幽霊倒してレベルアップするだけの簡単なお仕事RIVIVE!
梅松竹彦
第1話 プロローグ
走る。走る。走る――――――。
振り返ることなく、妙に生暖かい風が肌をぬるりと撫でる暗い夜道を、背後から迫る死を振り切るために。
それの気配に気付いたのは、本当に唐突だった。
高校の入学式を明日に控えた四月三日。
どうにも寝つきの悪い夜だった。
いつもなら夜の九時半にはベッドに入り五分とかからず夢の中なのだが、この日だけはどうにも目が冴えてしまい、いつまでたっても眠れなかった。
そんな夜は、俺は決まって静かに読書をして過ごす。
俺が読書好きと言うと、「へぇ、意外」とか「嘘だ!」とか、割と心外な反応が返ってくるのだが、俺は決して馬鹿ではない。
中学の三年間、常に学年十位以内の成績をキープしてきた事がその証明である。
ただ、俺は自分が正しいと思った事を実行するのに
それがどうにも周囲から変に誤解されているらしい。
小学校の恩師
雑多なジャンルの本が並ぶ、いっそ無節操と言っていい本棚から適当な本をチョイスして、覚えている内容と照らし合わせながらパラパラとページをめくっていく。
すると突然、背後に『何かよくないモノ』の気配を感じた。
あの感覚を、はたしてなんと表現すべきか。
背骨の裏を冷たい手で撫でられたような。兎に角、ものすごく嫌な感覚だ。
念のために言っておくが、俺に霊感とか超能力とか、そういう不思議パワー的なものは全くない。
先祖にも、少なくとも爺ちゃん婆ちゃんたちの世代まではそういう能力を持った人はいないし(俺が知らないだけかもしれないが)、それより前の世代にいたという話も聞いた覚えがない。
幼馴染の友人に寺生まれの
嫌だなー、怖いなーと思いつつも、見ないまま無視するのもそれはそれで怖いので仕方なしに振り返る。
すると目と鼻の先に、長い黒髪を床まで垂らした血まみれの女の幽霊がいて……。
目と目が合う。瞬間、悪霊だと気付いた。
どす黒い涙を流しながら、『殺シテヤル』などと物騒な言葉を早口で繰り返す奴が悪霊以外のなんだというのか。
自分で言うのもなんだが、俺の判断は早かった。
咄嗟に窓を開けて退路を確保して、二階から表の路地へ二歩で飛び出し、五点着地で華麗に受け身を取ると、そのまま振り返ることなく近所のお寺目指して猛ダッシュ。
悪霊女も首を三六〇度グリングリン回転させながら、四つん這いの姿勢で手足をカサカサ動かして俺の背中を追う。
捕まったら人生終了の真夜中の鬼ごっこのはじまりである。
『アアアアアアッ! 殺殺殺シテシテシテシシシ死シ殺ス!』
「うっせー! 誰だか知らんが呪う相手間違えてんぞ!?」
家を飛び出した俺は、裸足のまま夜道を走り出す。
突然のことだったのでスマホを部屋に置いてきてしまったのが悔やまれた。
進行方向、電柱の影からも、全裸のオッサンと昆虫の合いの子みたいな小さい幽霊がうじゃうじゃ湧いて出てくる。
思わずジャンプで飛び越えると、そいつらも悪霊女に混じって俺の後を追ってきた。
そういえば幽霊というのは
『ギャアアアアアアアアアア!?』
背後から聞こえてきた断末魔に思わず振り返ると、悪霊女が小さなオッサンを次々捕まえて頭からモリモリ捕食していた。
オッサン(?)を捕食して霊力的なものが上がったのか、悪霊女の身体がメキメキと膨れ上がる。
ヤバイヤバイヤバイ!? 共食いするとか聞いてないぞ!?
大きくなった体で速度を上げて追いかけてくる悪霊女(強)に、いよいよ振り返る余裕が無くなり、前だけを向いて寺までの最短ルートを駆け抜ける。
だが、勝手知ったる近所の道のはずなのに、いつしか俺は見覚えのない道へと迷い込んでいた。
この辺りの道は目隠ししていても歩けるほど知り尽くしているので、道を間違えたということはありえない。
不自然なほど背の高い
血のように赤い電灯の光が不安と恐怖を煽ってくる。
「い、行き止まり……」
行き着いた先は袋小路。どこか抜け穴は無いかと視線を巡らせるが、潜れそうな穴も、よじ登れそうな場所も無かった。
ぺたぺたと湿った足音を響かせ、悪霊女が路地の角からぬぅっ……と顔を出す。
悪霊女は先程見た時よりもさらに巨大化しており、手足が六本になっていた。
くそっ! こんな所でわけもわからず死んでたまるか!
