Chapter1. Your Memory(君の記憶) 4



 エヴァンは、外でぼんやりと佇んでいた。


 ふらふらと歩く男を認め、顔をしかめる。


「……悪魔、なのに」


 きっと災厄を振りまくだろう。それに、あの男自身も不憫だ。


 何とかしてやりたいと思っても、エヴァンの手には何もなかった。


 そこでふと、見慣れぬ男がこちらに近づいていることに気づいた。


「やあ、こんにちは。君――ずっと彼を見ていますね。何か、見えるのですか?」


 穏やかで優しそうな青年だった。でも、エヴァンは答えられなかった。


(嘘つき、って言われたら大変だ……。またお母さんに怒られてしまう)


「……別に。見てただけ」


「そうですか。――私は、ネイサン・シュトーゲル。少し離れた町で、牧師をしています」


 この村は、カトリック教徒の村だ。だから牧師を目にするのは、初めてだった。


 手を差し出され、エヴァンはおずおずとその手を握った。


「僕は、エヴァン・マクニール」


「エヴァンだね。よろしく。……ねえ君、きっと見えるんだと思います。だから――見ていてください」


「え?」


 エヴァンが戸惑っている間に、牧師はあのふらふらした男の元に行ってしまった。


 牧師の手が額に触れると、男は苦悶の顔を浮かべる。


 不思議な光が、牧師の周りに満ちる。


「牧師様――」


 思わず駆け寄りかけ、エヴァンは目を見開く。


 男に取りついていたはずの悪魔が、牧師に移っていた。しかし、彼は慌てた様子もなく腹を押さえる。


 目を閉じると、彼の周りに清冽な光があふれた。まるで、聖なる光だ。


 いや、これは正に聖なるものだ。聖気が彼に満ちていた。


 そして――悪魔は牧師の中から、いなくなっていた。もちろん、悪魔を移された男もきょとんとしている。


「……すごい!」


 エヴァンは思わず、叫んでしまった。


「今の、どうやったの?」


「ああ、やっぱり見えたんですね」


 牧師に微笑まれ、エヴァンはばつが悪くなってうつむく。


「普通の人には、あの光は見えないはず。悪魔が移ったことも、ね」


「……ごめんなさい」


「謝ることはありません。今のはね、私に悪魔を移して聖気で浄化したんですよ。悪魔は地獄に帰った。こんなことができるのは、私の体質のおかげです。普通の悪魔祓いもびっくりするぐらい、特殊な方法なんですよ」


 悪魔祓い、という部分でエヴァンの睫毛が震えた。


「この村にも昔、悪魔祓いがいたんですってね。それは、君のお父さん?」


「……うん」


「そうですか。実は、この村に寄ったのは偶然なんですよ。でも、来てよかった。……君はどうして、悪魔が見えることを言わなかったのですか?」


「だって、お母さんが言っちゃだめって言うし。怒るし……」


 エヴァンは痛む背中を意識した。


「――お父さんはあまり、悪魔祓いのことを教えてくれなかったのでしょうか?」


「……うん。大きくなったら教えてやるって言われたけど、死んじゃった」


「そう――。あのね、エヴァン。悪魔が見える力っていうのは、神の恩寵おんちょうなんですよ。その力で、たくさんの人を救うことができる」


「そうなの?」


「そうです。だから、君の力は役立てるべきです。ちゃんと悪魔祓いの修行を積みましょう。私と一緒に、来ませんか?」


 エヴァンが断るはずも、なかった。




 牧師はすぐに、母に話を通した。


 元々厄介者扱いされていたエヴァンは、あっさりシュトーゲル牧師に引き取られることになった。


 兄も見えることを言った方がいいのだろうか、と迷いながら母の傍らの兄を見る。


 兄は無表情だった。


(兄さんは優秀だから、近々いいところの寄宿学校に通うことになってる。それに、兄さんも見えるなんて言ったら母さんは兄さんを鞭打つかもしれない)


