逆らえない茜の姿が視界から振り切られて消えたその瞬間に、いち早くゴール前へと駆け上がったとおのぶを目掛けて、長いボールを送った。


 やはり神戸SCの個人技は素晴らしい。ロングボールは実に精度高く、遠野信子の進むそのすぐ先へと落下していた。


 バウンドしたところを、遠野信子は上手に胸で押して地面に落とし、落ち着かせた。


 全力で駆け戻ってきたベイスパロウのてらなえが、回り込み、奪おうとするが、遠野信子はするりかわすと逞しい腿の筋肉を爆発させ一瞬にしてトップスピードに乗り、一気にゴールへと突き進んでいく。


 その横に、ベイスパロウDFぬのようが付いていた。


 並走する二人。

 遠野信子はどんと激しく肩を当てたが、布部洋子はぐらつきながらも決して離れなかった。


 そこへさらに、ベイスパロウCBであるなかけいが駆け寄ってきた。


 布部洋子との挟み撃ちを狙ったものであろうが、遠野信子はここでもまた、日本代表に相応しい卓越したセンスを見せた。


 顔の動きで近くにいるたかさきりようへのパスをうかがわせつつも、身体を一気に加速させて二人の間を強引に突破したのである。


 完全に、抜け出していた。

 石巻ベイスパロウの守備網を。


 ゴールへと、真正面から迫る。

 距離、十五メートル、十メートル、七メートル、


 思い切り足を振り抜いた。


     29

 ばちいん、と、なんとも痛々しく、そして滑稽な音が場内に響いていた。


 間一髪シュートコース上に入り込んだもとあかねの顔面に、とおのぶの放ったシュートが炸裂したのだ。


 そのこぼれを拾ったたかさきりようにシュートを打たれて、あわやこれまでのみんなの粘りが水泡に帰すところであったが、GKのくすもとともが慌てずコースを塞いで身体に当てて、落ちたところを倒れ込み抱き着くようにキャッチした。


 友子はすぐに立ち上がり、下手投げでぬのようへと転がした。


 神戸SCは、この絶好のカウンターチャンスによりほとんどの選手が上がっていた。


 ピンチを凌ぎ切ったベイスパロウが、反対にカウンターを見せる番であった。


「みんな上がれ!」


 キャプテンの野本茜は、袖で鼻を押さえながら、声を張り上げた。その袖は、真っ赤に染まっていた。


 ドリブルで駆け上がる布部洋子は、さわれいが自分へと向かってきているのが目に入ると、反対サイドを全力で走っている西にしひさのその先へと大きくボールを蹴っていた。

 力強いボールが、綺麗な虹の残像を描いた。


 久子は、背後から飛んでくるボールを、振り返りもせず全速力のまま受けていた。


 真横から、猪の如く猛然と飛び込んでくるコン・ミギョンを、久子はいなすようにかわすと、一瞬ボールを足で踏み付け、きっと前方を見据え、そして強く蹴っていた。


 神戸SCのなかすみふかがいとの間を抜けて、オレンジ色のユニフォーム、篠原優衣が飛び出していた。 


 優衣の目の前で、落ちてきたボールが高くバウンドした。

 走りながらボールに頭を当てて前へと飛ばし、すぐ追い付き、走り続ける。


 オフサイドの旗は上がっていない。

 優衣は大きなタッチでボールを転がし、全走力でゴールへと向かって独走した。


 まるで、あの時と、同じだ。

 ……って、いつだ?


 優衣は自問した。


 決まってんだろ。ズンダマーレ宮城の、あの試合だよ。


 ああ、

 記憶にない。

 つうか、どうでもいい。

 目の前にあること、進む先にあるもの、それが全てだから。


 優衣は、いまその先にあるもの、未来を信じて、突き進んでいた。

 ボールを蹴る。

 蹴り続け、進み続けた。

 目の前には、だだっ広い緑の海、ゴール、その裏には興奮し叫び声を上げるサポーターたち。


 その視界が、不意に揺れ、大きく歪んでいた。

 写真のネガのように、色彩が消失していた。

 頭に鋭利な金属を突き刺され、ほじくられるような、そんな激痛に襲われていた。

 心の中で、悲鳴を上げていた。


 こんな時に……

 こんな時だってのに、またかよ! ふざけんな畜生!