「摩訶般若波羅蜜多心経観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舍利子色不異空空不異色色即是空空即是色……」
お寺の和尚は言いました。困った時は般若心経を唱えなさいと。
幼馴染のタッツンの実家の寺は、平日は幼児保育もやっていて、俺も幼い頃はそこでお世話になっていた。
だから般若心経の読経くらいはお手のもの。悟り教育の賜物である。
お釈迦様のありがたい教えでとっとと成仏しやがれ!
『ケヒッ、ケヒケハケハハハハハハハハハハハハハハ!』
ところがどっこい。悪霊女、まさかの大爆笑である。
般若心経のどこに笑えるポイントがあったのか。悪霊のセンスにはちょっと共感できそうにもない。
く、くそっ! こうなったら最後の手段だ。
俺は恥を捨てる覚悟を決めて、――――その場で服を脱いだ。
『ナ、ナニシテル!?』
驚き戸惑う悪霊女。顔を手で隠してはいるものの、その怨念に狂った瞳は俺の息子に釘付けだ。
そんなムッツリさんな悪霊に向かっておもむろに尻を突き出した俺は、
「キェェェェイ! びっくりするほどユートピア! びっくりするほどユートピア! びっくりするほどぉ~ユ~トピアァァァァ!」
突き出した尻をリズムよく叩きながら、白目をむいて『びっくりするほどユートピア!』と叫んだ。
これを十分くらい続けていると世の中の全てがどうでもよくなり
ネットで知った眉唾知識だったが、実際に悪霊の足は止まったので多少の効果はあるのだろう。
般若心経よりびっくりするほどユートピアの方が効くなんて、それこそびっくりな話だが、突然の俺の奇行にビビったのか悪霊女が数歩
さあさあ、こんな変態と関わりたくないだろう? だからさっさとどこかへ消えてくれてもいいんだぜお願いしますから(懇願)。
そんな祈りにも似た気持ちを込めて、奇声を上げて尻を叩きながら悪霊女にじりじりと近づいていく。
俺が近づくほどに悪霊女もじりじりと後退する。
あれ、案外効いてるぞ? もしかしたらこのまま行けるんじゃね?
ちょっと自信が出てきた俺は、ケツを叩く速度を上げて小走りで悪霊女に迫る。
「びっくりするほどユートピア! びっくりするほどユートピア! びっくりするほどユートピア~~~~~~ッ!」
『ヒ、ヒィィィィ!?』
タマタマゆらゆら、たまゆらに。振れば力が湧いてくる!
リズミカルにケツを叩きながら、奇声を上げて小走りで迫る変態と、それに恐れ慄く悪霊。
悪霊すらビビらせる変態が自分であるという事実がどうしようもなく悲しいが、こちとら命が掛かっているのだからヤケクソでもなんでもやるしかない。
するとどうだろう。身体の奥底でなにか不思議な力が高まっていくのを感じるではないか。
それは多分、一般的に気とか、プラーナとか、霊力とか呼ばれているような、そんな感じのオカルティックなエネルギーだ。
そのなんだかよくわからない力の高まりと共に、俺の心から恐怖心は消え去り、謎の高揚感が全身に満ち満ちていく。
テ ン シ ョ ン 上 が っ て き た !
科学的にはまだ解明されていない未知の力を、本能に導かれるまま肛門へ集約させて一気に解き放つ!
「びっくりするほどぉ~~~~~ッ! ユ~トピア~~~~~~ッ!」
――――――条件『一』及び『二』の達成を確認。
――――――封印限定解除。レベル二〇までのレベルキャップ解放。
――――――てれててってってってー♪ レベルが 一 上がった!
『ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!?』
バビューン! と、尻から出た謎ビームが悪霊女の顔面にぶち当たる。
なにやらものすごく重要そうなアナウンスがあった気がするが、今は後回しだ。
ここで気を抜いたら間違いなく死ぬ! こんなよくわからん場所で死んでたまるか!
ケツドラムのビートをさらに上げて魂の命じるままに最大出力でビームをぶっ放す。
『アアアアアアアアアアアアア!? 嫌ダ嫌ダ嫌ダ! コンナ最後ッ、絶対認メナイギィィィィッ!』
ドォッ! と、青白い光の束が板塀の路地を埋め尽す。
悪霊女も負けじと地面に手足を杭のように打ち込むと、そのままがっぷりよつの構えで俺の菊門波動砲(仮)を真っ向から迎え撃つ。
互いのパワーが拮抗した。ぐぎぎぎっ! あと一押しッ!
「波ぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――ッ!」
『ギャァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ――――――』
ぷすぅ~。
『…………ア?』
突然すかしっ屁みたいな音がして、ビームが途切れたかと思えば、全身を徹夜明けのような疲労感が襲う。
謎の力が抜けたせいか、また恐怖がぶり返してきた。
膝が笑ってしまい、自力で立っている事すらままならなくなった俺は、その場にがっくりと崩れ落ちる。
どうしようもなく、ガス欠だった(おなら的な意味ではなく)。
畜生っ! 畜生……っ! ここにきてガス欠はないだろう……っ!
こんなのってないよ。これじゃあ脱ぎ損じゃないか。
『ナ、ナンダ。ビビラセヤガッテ……。フザケタ野郎ダ。ガムミテェニグチャグチャニ噛ミ殺シテヤルヨォ!』
長い舌が俺の身体に巻きついて、トンネル掘削機のようにギザギザの歯が並ぶ円形の口が大きく開いた――――その時だった。
「悪霊払滅! 急急如律令!」
凛と響く澄んだ少女の声が命じると同時、白い影が闇の中を稲妻のように駆け抜け、悪霊女の身体をバラバラに切り裂いた。
断末魔を上げる間もなく悪霊女は黒い塵へ変わり、そのまま肌寒い四月の夜気へ溶けて消えた。
突然の事態に呆然と立ち尽くしていると、夜闇の中から人影がひらりと目の前に降り立つ。
「だいじょうbきゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!? エッチ! 痴漢! 変態!」
「それはこっちのセリフよ! この馬鹿っ!」
「ぶへっ!?」
助けられたと思ったらビンタされた。ふえぇ、痛いよぉ……。
だが、今のビンタで恐怖も一緒に叩き出されたのか、身体の震えがピタリと止まっている事にはたと気付く。ナニカサレタヨウダ。
「な、殴ったね!? 親父に
「父親以外にはぶたれてるんじゃないの! いいから早く服を着なさい!」
顔を真っ赤にしてギャーギャー喚く謎の少女。
すると、四本の尾を持つ大人の背丈ほどもある大きな狐が二匹、それぞれ路地の奥に脱ぎ捨てた俺の服を咥えて持ってきてくれた。
先程の白い影の正体はどうやらこいつらだったらしい。
ともあれ、いつまでも全裸のままでは風邪をひいてしまうので、狐たちにお礼を言って服を着る。服が冷てぇ……。
「ったく。なにをどう間違ったらこんな場所で全裸になるのよ」
「般若心経が効かなかったから仕方なくネットで聞きかじった除霊法を試した。そしたらなんかケツからビームが出た。どうだすごいだろう!」
「なんで自慢げなのよ!? はぁ……。
「な、なんだとぉ!?」
こっちだって命がけだったのだ。それを面と向かってアホと言われたら流石に腹も立つ。
……しかし改めて見ると、とんでもない美少女だ。
街灯の不気味な赤に照らされた艶めく射干玉の髪と、玉のように白い肌のコントラストが鮮烈な対比となって浮かび上がっている。
人形じみた耽美な造形も相まって、いっそ恐ろしいほどだった。
とはいえ、そんな恐ろしいまでの美貌もコスプレみたいな戦闘メイド服のおかげで大分中和されているのだが。
というか、ミニスカ戦闘メイドにガーターベルトの組み合わせは反則だと思う!
しかもなんか狐の耳と尻尾まで生えてるし。
大きな化け狐を従えた、黒髪狐耳メイドさんだ。属性盛り過ぎじゃない?
それにしても、
なにか大事なことを忘れている気がする。――――――けど、思い出せない。
『こいつ、美味そう。食っていい?』
「駄目よ」
『ケチー』
白い化け狐たちが俺を見て舌なめずりした。
なんなの? 俺ってばそんなに美味しそうに見えるの?
ご馳走を前にお預けをくらった犬みたいな顔で俺を睨む狐たちに、やれやれと嘆息して、狐耳美少女メイドが口を開いた。
「まあ、怪我がないならなによりね。まずはここから出ましょう。ついてきなさい」
「あ! ちょっと待てって! ……なあ、変なこと聞くけどさ。俺たち初対面だよな? なーんか、久しぶりにあったような気がするんだけど」
「……っ。…………なによ、ナンパのつもり? まあアンタみたいなチビから誘われてもお断りだけど」
「な、なにおう!?」
俺の頭を見下ろしながら鼻で笑うメイド少女。
コイツ! 言ってはならないことを!