 だからエヴァンは、沈黙することにした。


「書類などはまた今度手続きするということで、よろしいですか?」


「ええ、ええ。早く連れていってください。その子も、嬉しそうじゃありませんか」


 母に睥睨へいげいされて、エヴァンは萎縮いしゅくした。鞭の痛みを思い出して、震えそうになる。


「では、エヴァンは連れていきますよ。さあ、行きましょう」


 こうしてエヴァンは、シュトーゲル牧師の養子になることになった。




 連れてこられた村は、エヴァンの故郷の村よりも大きかった。行きかう人も多い。


 こうして、エヴァンはシュトーゲル牧師と共に牧師館で暮らすことになった。


 エヴァンは、少しずつ新しい生活に慣れていった。


 しかし、母に折檻せっかんされた記憶は忘れがたく、何度も悪夢を見た。夢の中で鞭打たれて叫び、冷や汗と共に起きて震えた。


 そのたびに、エヴァンの叫びを聞きつけた牧師が様子を見にきてくれた。


「エヴァン……大丈夫ですか?」


「……」


 背中を気にしているエヴァンに気づいたのか、牧師は「背中を見せてごらんなさい」と言った。


 エヴァンはおずおずと、寝間着の上を脱いだ。


 月明りに、その痛々しい跡が浮かび上がった。


「……虐待されているのでは、という推測は当たりでしたか。――かわいそうに」


「僕が、悪いんだ。悪魔が見えるって言うなって言われたのに、何度も言ったから!」


「いいえ、エヴァン。君は悪くありませんよ。以前も言ったでしょう。この力は神の恩寵だと。――何より」


 牧師の冷たい手が背に触れ、エヴァンは身を震わせた。


「母親といえど、子供を痛めつける権利などありませんよ。……エヴァン、まだ痛みますか?」


「たまに」


「そうですか。まだ新しい傷もあるようですから、よく効く軟膏でも塗っておきましょうかね」


 そこでふと、牧師は首を傾げた。


「エヴァン」


「……はい」


「やはり――あなたは、名前を呼ぶたびに、身を震わせますね。怯えているのですか?」


「……」


 エヴァンは、うつむいた。


 母は仕置きをするときいつも、「エヴァン」と名を呼んだ。当たり前の行為なのだが、だからこそ名前を呼ばれることに、一種の拒否反応を示すようになってしまった。


「その名前は、嫌いですか」


「嫌いなわけじゃ、ない。でも――あまりにも、お母さんの記憶と結びついていて……」


 呟くと、大粒の涙が手の甲に落ちた。


「そうですか。……では、呼ぶ名前は変えましょうか」


「名前を、変える?」


「ええ。そのように、名前を呼ぶ度に怯えるのでは君が気の毒なので……。ああ、そうだ。ミドルネームはありますか? あるなら、それで呼びましょうか。それも本名なのですから」


 牧師の提案にエヴァンはきょとんとしてから、頷いた。


「うん。僕のフルネームは、エヴァン・フェリックス・マクニール」


「わかりました。それでは、これからはフェリックスと呼びましょう」


 牧師に微笑まれ、エヴァンはようやく笑い返すことができた。


(もう泣き虫エヴァンには、さよなら。これからは、フェリックスとして生きよう……)


 エヴァンの思考に頷き、ルースはようやく自らの意識を知覚した。


(なるほど、それでフェリックスになったのね。フェリックスは、フェリックス・E・シュトーゲルと名乗っていた。Eはエヴァンだった……。元々の名前の順番を変えただけ、だったのね)


 すると、そこでトゥルー・アイズの声が響いた。


「ルース。そろそろ、過去の私が出てくる。私は出ていかなくてはならない。あとは、頼んだぞ」


「……わかったわ」


「いいか? 空間が歪むまでは、お前から働きかけたりしないように。だが、あまり意識をフェリックスと同化させすぎないように。ときどき自分の名前を思い出したり、手を動かしたりして自分の意識を保つんだ。でないと、お前もフェリックスと一緒に記憶のおりに閉じ込められてしまうぞ」


 トゥルー・アイズの忠告にゾッとしながらも、ルースは頷いた。


 先ほどまでルースは完全に、エヴァン――フェリックスの意識と同化してしまっていた。危ないところだった。


 しかも、これからはトゥルー・アイズがいなくなる。


(気を、張らなくちゃね)


 拳を握りしめて、ルースは「では」と告げて去るトゥルー・アイズの背を見送った。


 そうして、また場面が転換した。


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