 誰を恨むわけでもない。全て承知の上でサッカーを続けているのは自分なのだから。ただ、そう心の中で叫ぶことで、痛みを紛らわし、追い払おうとしていた。


 思わずプレーを止めようかと迷いの生じている自分を叱咤し、優衣は気力だけで走り続けた。


 視界からは完全に色合いが失われ、

 次いで、光そのものがすっと消失し、

 そこは完全に、真っ暗な闇の中になった。


     31

 トントントントン、リズミカルな音が部屋の中に響いている。

 最近、父がすっかり創作料理にはまっており、仕事が休みの日とあればそればかりだ。


 ただ最近は包丁さばきに慣れてきたのか、その音だけは、聞いていて眠くなるほどに気持ちの良いものにはなってきていた。

 でも味はまだまだで、そこそこ食べられる時と、思わず捨てたい衝動にかられる時と、当たり外れの差が激しく、そこが困りものなのであるが。

 本人の味覚によるものだとしたら、絶対に直らないかも知れない。


「なあ親父さあ」


 窓から差し込む午後の日差しにまどろみながら、優衣は軽く頭を持ち上げた。


「ん?」


 父は料理をする手を休めない。返事をしただけである。


 優衣は、創作料理に励んでいる父、まさあきの大きくもない小さくもない背中を見た。そして言葉を投げた。優衣としては、実に何気ない言葉を。


「母ちゃんのこと、まだ、好きか?」


 包丁の、音が止まった。




 そして、ゆっくりと振り返った。




 優衣のその言葉に、西にしひさが 足を止めて、ゆっくりと振り返った。


「なにが?」


 なんだか難しそうな顔をしている。

 といっても、まあいつもの通りの久子だ。


 ここは石巻ランドの第一グラウンド。フェンス沿いのでこぼこ道を、練習用のボールの入ったネットを肩にかけて、クラブハウスへと運んでいる最中である。


「いや、そう面と向かって、なにがって聞かれると、困るんだけど、まあ色々とさ。ほら、おかげで色々と吹っ切れて思い切りサッカー出来るようになったし」


 優衣は、つい余計な口を開いてしまったことを後悔していた。

 黙ってボールを運んでいればよかった。


 だが、その余計なお喋りがきっかけとなって、優衣は素晴らしいものを手に入れたのかも知れない。一生のーー例え自分が消滅しても消えることのないーー宝物を。


 久子はため息にも似た、長い息を吐いた。

 やや俯き加減であった顔を上げた。

 そして優衣を見つめ、ゆっくりと、口を開いていた。


「あたしのほうこそ」


 はっきりと、そういったのである。

 その言葉に続く、久子の表情の変化を、優衣は、見逃さなかった。


 ……こんな顔……するんだ……


 それは初めて見る、久子の表情であった。

 でも、なんだかとっても懐かしい。

 呆然としていた優衣であったが、いまここにいることの心地よさに、自然と笑みが浮かび、こぼれていた。


 肩にかけていた、ボールを入れたネットが落ちたが、優衣は全く気が付かなかった。

 土曜日の夕刻。

 暮れかける夕日が、どこまでも続く二つの長い影を作り出していた。




 真っ暗な闇の中を、頭に何かが突き刺さるような凄まじい激痛と戦いながら、全力で走っている。

 闇の中の、たった一筋の光明に、進むべき方向を導かれながら。

 ドリブルで、ただ、前へと、未来へと突き進んでいる。


 笑っている。

 とても走るどころではない、いつ倒れ、意識を失ってもおかしくないほどの痛みに襲われているというのに、これまでの記憶に想いを遊ばせていると、もうそこには幸せしか感じず、その顔には笑みしか湧いてこなかった。


 よりにもよってなんで女なんだよ、なんて思ったよな。最初の頃はさ。でも、女も悪くないのかもな。


 生まれ変わっても、ん、生まれ変わったら? どっちでもいいや。とにかく、最初からしっかりと女やってみるってのも、まあ、悪くはないのかもな。


 何故この身体の中にいるはずの篠原優衣が、全く出てこないんだよ。って、疑問に思っていたけど、それが分かった。


 というより……分かっていた。


 最初から、


 分かって、いたんだ。


 それはそうだろう。


 だってさあ、


 篠原優衣は……


 おれは……



 スタジアムを渦巻く喚声、そして打ち鳴らされる太鼓の音。

 ひたすらゴールへと独走を続けた。


 その背中を、神戸SCのDFなかすみふかがいが追い掛けている。


 しかし、優衣はドリブルをしているというのに、二人に追い付かれるどころかどんどん引き離していった。

 特に深貝百合江は、俊足が売りの選手であるというのに。

 篠原優衣は、さして足の速い選手ではないはずなのに。


 優衣は走り続ける。

 視力を失った、真っ暗な闇の中を。

 全力で、走り続ける。


 一条の光に照らされて、ゴールだけは、その目にはっきりと見えていたから。


 徐々にそのゴールが大きくなってくる。

 GKの姿はその目には見えなかったが、しかしその息遣い、それどころか心臓の音、流れる汗の音まで、優衣にははっきりと聞こえていた。まだ、距離があるというのに。


 GKはゴール前に張り付いて、構えている。

 さらに、ゴールが近く、大きくなってくる。


 サポーターの喚声、

 素晴らしい戦友たち、辻内秋菜や、野本茜の声が飛び込んできた。

 「打て!」、と。


 分かってるよ。


 ゴール真正面。

 優衣は魂の全てを込めて、右足を振り抜いていた。


 雲間から、カッとまばゆい光が地表を照らした。

 折り重なった雲に、まるで夜のようにどんよりとしていた空の色が反転、激しく明滅していた。


 超新星の誕生を間近に見ているかのような、それは目を覆いたくなるようなまばゆい光であった。


 それが一瞬、音もなく輝いたかと思うと、続いて天から落ちてきたどおんという空気を裂き地を砕くような凄まじい爆音が。


 まばゆいその光は、世界を真っ白に染め上げた。

 そして全てはその光の中に、柔らかく包まれて、さらさらと砂のように溶けていった。

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