「ち、チビじゃねーし!? 周りの奴らがデカいだけだし! 俺だってお前みたいな貧相な小娘好みじゃないやい! もっとグラマーになってから出直してこいや! このぺちゃぱい女!」
「なっ!? よ、よくも言ったわね!? 私よりちっこい豆粒ドチビのくせに!」
「誰が豆粒ドチビだ!? このまな板レーズン!」
「レーズン……? って、誰の乳首がシワシワの真っ黒よ!? 見たことあんのかはっ倒すぞこの粗チン野郎!」
「な、なななななんてこと言うんだお前っ!? さ、さっきのは寒さで縮んでただけだし!? 俺の本気はあんなもんじゃねぇからな!?」
「聞いてないわよそんなこと! 変な見栄張るんじゃないわよ童貞のくせに!」
「ど、どどどど童貞ちゃうわ! お前こそ処女のくせに!」
「な、ななな何を根拠に言ってるのよ!?」
「男の裸見ただけで顔真っ赤にしてきゃーきゃー騒いでるような小娘が経験済みな訳があるか! やーいやーい、ぺちゃぱい貧乳すっとんとん! あばらで洗濯でもしてろってんだ!」
「こんのっ! ぶっ殺してやるッ!」
まな板メイドの左右に控えていた白い狐たちが臨戦態勢に入る。
気付けば徹夜明けのような気怠い疲労感はどこかへ吹き飛んでいて、内なるエネルギーが完全回復していると直感的にわかった。
どうやらこのエネルギーは俺の精神状態と密接に関わっているらしい。
「あなたたちは下がってなさい。私がやるわ。……土下座して謝るなら半殺しで許してやらなくもないわよ」
「ふざけんな! 先にチビっつったのはそっちだろ!」
毛を逆立てて威嚇する化け狐たちを下がらせ、まな板メイドが不敵な笑みを浮かべて挑発してきた。
体術の心得があるのか、隙の無い構えをとったまな板メイドに、俺も自衛隊上がりの母ちゃんから仕込まれた
五点着地と近接格闘は、これさえ身に付いていれば大抵の状況からは生還できるからと、幼い頃から親子のスキンシップがてら、毎晩布団の上に転がされて覚え込まされた。
自分で言うのもなんだが、かなりヤンチャな子供だったから、疲れさせて寝かしつけようという母ちゃんなりの思惑があったに違いない。
互いの視線と呼吸を探り合い、相手の僅かな隙を窺う。
こんなこと自慢にすらならないが、これでも喧嘩には慣れている。
というのも、百人の暴走族相手に一人で圧勝した最強の中学生がいるという都市伝説めいた噂を信じた馬鹿が、割としょっちゅう俺に喧嘩をふっかけてくるからだ。
カツアゲの被害にあっていた友達を助けるために高校デビューの馬鹿三人を軽くシメただけの話が、どうしてそこまで膨れ上がったのかは未だに謎である。
――――――先に動いたのは、まな板メイドだった。
鋭い踏み込みで一気に距離を詰められ、霊光を纏った拳が次々と繰り出される。
俺はそれを最小限の動きでどうにか受け流す。
拳を受け流した腕が痺れて痛い。どんな馬鹿力してやがるんだこの女!?
僅かでも気を抜けば一瞬で刈り取られそうなギリギリの攻防の中、一瞬、相手の呼吸が乱れた。
その隙を逃さず、まな板メイドの腕を掴むと、相手の勢いを利用して後ろに回り込み、そのまま腕を捻り上げて関節を極めて拘束する。
「くっ! 放しなさいよミジンコ馬鹿!」
「うおっ!?」
まな板メイドが自由な左手を拳銃のように構えると、その指先に霊力の光弾が宿る。
咄嗟に手を離して距離を取ると、指先から発射された光弾が俺の頬をギリギリ掠めた。
直後、背後から木の板が砕けた音。遅れて俺の頬を生暖かい感触が伝う。
どうやら最低でも板塀を叩き割る程度の威力はあるらしい。
マジで殺す気かよ!?
後ろに大きく跳躍して距離を取ったまな板メイドが光弾を宿らせた両手の指をこちらに向ける。
「形勢逆転ね」
「飛び道具は卑怯だろ!?」
「うっさい!」
十発の光弾がそれぞれ軌道を変えながら俺に向かって殺到する。
別々の方向から同時に迫る光弾を避ける術はない。
ヤバイ。死――――
「――――んでたまるかