第九章 終わりの、始まりへ

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 二〇一四年 十一月二日 日曜日

 日本女子サッカーリーグ 第二十二節

 石巻ベイスパロウ 対 神戸SC

 会場 はら醤油スタジアム(宮城県石巻市)


 どんよりと、雲っている。

 いまにも雨の降り出しそうな、この空も。

 そして、石巻ベイスパロウの選手たちの心の中も。


 無責任にこれまでの結果をしらばっくれていられるのならば、例えこのような日であろうとも、明るく楽しくサッカーをしていられたかも知れないが。

 良くも悪くも、性格が真面目過ぎるのである。

 彼女たちは。


 既にウォーミングアップの時間は終了し、両チームの選手たちは二列になって入場を待っている。それぞれ、可愛らしい男女のエスコートキッズと手を握り締め合って。


 アップの時からなんともいえない暗い表情になっていたベイスパロウの選手たちであるが、その有様がより一層酷い状態になっていたのは、神戸SCという女王の風格というかオーラというものを間近で浴びることに耐えられなかったからであろうか。


 それほどまでに神戸SCの選手たちは、自信に満ちた、というよりは、さしたる緊張の色も見せずに、仲間同士で他愛のない談笑をしたり、エスコートキッズの子に話し掛けたりしていた。


 石巻ベイスパロウのFPフイールドプレイヤーたちは、全身オレンジ色のユニフォームに身を包んでいる。GKゴールキーパーは青色。


 対する神戸SCは、FPは全身白で、GKは緑である。


 入場口からスタジアムの内側が覗き見えるが、アウェーゴール裏にはえんじ色のレプリカユニフォームが百人近く、音頭の太鼓に合わせて声を張り上げている。このえんじ色が神戸SCのチームカラー、ホームでのユニフォームカラーである。


 対してホームであるベイスパロウのゴール裏人数は、普段通りに二十名ほどだ。千キロ近い距離を移動してきた百人ほどのサポーターがアウェーゴール裏へ集まっていることを考えると、圧倒的な少なさである。


 神戸SCサポーターの多さや熱狂ぶりこそが女子サッカーとしては異常ということもあるが、その点を差し引いても実際、石巻ベイスパロウは不人気クラブである。それは知名度の低さという一点にある。


 対して神戸SCはいわゆる嫌われ者のクラブで、その理由は知名度の高さと、金に物をいわせた補強にある。プロ野球やJリーグでアンチの多いのと同じ理由だ。


 プロ契約をちらつかせた補強で国内外の代表をコレクションしており、当然ながら強く、そして熱狂的サポーターの数は多い。しかし、嫌いなチームのランキングでも、常に最上位の座を維持している。


 一強体制ではリーグを潰してしまうだけという危惧の声も、常に方々から上がっている。


 当人たちからすれば、ならば何故あなたたちはクラブを強く大きくする努力をしないのか、その怠惰こそが一番の問題ではないか、というところなのであろうが。


 とにかく、この神戸SCというチームはそれほどまでに強く、一向に陰ってくる気配を見せることがない。今年もやはり戦力としては圧倒的であり、審判運などで二敗こそしたが残りは全て複数得点無失点による勝利で、前々節に、まだ二試合を残して優勝を決めている。


 前節に本拠地の神戸にてホーム最終戦を終えているため、今日は完全に消化試合ということで、将来が期待されるユースを先発させるなど手を抜いてくることも予想されていたが、蓋を開けてみればいつも通りのメンバーであった。


 今日の試合に負けたら無条件に降格が決定するベイスパロウの選手にとって、そのメンバー発表は死刑宣告を受けるに等しいものであったことであろう。


 そのため、いまにも雨の降り出しそうなこの天候以上に彼女らはどんよりと沈み切った雰囲気になってしまっていたのだ。

 神戸SCの自信に溢れたオーラを跳ね返すことも出来ず、ますます畏縮してしまっているのだ。


 FWのつじうちあきも、普段のおちゃらけた軽い様子などはすっかりなりを潜めて、悲壮感の漂う顔で、唇をきゅっと結んで床へと視線を落としている。

 責任を感じているのだろう。誰よりも強く。

 自分が一つの試合であと一点、取ることが出来ていたら、追い付けた試合、勝てた試合、いくつもあったのに。そもそも残留争いなんか、していなかったのに。と。


 ポジションこそ違うが、GKのどうじまひでも全く同じような表情をしていた。

 弱いが故にチームは必死の守備をするため、実際に一点差のゲームが多かったのだ。


 FWもGKも、同じような心境になることになんの不思議もないだろう。

 二人だけではない。ここにいるベイスパロウの選手のほとんどが、自責の念にかられ、沈んでいた。

 よどんだ、暗い表情になっていた。


 例外の一人は西にしひさで、彼女は普段とさして変わらぬ表情であった。


 責任を感じていないのではない。

 むしろその反対であった。

 今日に限らずどの試合の時でも、人一倍責任を背負い込んでしまうのである。


 どの試合の前後もそうなのだが、誰よりも沈み込んでいるような、そして、怒りのぶつけどころが分からず困惑しているような、そんな表情になってしまうのである。


 口を強く結んで、なにかを睨み付けるような顔をしているくせに、焦点がまるで合っていない。


 普段とまるで変わらぬ、誰より責任を感じている久子の姿であった。


 いつもならば試合が開始されるまでずっと、久子はこのような状態のままなのであるが……

 彼女は突然、はっとしたように目を見開いていた。


「うわ」


 手をばたつかせて、後ろに倒れ、尻餅をついていた。

 背後から、膝かっくんを受けたのだ。


 幼稚な攻撃ではあるが、そもそも大人がこんな攻撃への耐性などあるはずなく、トップアスリートともあろう者がなんの防御も出来ないままに見事にバランスを失って転んでしまった、というわけである。


 なにが起きたのか、と、久子はきょろきょろ首や視線を動かし、次いで顔を赤らめ、


!」


 一人ジャージ姿の悪ガキへと怒鳴り声を上げた。


「なんでお前がここにいるんだよ!」


 本来、優衣はスタメンの予定であったのだが、先ほど自ら監督に直訴して変えて貰ったのだ。後半からのほうが思い切りやれるから、と。


 だから現在はベンチにいるべきなのであるが、入場する選手たちに発破をかけて元気良くピッチに送り出してやろうと思って、ちょっと顔を出したというわけである。


「そんな緊張してないでさ、試合、楽しもうぜ、久子ちゃん」


 優衣は真顔でそういったかと思うと、ぎゃはははは、と、いきなり最高潮テンションになって大笑いをした。先ほどの久子の転倒がよほど面白かったのだ。


「転んでやんの~」


 と、腹を抱えて指を差して、本当に楽しそうであった。


 久子は尻餅ついたまま、怒ることも立ち上がることも忘れて、しばらくぽかんとした間抜けな顔になっていた。


 ようやく笑いのおさまった優衣であるが、他の仲間たちの顔を見ると、また笑わずにいられなかった。

 ただ、今度は苦笑であった。


「みんなさあ、なにそんな暗い顔してんだよ」


 その言葉に、辻内秋菜、せんチカ、ぬのよう、ベイスパロウのみんなが顔を上げ、優衣を見つめていた。


 優衣は続ける。


「もう負けが決まったと思ってんなら、そんな顔にはならないはずだよな。悔やんで泣きはしても、そんな不安な顔なんかにならないよな。結果が分かっていないから、決定していないから、だから不安になる」


 言葉を切ってひと呼吸置くと、続けた。


「ということはだ、胸の奥には希望ってもんを持っているから、そんな顔になってるんだよ。そんならその希望をさ、みんなで大きくしていけばいいじゃんか。ここで諦めてたって、なんも状況なんか変わんねえぞ。おれ、間違ったこといってるか? なあに、みんなで頑張りゃあ勝てる勝てる、こんな奴らなんてこと…」


 優衣の熱弁を遮るように、神戸SCの列の先頭に立っているなおもとすみが、ぷっと吹き出していた。

 腹を抱えて苦しそうだ。


「バカ一人発見」


 非常に小さな声ではあったが、明らかに、そういっていた。

 他の神戸SCの選手たちも、やはりおかしみを堪えているような、そんな表情であった。


「ごめんなさい、うちのバカが失礼なこといって!」


 もとあかねが、優衣の頭を掴み力任せに深く下げさせた。


「いてて。茜ちゃん痛い! おれは単に心構えをだな、いて、こすれてる! 禿げる!」

「うるさい、お前も謝れ!」

「はいはい、ごめんねごめんねー」


 などと二人が揉み合っているのを見て、「ブログネタにしよ」などと神戸SCの選手たちが笑い合っている。


 すっかりリラックスしている神戸SCの選手たちとは反対に、ベイスパロウの選手たちは居心地悪そうに下を向いて、なんとも複雑な場の雰囲気になってしまっていた。


 と、その時であった。

 唐突に、西田久子がダンと激しく足を踏み鳴らしていた。


 しん、と静まり返った中を、優衣たちではなく、神戸SCの選手たちを一瞥した。


 神戸SCの選手たちはそれを受けてか黙りはしたものの、にやけた顔はそのままであった。それどころか一部の選手たちは、久子の姿を見て、そのにやにやをより強くしていた。


 茜は慌てたように、神戸SCの選手たちと久子の間に入り込んだ。そのまま視線だけ優衣のほうへと向けると、


「まあ、優衣のいいたいことも分からなくはない。要は気持ちだってことだろ。みんな、そんな暗い顔してっから優衣に心配されちゃうんだよ! 気合い入れろ気合い! いまさら細かいこといったってしょうがないんだから。やることやるしかないんだから。分かった?」


 手をバシバシと叩いた。

 チームの士気を高めるためではなく、単に久子を庇おうとしただけであること、みなには完全に見抜かれていたようであるが。


 西田久子は神戸SCに所属していたことがあり、そこで色々とあったこと、ベイスパロウの選手はみな知っているのだ。


 場内に、ロック調の曲が流れ始めた。


「お待たせしました。選手の入場です。みなさん、両チームの選手を大きな拍手で迎えて下さい」


 スピーカーから淡々とした女性の声が流れると、歓声や太鼓の音が激しくなった。


「よっしゃ、てめえら! いくわよ!」


 最後のところだけ何故女言葉なのかは分からないが、とにかく優衣は叫び、肩をいからせてのっしのっしと歩き、列の先頭に立った。


「お前はベンチだ」


 茜は両手で優衣の襟首を掴むと、クレーンゲームのように水平移動させて列から排除した。


 いよいよ運命を決する試合、入場の時である。


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 両チームの選手たちは、エスコートキッズと手を繋ぎ、歩き出し、ピッチへと入っていった。


 観客席からの拍手がより大きなものになった。

 とはいっても二万二千人収容のスタジアムに、千人ほどであったが。

 ベイスパロウのサポーターが二十人、神戸SCが百人、残りは近場でやっているサッカーの無料試合を楽しみにきたその他一般のお客さんだ。


 客席の空きだけを見れば実に閑散として寂しくも感じるが、なでしこリーグは基本このようなものであり、ベイスパロウのホームゲームとしては客が入っているほうである。


 両チームの選手たちは横一列に並ぶと、メインスタンドのお客さんに向かって深く一礼、くるりと振り返り、バックスタンドのお客さんにも一礼をした。


 次いで、それぞれのチームに分かれて写真の撮影を行い、そしてそれぞれの陣地中央にて円陣を組んだ。


 ベイスパロウ側の円陣の中で、キャプテンのもとあかねは仲間たちの顔を見回した。


「さっきもいったけど、もうやれることを死ぬ気で頑張るしかない。あとは、とにかく集中すること。相手は神戸だ、集中しても勝てるか分からないのに集中を切らしたら絶対に負ける。でも、必要以上に恐れないこと。自分たちのプレーが出来なくなっちゃうから。よし、いくぞ。ベイスパロウ!」

「ファイト、オー!」


 茜の大声に残る十人も呼応し、叫んだ。


 円陣を解く。


 ひと足早く、神戸SCの選手たちはピッチに散らばっていた。

 ベイスパロウの選手たちも続いて散った。


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 現在ピッチ上にいる二十二人は、次の通りである。


 石巻ベイスパロウ

  FW さねあいつみ

  FM つじうちあき

  MF ぬまたえ

  MF 西にしひさ

  MF てらなえ

  MF もとあかね

  DF ぬのよう

  DF もとハル

  DF なかけい

  DF せんチカ

  GK どうじまひで


 神戸SC

  FW とおのぶ

  FW なおもとすみ

  MF たかさきりよう

  MF チョ・ウンミ

  MF 西にしやま

  MF さわれい

  MF コン・ミギョン

  DF たかりよう

  DF なかすみ

  DF ふかがい

  GK やまのぼりこと


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 もとあかねは自分のポジションに着くと、改めてアウェーゴール裏に目を向けた。


 石巻という辺鄙な場所でのゲームだというのに、ゴール裏には神戸SCのサポーターが百人ほどもきている。


 神戸から新幹線や飛行機で仙台まで、そこからさらにローカル線で長時間揺られることになるというのに、その苦労をいとわない者がこれほどもいるのだ。

 それが、ちょっとだけ羨ましかった。


 数の問題ではないとはいえ、一度も味わったことがないのだからそう羨ましく思うのも仕方ないことだろう。


 でもうちの、いつもホームに二十人くらい来てくれるサポーターだってそれに負けないくらい、最高だ。それは、間違いない。


 オヤジばっかりだけど。

 ちょっとスケベ目線だったりもするけど。

 たまに、うちで採れたからなどと野菜やサツマイモなんかを差し入れしてくれたりして。


 神戸に比べれば熱狂的ではないかも知れないけど、でも、とても暖かい。

 そんなサポーターたちが、わたしたちにはついているんだ。


 頑張らないとな。

 試合がどのような結果になるにせよ。


 もちろん勝って残留するつもりでやるけど、もしも負けたならば、これが一部での最後のリーグ戦になってしまうのだから。二部から這い上がらない限り。


「根性見せろお! ぜーったいに勝つぞお! ファイトオ!」


 ベンチで、しのはらが大声を張り上げている。


 あいつ、本当にどうしちゃったんだろうなあ。


 茜は、以前のおとなしかった優衣を思い出して苦笑していた。


 ぼそぼそと、なにをいっているのだかさっぱり分からない。

 気が弱くて人のいうことを断れない。

 すぐ泣く。

 すぐ落ち込む。

 事故で記憶が、といっても、ここまで性格が変わるものか。まるで別人だ。


 冗談半分に思ったことあったけど、やっぱり、男の霊が取り憑いているのかな。

 この優衣と、いつまでサッカーが出来るんだろうなあ。


 主審の女性が腕時計を見ている。

 間もなく試合開始だ。


 茜は前屈をしながら、すぐそばにいる同じくボランチであるてらなえへと声をかけた。


「よろしく、相棒」


 なえは、少し緊張が緩んだのか笑みを見せた。唇を釣り上げただけの、ぎこちない笑みであったが。


 主審がゆっくりと手を上げた。

 そして、笛の音が響いた。


 ついにリーグ最終節、石巻ベイスパロウにとっては一部リーグ生き残りをかけた大一番となる一戦が開始された。


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 目指す相手ゴールを見据えながら、右足でボールをそっと踏み付けていた石巻ベイスパロウFWフオワードつじうちあきは、笛の音と同時に身体を反転させて、後ろにいる西にしひさへと蹴った。


 神戸SCのFWであるとおのぶは全力で秋菜へ、そしてそのまま久子へと標的を変えて、弾丸のように身体を突っ込ませていった。


 久子は一歩前に出てボールを受けると、力任せに空気を掻き分けて走ってくる遠野信子を待ち構えて、引き付け、かわした。


 すぐさまボールをちょんと蹴り出し、駆け上がる。

 辻内秋菜やさねあいつみとのワンツーを使い、神戸SCのさわれいなかすみをかわしてするすると上がると、挨拶代わりのミドルシュートを放った。


 久子は、右足の大怪我により、サッカーを続けることは無理だと医師から宣告を受けたことがある。弱い部分を補うために苛酷なリハビリと筋トレを行い、医師も驚くような復活を果たした。それからなおも鍛錬を続けているその強靭な足腰からの強烈なミドルは、しっかりとボールの芯を捉え、ミサイルのように真っ直ぐと神戸SCゴールへ向かって飛び込んでいった。


 そのままゴールネットに突き刺さっていたとしてもなんら不思議のない、精度も威力も抜群に質の高いシュートであったが、しかしGKゴールキーパーやまのぼりことのポジショニングがよく、真正面で楽々キャッチされてしまった。


 これが、ベイスパロウにとってはファーストシュートであり、そして前半戦で唯一のシュートであった。


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 シュートをキャッチしたやまのぼりことは、味方に対して上がるように低い大声と身振りとで指示を送ると、助走を付け、丸太のような足を振るってボールを蹴り飛ばした。

 女子とは思えない逞しい脚力であった。ボールは大きな弧を描いて、楽々とハーフウェーラインを越えた。


 一番近くにいたのはベイスパロウのボランチてらなえで、彼女は宙を見上げながら小走りで落下地点へと寄ると、軽く身を引きながら胸でしっかりとボールを落ち着かせた。


 次の瞬間、なえの顔が驚愕に満ちていた。

 当然だろう。

 しっかりボールを足元に落ち着かせたはずなのに、みんなの叫びに振り向けばなんと神戸SCのとおのぶがドリブルをしているのだから。


 なえのトラップしたボールを、落ちるのを待たずに後ろからかっさらっていたのだ。


 次元の違う個人技や判断力を間近で見せ付けられ、なえは動揺しながらも、慌てて遠野信子を追い掛け始めた。


「追うな! 来てる! けいが行って!」


 もとあかねは大声を上げ、なえに担当ゾーンの確認と、相手が上がってきていることへの注意喚起、ドリブルで突破を図ろうとする遠野信子に対してはCBセンターバツクなかけいが当たるように指示を出した。


 圭子ははっとしたように動き出し、遠野信子の前に立ちはだかったが、対峙する間は一瞬もなかった。圭子は逆をつかれ、あっさりとかわされ、抜けられてしまっていたのである。


 神戸SCの誇るFW遠野信子の前には、もうGKのみという状態であったが、しかしシュートの角度がない。彼女は瞬間的に、ゴールを奪うための最適な選択をしていた。ヒールで、斜め後ろへとボールを転がしたのだ。


 そこへ当然のように駆け込んできた神戸SCの九番、なおもとすみが転がるボールにダイレクトで合わせた。

 ゴール真正面、至近距離から放たれたシュートは豪快にネットを揺らした。


 ベイスパロウGKのどうじまひでは、ぴくりとも動くことが出来なかった。


 神戸SCの百人のサポーターから、どっと歓声が上がった。どんどんどん、と太鼓が打ち鳴らされた。


 だがその歓声はすぐに収束し、そして嘆きの声へと変わった。

 副審の持つ旗が、オフサイドの判定を示していたのである。


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 ベイスパロウの選手たちは、ほっと胸をなでおろした。


けい、始まったばっかでもう集中切らしてんのか! ダナエ、お前もだよ! あそこで深追いなんかするから九番に入られるんだよ!」


 キャプテンのもとあかねは、怒鳴り声を張り上げた。


 咄嗟の判断で圭子がラインを上げてオフサイドを取ってくれたからこそ事なきを得たのではあるが、元はといえばその圭子が一対一でこれっぽっちすらも粘れずに突破を許したことが原因だ。さらに原因の元を辿れば、なえが、相手が攻め上がってきているというのに考えなしに陣形を乱しかけたことにある。

 だから茜は叱ったのである。


 ベイスパロウは、基本ゾーンディフェンスのチーム。深追いしなくても済むようにスムーズにマークの受け渡しをすることが、まずは大事になってくる。それが成熟していないから、これまで連係ミスから毎試合のように失点をしているわけだが、神戸相手にそのようなミスなどしていては起こる奇跡も起こせやしない。


 成熟していないなら、そこは気合でカバーしないと。

 今日だけは、絶対に勝たなきゃいけないんだ。


 茜は守備の司令塔として、全神経を集中させていた。この九十分間で脳細胞の全てを消費し尽くして、バカになったって構わない。


 本当は、この試合の持つ意味合いからくる重圧に、誰よりも泣き出したいくらいであったが、そんな弱い自分をぐっと押さえ込んで、気合いを入れ続けた。


 やるぞ!

 絶対に、ゴールラインは割らせない!

 そうすればいつか、味方が点を取ってくれる。

 あきや、ひさが、絶対に。

 そう信じて、とにかく頑張るぞ。

 その気迫や粘りが、GKであるひでの負担を減らすことにだって繋がるはずなんだから。

 彼女がさすがは元代表といった素晴らしいセーブを、毎試合のように見せてくれているというのに、いつまでもいつまでもDFデイフエンダーのつまらないミスで失点させてしまっていては申し訳ない。

 そうだ、茜、気持ちだぞ! 気持ち気持ち気持ち!

 相手だって同じ人間なんだから。


 そう己の心を叱咤し続ける茜であったが、だが、まだ試合開始からさして経過していないというのに、もうその気力が萎えそうになっていた。


 神戸SCの、人とボールの連動する見事なパス回しに、茜を含む守備陣が完全に翻弄され、強豪が強豪たる所以というものをこの数分間で嫌というほどに見せつけられ、心と身体とに叩き込まれていたからである。


 前回の対戦でも何も出来ずに0ー7で負けているので、本当にいまさらのことではあるのだが、茜は、相手の個々の能力やチームとしての完成度の高さを改めて思い知らされていた。勿論、そう思っているのは茜だけではないだろう。


 神戸SCの特徴の一つに、最近の日本サッカーでは珍しく、頑なまでに3バックを基本システムとして採用しているというのが挙げられる。


 開始直後こそ西にしひさの突破を許し、あわやというシーンを作られてしまったが、その後はたかりようなかすみふかがいの3バックが安定感抜群の鉄壁の守備を見せ、守備の選手ながらも存在感を見せ付けていた。


 たまにベイスパロウの選手が運良くボールを奪い、運良く中盤を突破したとしても、この三人の門番が堅実に相手の突破を阻み、着実に後方へと追い返すか、またはボールを奪い取った。


 神戸SCは超攻撃的なチームといわれているが、失点の少なさもなでしこリーグでトップである。それどころかそもそも失点した試合自体が数えるほどしかない。


 三人のDFとボランチによる堅守があればこそ、前線が変幻自在に動くイマジネーションに溢れる素晴らしい攻撃が生まれるのであろう。


 そしてベイスパロウはまたもや神戸SCの、その素晴らしい守備から攻撃までの一連の流れを見せ付けられることになった。


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 きっかけはCBセンターバツクもとハルの、苦し紛れの大きなクリア。


 その落下地点へとFWのさねあいつみが走り寄るが、神戸SCのDF、一回りも小さな選手であるなかすみに身体をぶつけられて、よろけたところを見るも簡単に奪われてしまった。


 中田真澄は一瞬で状況判断を下し、ボランチのさわれいへとパスを送っていた。


 それが合図でもあるかのように、前線のなおもとすみとおのぶ、チョ・ウンミが全力で走り出していた。


 沢田麗奈はボールを受けるなり、前方へ、大きく蹴った。


 前の三人は、三人が三人ともオフサイドぎりぎりという絶妙のタイミングで、マッチアップするベイスパロウの選手の脇を通り抜け、大きく飛び出していた。


 沢田からのロングボールを受けたのは、左のウイングである直本香純。彼女はサイドへと流れると、そのままタッチライン沿いを独走して、突き進んでいった。


 全力疾走の野本ハルがなんとか追い付いて肩を並べ、内に入られないように侵入経路を塞いだ。

 だが、結果としてはただ追い付いたというだけで、直本香純の個人技やフィジカルの前にはなんの抵抗も出来なかった。直本香純はハルへと肩をぶつけ、ハルがよろけた一瞬の隙にぐんと前へ加速して、悠々とクロスを上げていたのである。


 利き足ではないはずの左で蹴ったというのに、実に精度の高いクロスが上がっていた。

 ゴール前を横切る低い山を描いて、くっと曲がってファーへと落ちた。


 そこに韓国女子代表であるチョ・ウンミが飛び込み、倒れながら頭を叩き付けていた。


 絶体絶命のピンチであったが、GKゴールキーパーの堂島秀美が素早く反応して横っ飛び、左腕一本で弾いた。


 だが咄嗟のことでほんの僅かしか弾くことが出来なかった。ぽとりと落ちたボールは、ゴールポストのほうへと転がった。

 そこへ神戸SCのたかさきりようが、押し込もうと詰め寄った。


 秀美はまるで短距離走スタートのように足腰のバネで大きくボールへと飛ぶと、改めてコーナーに逃れようと右手で叩いた。


 高崎涼子と堂島秀美、二人の手と足とに揉まれたボールは、ぼんと音を立てて大きく跳ね飛んだ。


 素早く立ち上がった秀美は、そのボールを追い掛け、跳躍し、今度こそ天へ伸ばした両手の中にしっかりとキャッチした。


 それを知ってか知らずか、そこへ神戸SCの遠野信子もヘディングシュートを狙って飛び込んできていた。


 秀美と遠野信子、二人の身体は空中で交錯し、地に落ちた。


 続いて落ちてきたボールが、短く刈った芝にバウンドした。

 宙に浮いたそのボールに、チョ・ウンミが軽く合わせて右足で蹴り込んだ。

 ベイスパロウのゴールネットが揺れた。


 神戸SCサポーターの歓声、そして太鼓の音が轟いた。

 両腕でガッツポーズを取るチョ・ウンミであったが、喜び抱き着いてくる仲間はいなかった。その理由は彼女本人にもすぐに分かったようで、つまらなさそうな顔になった。


 主審が、神戸SCの反則を取ったのだ。

 つまりは先ほどの空中戦、遠野信子のキーパーチャージということだろう。


 一度ならず二度までも判定に救われて、ベイスパロウのキャプテンもとあかねはほっと胸をなでおろした。


 しかし、いっそのことGKとの揉み合いになどになる前に、あっさりと失点していたほうがよかったのかも知れない。


 と、そう考える者がいたとしても仕方のない、そんな事態が起きていた。


 GKの堂島秀美が、仰向けに倒れたまま動かないのである。

 交錯した相手である遠野信子は、すぐに起き上がっており、まるでなんともない元気な表情であるというのに。


 主審が笛を吹き、試合を止めた。彼女の手招きに、担架を抱えた数人の会場スタッフ、それとベイスパロウのチームドクターが、小走りにゴール前へと近付いていった。


 ドクターはぐったりとしている秀美の、脈や瞳孔の状態などをチェック、軽い脳震盪であろうという診断と、プレー続行不可能の決断を下した。


 スタッフの一人が、大きく腕を交差させて、ベンチへと続行不可のサインを伝えた。


 その時である。

 ベイスパロウのベンチで、ごくり、と唾を飲む者がいた。


     9

 それは、控えGKのくすもとともであった。


「急いでな」


 ささもと監督は表情を変えず、友子へと、短くそれだけをいった。


 お前の出番だ。アップを始めろ。

 と、そういう意味であろう。


 楠元友子はすぐに立ち上がり、ジャージを脱いで青いGKユニフォーム姿になると、膝に手を当て屈伸を始めた。四回ほども行うと、今度はゆっくり足の各部の筋を伸ばし、続いてその場で腿上げダッシュ。


 そうこうしているうちに、担架に載せられたどうじまひでがベンチへと運ばれてきた。


「ヒデさん」

「大丈夫?」

「しっかりして下さい!」


 とくやまかんしばえいら、ベンチにいた選手たちが担架の回りに寄り集まって、意識を失っている秀美に声をかけ、心配そうに覗き込んだ。

 それを尻目に、友子はアップを続けていた。


 そしてしのはらと笹本監督も、二人でベンチにどっかと腰を下ろしたまま、試合についての話し合いをしている。


 優衣にとっても仲間の負傷はもちろん心配だ。

 でも、おろおろしたって仕方がない。はどんと構えて、である。


「……でもなあ、お前、出してやれないかも知れないぞ」


 話し合い中の笹本監督は腕を組み、ゲーム中断中のピッチへと視線を向けたままだ。


「いいよ、なんだって。勝てるんなら。残留、出来るんなら、なんだってさ」


 早々にGK交代で枠を一つ消費するのだ。その分だけFPフイールドプレイヤーの交代枠が減るのは当然であろう。

 元の予定では優衣はスタメンのはずであったが、だからといって交代で必ず使われるとは限らない。守るための交代、流れを変えて点を取るための交代、監督がその場の判断で最適な選手を選択するわけだから。


 優衣は両膝を叩いて、立ち上がると、アップを続けている友子へと近付いた。


「トモちゃん、頑張れよな。よりによってこんなとこで出番だなんてすっげえ緊張するかも知んねえけど、乗り切れば絶対に大きく成長出来る、って、そう信じてさ」

「なに……いってんだよ、偉そうに。ずっと年下のくせして」


 友子はアップをやめると、優衣の柔らかな身体を抱き寄せ、頭に手をやり、ふんわりとした髪の毛をくしゃくしゃに掻き回していた。


「ありがとな」


 ささやくようにいうと、優衣の両肩を掴んで引き離し、ゆっくりとピッチへ向かった。


 タッチライン際で止まったが、審判に交代が認められると、勢いよく自陣ゴールへと走り出した。


 前半十九分 石巻ベイスパロウ、選手交代。


 アウト GK 堂島秀美

 イン GK 楠元友子


     10

「いやあ、しかし参ったよな。トモか」


 ささもと監督は、ばりばりと自分の頭や髭モジャモジャの顎を掻いた。


「信じろよバカ、自分とこの選手をよ。そんなこったから残留争いしてんだろが」


 監督を監督とも目上とも思わないの毒舌。まあ男同士、これくらいガサツでいいのだろう。


「まあな。トモは潜在能力は凄く高いはずだし、この逆境に覚醒してくれるといいよな。まあ正直、あいつは逆境にくそ弱いタイプなんだけどな。でも、もうここまでくるとこの状況って逆に逆境ではないというかなんかだよな」

「日本語喋れよ。逆境で覚醒するんなら、逆境じゃなくなったら困るだろが。つうかそんなんどうでもよくて、とにかく勝ちゃあいいんだよ」


 この試合、ベイスパロウに必要なのは、勝ち点三という結果だけだ。それを果たせなければ、待っているのは降格しかないのだから。


 反対に、勝ち点三さえ取れるのならば、かなりの確率で残留出来るはずであった。

 そういえるだけの大きな理由がある。

 なでしこリーグの戦力格差は非常に激しいものがあり、そう滅多にジャイアントキリングなどは起こらないということだ。


 既にACおおが降格決定し、残る一枠に入ることを避けるべくかしわレニウスとスズマーレひらつか、そして石巻ベイスパロウが三つ巴の争いをしているのであるが、最終節である今日、それぞれが上位チームとの対戦なのである。

 それが、理由だ。


 ただし、その法則通りならば、それこそ勝つ可能性の一番低いのがベイスパロウなのだが。

 神戸SCという日本代表を多数抱える、リーグ戦首位のチームが相手なのだから。


 従って、もしも勝ち点三を取れたならば、という仮定の前置きなしでは語れない話なのである。


 日本代表だけではない。神戸SCは、なでしこリーグの中で唯一、外国籍選手が在籍しているクラブだ。

 現役の韓国フル代表と、昨年のU19韓国代表。


 余談ではあるが、以前にもブラジル人選手が在籍していたこともあり、このような外国籍選手の存在が、神戸SCが他サポーターに嫌われている大きな要因の一つでもあった。


 名前や経歴を挙げただけでも、実に豪勢たる選手ばかり揃っている神戸SCであるが、実際、素人目に見ても知名度の高さがそのまま試合の戦力差として試合運びに如実に反映されていた。


 ベイスパロウの選手たちは、相手の個人技やパスワークに翻弄され続け、いつの間にか、完全に自陣深くへと押し込められてしまっていた。

 俗にいうところの、ドン引きという状態になっていた。


 ただしこれは、様子を見ながら徐々に引けという最初からの監督のプラン通りでもあった。

 ベイスパロウは守備の乱れを突かれてのもったいない失点をすることが非常に多く、だから決して崩されることのないように。


 攻防の大半が自陣ゴール近くでというのは、ベイスパロウの選手たちにとっては恐ろしく精神負担の激しいものであったが、しかし彼女らは集中を保ち、身体を張って耐え続けていた。


 こんな状態では、普通に考えて得点が入るとは思えない。

 でもサッカーはなにが起こるか分からないスポーツである。ラッキーな一点、PKでの一点が得られる可能性だって当然のことながらあり、その上で失点せずに終えられれば勝利、勝ち点三だ。


 と、ベイスパロウの選手たちはみな、そんないつ萎えに繋がってもおかしくない微妙な精神状態の中で、なんとか自身の気持ちをコントロールしながら必死に頑張り続けていた。


 競り合いにより跳ね上がったボールが、てらなえの前にぽとりと落ちた。彼女は、すぐさま駆け寄り、大きくクリアした。ボールを保持しようとしたがために奪われて大ピンチを招くこと、もう飽きるほど味わっていたから。


 クリアボールにぬまたえが走り寄るが、神戸SCのボランチさわれいが、妙子を追い抜きながら身体を入れて奪った。


 沢田麗奈は素早い判断で、左前にいるコン・ミギョンへとパスを出した。

 コン・ミギョンはU19韓国女子代表の経験を持つ、現在二十歳の選手である。

 百七十三センチの恵まれた体型にふさわしいがっちりとした足の筋力を生かして、前方へと大きく蹴って、戦うサイドを変えた。


 右サイドにいるとおのぶが、オフサイドぎりぎりのタイミングで飛び出して、全力でそのボールを追った。

 その三歩分ほど後ろを、ベイスパロウDFのなかけいが追い掛ける。


 このように、常にベイスパロウの守備陣は相手に主導権を握られ、常に相手の背中を追い掛けていた。


 受け身のゲームになることは、引いて守る以上は割り切り事項と考えなけらばならないことであるが、そう考えたところであまりに一方的に攻められ続けている選手たちの精神負担が軽減するものではないだろう。

 選手たちの気力は、既にして萎えかけているように見えた。


 既に無限と思えるほどの時間を耐えてきているというのに、プレーの切れた際に時計に目を向けると、まだ前半の半分も過ぎていないのだから。


 そんな相手の気持ちなど知る由もなく、また考える必要もなく、神戸SCはどんどんボールを回し、隙を伺っては侵入し、クロスを上げ、得点を狙い続けた。


 そしてまた、コン・ミギョンのロングフィードに反応したなおもとすみがサイドを駆け上がり、速いクロスを上げた。


 間一髪、ゴール前の田中圭子が頭で跳ね返したが、クリアが中途半端になってしまい、遠野信子に拾われ、再び攻め込まれた。


 遠野信子は接近するもとハルを、フェイントで外へ逃げるようにかわすと、悠々とした余裕を持って、ゴール前中央で待ち構えているたかさきりようへパスを出した。


 高崎涼子は屈強なフィジカルがまず特徴として挙げられる選手であるが、足元もなかなかに上手である。ボールを受けるなり、飛び込んできた田中圭子を反転してかわし、左から中央へと入ってきた直本香純へとパスを出していた。


 直本香純は、完全にフリーでボールを受けていた。


 ベイスパロウはこれだけ自陣に引きこもって戦っているというのに、相手のパスワークの前に見事に崩されてしまっていた。


 直本香純の正面には、GKただ一人だけであった。


 シュートモーションに入ったその瞬間、横から野本ハルがスライディングで、ボール目掛けて突っ込んだ。


 直本香純は冷静に、ちょんとボールを引いて守る。そして、軽快なステップで横へ踏み込んで、滑り込んできた巨大な障害物をかわすと、改めて素早いモーションで右足を振り抜いた。


 バンと小気味良い音が鳴ったが、次の瞬間に選手たちの鼓膜を震わせたのはゴールネットの揺れる音ではなく、

 ばちいん! とスタジアム中に聞こえそうなほどに響き渡った痛々しい音であった。


 もとあかねが身体を、顔を、のけぞらせ、なんとか足を踏ん張らせて転ぶのをこらえていた。そう、直本香純のシュートが、その顔面を直撃したのである。


 こぼれに反応してすかさず高崎涼子が詰め寄ったが、間一髪、入ったばかりのGKくすもとともが大きく蹴飛ばしてクリアした。


 友子は、胸に手を当るとほっと一息をついた。


     11

「トモ、ナイスクリア!」


 キャプテンのもとあかねは、親指を立てた手をともへと突き出すと、ゴールに背を向け小走りで自分のポジションへと駆け戻る。


「また出た~、野本の十八番、顔面ブロック!」


 背後のゴール裏応援席から、そんなサポーターの声が聞こえてきた。


 別に十八番じゃないんだけど。


 心の中で反論するキャプテン。


 でも確かに最近多いかも、なんでか知らんが。どんどん鼻が潰れて、嫁の貰い手なくなっちゃうよ。まあ、いいや。サッカーが旦那さんだ。


 この圧倒的な劣勢の中で野本茜は選手として、キャプテンとして、真剣にやることは当然としながらもあえて気楽に構えることで、かかる重圧を乗り切ろうとしていた。

 しかし内心でなにをどう考えようとも、圧倒的戦力差に走らされ続けていることによる肉体的な疲労や、無意識へと襲い来るプレッシャーだけはどうしようもなかった。


 ピッピッという短い審判の笛に、茜は呼び止められていた。


「止血、してください」


 主審の女性は、自分の鼻を人差し指で押さえてみせた。


 茜は立ち止まり、いわれてみれば確かに感じるむず痒さと鉄臭さに鼻の下を指でこすってみた。指に、どろりんと赤いものがついてきていた。


 主審に促されるまま、ピッチを出てベンチと戻った。

 世の無情、ベイスパロウは一人少ない状態であるが、主審は容赦なく試合再開の笛を吹いた。


     12

「なに? 鼻血? 顔面ブロックばっかりやってっからだよ」


 ベンチに大股開きで座っているしのはらは、ドクターの止血処理を受けているもとあかねを見ながら指を差して笑った。


「うるせえぞクソガキが! 好きでやってんじゃあないんだよ!」

「うるせえのはお前だ、茜! 血ィ止まんねえだろが!」


 スタッフのよしはじめが怒鳴り付けた。


「くそ、優衣のせいで怒られた」


 っと、こんな争いより試合だ試合。茜は気になって、ドクターに顔や鼻を押さえ付けられながらも、ちらちらと横目でピッチへと視線を向けた。


 とりあえず、ちゃんと、頑張ってくれているようだ。


 十人になったことで、さらなる劣勢に陥っているベイスパロウであるが、もともとこれ以上はないくらいに引き気味であったため、さらに後方へ引くことなどは出来ようもなかったが、それぞれがより集中を高めて、しっかりと相手の突破を遮断していた。


 ボールはいいように回されていたが、先ほど茜が身をもって見本を示したような身体を張った粘りの守備で、なんとか最後の最後のところだけは食い止めていた。


 以前より最弱最弱といわれて実際に今年ついに降格の決まってしまったACおおと、前節、石巻ベイスパロウは対戦した。かろうじて勝利はしたものの、試合内容では完全に負けていた。

 勝ち点3を得るという、残留のために最低限の、かつ最高の結果を手に入れたのにもかかわらず、立ち込めた暗雲の真っ只中にいるような負の心理にすっかり意気消沈していた選手たちであったが、やはりいざ次の試合が始まってみれば、身体は勝手に動くようだ。


 そうだ。相手が強いからとか、代表だからとか、降格したくないとか、そんな泣き言などはいっていられない。自分たちは、サッカーが好きなんだから。好きで好きで、頑張って頑張って、トップリーグのサッカー選手になったんだから。


 茜は、ぎゅっと拳を握った。

 神戸SCの洗練されたチームワークや選手の個人技の前に圧倒的な劣勢は揺らぎなく、いつ誰の心が萎え切ってもおかしくなかったが、その都度、選手たちはそれぞれに声を掛け合い、叱咤し合い、頑張り続けていた。


「よし、終わったぞ、茜。行ってこい!」


 吉田始が、茜の背中をバンと叩いた。


     13

「お待たせ! みんな、よく集中してるよ。この調子でいこう! 無失点を続けてけば、相手は焦る!」


 止血処理を終えたもとあかねが、小走りにピッチの中へと戻った。


 選手たちの心に消えかけていた希望の火が再び灯った、というほどではないが、僅かながらもその表情に明るさの戻ったことは間違いないだろう。


 とはいえ、神戸SCの猛攻を受け続けているというこの現状に対して、いささかの影響すら与えるものではなかったが。


 さわれいから縦のショートパスを受けたチョ・ウンミが、あっという間にバイタルエリアへと入り込んできた。

 チョ・ウンミだけではない。前線の他の選手たちも連動して、するりするりとゴール前へと入ってくる。


 ベイスパロウのCBセンターバツクもとハルがチョ・ウンミに食らい付こうと必死の形相で前に立ったが、一瞬後にはボールはたかさきりようの足元へと渡っていた。


 高崎涼子はボールキープしつつ、すすっと視線を素早く動かして状況を確認すると、チョ・ウンミへと戻した。


 しかし、チョ・ウンミはそれをスルーしていた。


 二人のパス交換に翻弄されてどっちつかずになってしまっていたハルの目の前を、嘲笑うようにボールは転がり、とおのぶの足元に収まっていた。


 遠野信子の目の前には、ぽっかりとスペースが空いている。

 またもやベイスパロウは、崩されてしまっていた。


 一瞬とはいえ完全にフリーとなったこの状態を、去年の得点王である遠野信子が見逃すはずもなかった。

 小さなモーションながらも、しっかりと足腰のバネをきかせて、日本代表の誇る黄金の右足を振り抜いていた。


 ぐんと伸び上がったボールは綺麗な弾道を描いて、ベイスパロウゴールを襲った。


 素晴らしいシュートであったが、しかし得点にはならなかった。

 GKのくすもとともが片腕一本で弾き上げたのである。


 驚きと恐怖のあまり無我夢中で振り回した手に偶然に当たった、とも見えるものであったが。


 はっと我に返った友子は、ボールを見上げ、落下をキャッチすると、すぐさま助走をつけて大きく放り投げた。


 ベイスパロウの左SBサイドバツクであるせんチカが、走りながら足で受けていた。


 カウンターだ。

 ベイスパロウの選手たちは守備数人を残して、全力で駆け上がり始めた。


 現在前半の三十三分。引いて守ってカウンターサッカーに徹していたはずだというのに、これがこの試合初めてのカウンターチャンスであった。


 仙田チカから、てらなえ、そして西にしひさへと綺麗にパスが繋がった。


 だがここで、仲間たちの目にとても信じられない光景が映った。

 西田久子が、サッカー経験者ならば楽々処理出来るであろう簡単なボールを、誤ってタッチラインの外へと蹴り出してしまったのである。


 相手の自滅に、ゴール裏の神戸SCサポーターから拍手と歓声が上がった。


 久子は苛立ちを呼気にして吐き出すと、地面を蹴り付けた。


     14

「ごめん」


 近くにいたつじうちあきへと謝った。


「気にしない」


 秋菜は片手を上げ、笑みを作った。


 それでも西にしひさの、自責しているかのような怒った表情は変わることはなかった。

 ような、ではない。久子は実際に、監督の求めることをまるで出来ていない自分に腹を立てていた。


 毎日必死の思いで鍛えているというのに、以前のように自由に走れないこの身体に腹を立てていた。


 以前はともかく現在の久子は、サッカー選手としては非常に鈍足であり、よって元々からカウンターサッカーというものを苦手としている。

 さらに加えて、今日の相手は鉄壁の守備を誇る神戸SCだ。

 とにかく急がなければ、僅かな得点の可能性が自分のせいでゼロになってしまう、と、そんな焦りが生んでしまった先ほどのタッチミスであった。


「なあに、まあだサッカー続けてたんだあ?」


 背後からの声に久子が振り向くと、そこには神戸SCのなおもとすみが立っていた。

 入場の時にも一緒であったというのに、しらじらしく。


「そんな子供でもやらないようなミスをしてるくせにい。羨ましいくらい図太い神経してるねえ。ちょっと分けてよ、その神経。ほんのちょっとだけでも、充分過ぎるくらいに図太くなれそうだし。ほんとに羨ましいなあ。いまみたいなのやっちゃったら、あたしだったら恥ずかしくて生きてらんないよ」


 直本香純は、わざわざ作っているとしか思えない演技めいた笑みを、その顔に浮かべていた。

 一体どんな反応が見られるのか、と楽しげな様子であった。


 相手の期待に応えなければならない義務は久子にはなく、無反応を決め込んで直本香純の横を通り過ぎていた。


 背後から、直本香純の小さな舌打ちが聞こえてきた。

 久子は表面上、無視はしていたものの、胸の中に込み上げてくる悲しみを押さえ込むことは出来なかった。


 「一緒にプロ契約になれるといいね」

 そう、仲良く語り合った仲だったのに。


 「困ったことがあったら、いつでも、なんでもいってよ」

 そういって、いらないお節介をしつこいくらいに焼いてくれたのに。


 わたし、いま、困ってるよ……カスミさん。


 久子はタッチライン外でスローインのボールを両手に持って立つ直本香純を見ながら、自分が神戸SCに所属していた頃の彼女を重ねていた。


 あの頃の幸せがあるから、現在の辛さがあるというのに。

 でもやはり、全てが未来へと向いていたあの時は、もう二度とないくらいの素晴らしい思い出で、

 だから、直本香純の変化は久子にはとても耐え難いものだった。


 どうして人間は、未来への想像力などという余計なものを持ってしまうのだろう。そんなものさえなかったら、今頃は……


「久子ちゃんドンマイ、次、次!」


 その大声に、すっかり遠い場所へと飛んでいた久子の意識は、我に返っていた。

 ベンチに視線を向けると、しのはらが両手を激しく振り回して叫んでいる。


 無駄に元気な奴だ。


 久子はそう思いながら、気を引き締めた。


 過去は過去。

 ましてや試合中。

 思い出に浸っていても意味などないのだから。


     15

 神戸SCのスローイン、両手にボールを持ったなおもとすみが軽く助走を付けて、放り投げた。

 チョ・ウンミが走り寄って、胸で受けた。


 一歩出遅れたせんチカが慌てて身体を寄せるものの、チョ・ウンミはチカを背負ったままくるり反転して入れ替わり、悠々と直本香純へとボールを戻した。


 直本香純は踏み込むと、大きく前線へと蹴った。


 ベイスパロウにとって、プレーが切れたことによる休息は一瞬にして終わり、また、ひたすらと猛攻に耐え続けるだけの時間になった。


 これがもしも個人競技であったならば、ベイスパロウの選手は孤独に我慢が出来なかったことだろう。

 それほどに、この圧倒的戦力差はベイスパロウの選手たちに絶望感を与え、肉体のみならず精神的な疲労をも強いていたのである。


 とはいえ、だからこそ徹底的に引いて守るベイスパロウに対して、神戸SCといえどそう簡単に点を取れるものではなく(それでも何度か決定的なピンチを招いたが)、とりあえずのところ、ささもと監督の狙い通りにゲームは進んでいるといえた。


 神戸SCにとっては、石巻なにがしなどという弱小チームに対して、引き分けでも恥ならば、一失点も無得点も恥というものだろう。ならばこのまま0‐0で進めていけば、必ず焦れてくるはずであり、そこを上手く突くことが出来れば、勝機も生まれてくるかも知れない。


 奇跡の勝利を掴むには、とにかく粘りに粘って一点差勝負。それには、先に失点をしないことだ。仮に先制を許してしまったならば、勝利はほぼ絶望的だ。相手にとっては、もう守るだけでよいのだから、ただでさえ反則級といって過言でない硬い守備がさらに硬くなって、一点すらも奪うことが出来ないままに試合が終わるだろう。


 とにかくこのまま、試合を進めることだ。

 とにかくこのまま、試合を進めなければならない。少なくとも前半のうちは。


 しかし、プラン通りにいかないのが世の現実というものである。


 前半四十分に、ベイスパロウはついに失点した。

 得点を決めたのは、元日本女子代表である直本香純であった。


 三年前の女子W杯での大活躍により、いまや女子サッカーに興味のない者にも広く顔を知られている有名人だ。


 猛攻を、身体を張って耐えに耐え続けていたベイスパロウであったが、失点の場面は思わず拍子抜けするほどにあっけのないものだった。


 神戸SCのDFなかすみの、前線へと思い切り蹴ったロングボールが風に乗って思いのほか伸びた。

 後ろに下がりながら、両手を上げてキャッチの体制に入ったベイスパロウGKのくすもとともであるが、落下目測を大きく誤っていた。

 よろめきながら、かろうじてボールに手を当てて弾いたものの、そこへ味方のフォローはなく、チャンスを逃さず落下地点へ走り寄った直本香純が身体を倒しながらバイシクルシュート。


 こうして、ついにベイスパロウのゴールネットが揺らされたのである。


     16

 なおもとすみ、三十歳という年齢のためか、少し贅肉も付いてかつての俊足もスタミナも鈍ったとはいえ、彼女を代表たらしめていたゴール前での決定力は、いまだ衰えを知らずであった。


 ゴールが決まった直後のベイスパロウの選手たちは、みな、主審や副審の姿を確認し、オフサイドやファールの判定がないかと淡い期待を持ったが、直後、一様にその顔に落胆の色を浮かべてがっくりと肩を落とした。


 得点を決めた直本香純は、仲間と抱き合って、飛び跳ね、喜びを爆発させている。


 同じピッチの上に、完全に対照的な二つの絵が生まれていた。天国と地獄、といっても過言ではないほどの。


 芝の上だけではなかった。両ゴール裏のサポーターの表情、声、太鼓の音、その全ての空気が完全に対極であった。


 しかしすぐに、ベイスパロウのコールリーダーがガラガラ声を張り上げると、太鼓の響きを音頭にサポーターのベイスパロウコールが始まった。


 ホームだというのに、遥か遠くから来た相手チームの五分の一しかない貧弱なサポーター数であったが、それでも彼等は懸命に叫び、両手を振り上げ、叩き、選手たちに声を、気持ちを送り続けた。


「まだまだ! みんな、顔を上げろ、顔を! あれ見ろ! サポーターたちだって諦めてないんだぞ!」


 もとあかねは手を痛いくらいに激しく何度も叩き、そしてホームゴール裏を指差した。


「勝負はこれからだ!」


 茜は、折れそうな自分の本心に嘘をついて、虚勢を張り、仲間を励ました。

 だが……


     17

 試合再開してから一分と経過せぬ間に、チョの強烈なミドルがベイスパロウのゴールネットに突き刺さっていた。


 ベイスパロウは、勝たねば降格であるというのに追い付くどころか突き放されることとなったのである。


 もとあかねの、マークミスが原因であった。

 茜は、芝を蹴り、悔しげさを顔に滲ませた。


 先制されてプランが崩れた以上は、若干以上に前掛かりにならなければならない。それによるリスクの発生は当然であるが、しかしどんな理由があろうとも、いくらゴールまでの距離が離れていようとも、韓国女子代表のエースストライカーであるチョは絶対にフリーにしてはいけなかったのだ。


 悪いことは重なる。

 前半アディショナルタイム、追い打ちをかけるようにベイスパロウに三つ目の悲劇が起きた。


 CBセンターバツクもとハルが、PAペナルテイエリア内をちょこまか動くなおもとすみを掴まえ切れずに、足を引っ掛けて倒してしまったのである。


 主審の笛。

 そして、迷うことなく高く掲げられたレッドカード。

 野本ハル、一発退場である。

 それとともに、相手にPKが与えられることになった。


 ハルはぺたんと座り込み、呆然としてしまっていた。

 自責の念……迫る降格……

 彼女の目に、涙が滲む。


「はい邪魔邪魔、いる資格ない人は早く引っ込んでよ」


 起き上がった直本香純は、ハルに向かって犬や猫でも追い払うような仕草で手を振った。


「そういうこというの、やめてもらえますか?」


 野本茜は、ハルを守るように直本香純の前に割って入った。


「冗談。でも、こっち倒されたほうなんだから、それくらいいわせてよ。……もう少しで降格するからって、ぎすぎすした感情をぶつけてこないでよ」


 直本香純は、ニッと笑みを浮かべた。


 茜は、思わず拳をぎゅっと握り締めていた。

 挑発しているんだ。焦りを誘うだけでなく、暴言でさらに相手が退場してくれれば儲けものだからだ。

 充分に、分かっていた。

 でも茜には、自分を抑えることが出来なかった。


「もう一回いってみろよ、てめえ!」


 怒鳴っていた。

 胸倉を掴もうと、手を伸ばした。


「ダメ、茜さん! カード出ちゃう!」


 てらなえが、茜を背後から羽交い絞めにし、押さえ込んだ。


 直本香純は楽しげな笑みを浮かべながら、わざと服を掴まれてやろうと胸を突き出した。


「上等じゃねえか。そんな殴られてえか」


 と、羽交い絞めを振りほどこう暴れてもがく茜であったが、


「ごめんなさい!」


 ハルの大きな声に、はっと我に返っていた。

 野本ハルは、ゆっくりと立ち上がると、茜へと深く頭を下げた。


「あたしが、ヘマしちゃったから! ほんと、ごめんなさい!」


 泣きそうな表情で必死に謝るハルを見ているうちに、茜はどうしてあんなに我を忘れて激高していたのかを不思議に思うほどに、落ち着きを取り戻していた。


 なえは、ようやく羽交い絞めを解いた。

 茜はハルへと近寄ると、笑みを浮かべた。


「運が悪かっただけ。気にしない。それだけチームのために必死だったってことなんだから」


 そういうと、ハルの背中を軽く叩いた。

 自然な笑顔、作れただろうか。

 自信は、ない。

 でも本当にハル個人に責任はないと思うし、それははっきりと伝えたかった。

 運が悪かったというよりも、正確には相手にしてやられたというところだろう。おそらく直本香純は、わざと転ばされるような動き方をしたのだ。


「キャプテンのくせに我先にブチ切れないで下さいよ。元ヤンキーって噂は本当だったんですね」


 なえは、注意なのか冗談なのか分からないような台詞を茜へと投げ付けた。


「いや、それは真実ではない」


 などと弁明している場合ではない。茜は、ペナルティマークへと向かう神戸SCの選手に視線を向けた。


 PKを蹴るのはチョ・ウンミのようだ。

 ちょこんちょこんと、少しずつ蹴りながらボールを運んでいる。

 少し強めに蹴って転がしたかと思うと、ボールは四メートルほどの距離をするすると転がって、ペナルティマークの真上でぴたりと止まった。

 顔を上げて、相手GK、くすもとともを見た。

 チョ・ウンミのその顔には、余裕からくる笑みが浮かんでいる。


 反対に楠元友子は、表情からなにからガチガチであった。

 それがますます格下への優越感となったか、チョ・ウンミの顔がますます愉快そうなものになっていた。


「トモ、肩の力もっと抜いて! 落ち着いて! 集中して、相手をよく見て! 気持ちで負けんな!」


 茜は大声を張り上げた。GKにPKのアドバイスを送るなどおこがましいかとも思ったが、彼女があまりにガチガチなのでいわずにいられなかった。


「分かってますよ!」


 友子は声を荒らげた。


     18

 分かってるんだ。そんな、正論。

 くっだらない。


 くすもとともは、あかねの言葉に心で毒づいていた。


 そんなんで冷静になれるなら世話はない。

 そもそも、なにが落ち着けだよ。相手選手の些細な挑発にブチ切れてるくせに。

 でも……

 とにかくやるしかないんだ。

 だってそうだろ。神戸SC相手にこれ以上失点なんか重ねたら、例え奇跡が起きたって逆転なんか不可能なんだから。

 だから神様の奇跡を呼び込むためにも、ここは絶対に食い止めてやる。

 結果はともかく、ここでそう思わなかったら、わたしにGKの資格はない。


 友子は思わず俯き加減になっていた顔を上げて、チョ・ウンミを睨み付けた。

 両腕を大きく広げて、威嚇した。


 その態度に、チョ・ウンミは思わず歯を見せて笑った。楽しいのだろう。弱者の抵抗が。ネズミの強がりが。


 審判が、短く笛の音を鳴らした。

 全員が後ろで息を飲む中、チョ・ウンミは歩いているのとさして変わらないくらいに、ゆっくり、ゆっくり、ボールへと駆け寄っていった。


 我慢比べを挑んでいるのか、ただカチコチに硬直してしまっているのかは分からないが、友子はぴくりとも動かない。


 ゆっくり、ゆっくりと、チョ・ウンミは、ボールへと向かっていく。

 ペナルティマークにセットしたボールのところまで来ると、にやけた表情のまま、足を素早く振り上げ、その瞬間に振り下ろしていた。


 それは助走のゆっくりさからはまるで想像も出来ないような、勢いのあるシュートであった。


 勢いだけではない。精度も秀逸で、枠の隅をしっかりと捉えていた。


 おそらく、最初は俗にいうコロコロを狙っていたのだろう。蹴る寸前までGKが全く動かなかったため、切り替えたのだ。

 しっかり見切ろうとして動かなかったのか知らないが、それならそれで隅へ思い切り蹴ればいいだけのこと、と。


 ベイスパロウのゴールネットが揺れて、神戸SCの三点目が決まった。

 と、ほとんどの者がそう思ったことだろう。

 それほどに、見事なシュートであった。


 しかし、現実は異なっていた。

 異なっていたどころではない。

 チョ・ウンミ、そして神戸SCの選手たち、それどころかベイスパロウの選手たちすらも信じられないような光景を、彼女らは目の当たりにしていたのである。


 GK楠本知子が横っ飛び、パンチングでボールを弾いたのを。


 読み切り、弾道を見切ったとしても、蹴った瞬間から飛んでいては絶対に届くはずのないシュートであったというのに。


 PK失敗に、チョ・ウンミは目を見開き、口をぽかんと開き、なんともいいようのない表情を、その顔に浮かべていた。


 転がしてくるのではなく、しっかりと蹴ってくるであろうことを見抜いた友子は、蹴り足を見て、直感で思い切り真横へ二段飛びしたのだ。端まで届いたのは持ち前の身体のバネと、長身故のリーチの賜物であった。


 ファインプレー、いや、ミラクルプレーにどっと観客席が沸いていた。


 こぼれたボールに神戸SCのとおのぶが詰め寄ったが、間一髪、ぬのようが大きくタッチラインへと蹴り出して、難を逃れた。


 ピッチに倒れていた友子は上体を起こすと、ボールが外に蹴り出されたことを知り、安堵のため息をついた。

 自分の、グローブをはめた両手を見つめた。


 わたし……

 止めた?

 相手の、

 韓国代表の、PKを……


 次の瞬間、雄叫びを上げていた。

 身体の奥から湧き上がってくる、PKを阻止したという実感に、膝立ちのまま雄叫びを上げていた。


 客席から、改めて賛美の拍手が起きた。

 男子代表のGKでもどうかという質の高いPKを、止めてしまったのだから。


「トモ、凄いよ!」


 せんチカが、そしてなかけいが、友子を押し倒し、折り重なるように抱き着いていた。


 PKを外したチョ・ウンミは、負けているくせにおおはしゃぎで喜んでいる彼女らの姿に悔しさを爆発させたか、顔を歪め地面を蹴り付けていた。

 相手を完全に舐め切っていてのこの結果、恥ずかしさも後押ししてか、荒れ狂い出し、味方選手に朝鮮語で怒鳴り散らしていた。


 さわれいがチョ・ウンミの肩を抱き、なだめている。


 PKのこぼれを布部洋子が蹴り出したことで、神戸SCのスローインである。ふかがいがタッチラインへと走っていくが、しかしそこで、主審の笛が鳴った。


 石巻ベイスパロウ 0-2 神戸SC


 試合は神戸SCリードのまま、ハーフタイムを迎えることとなった。

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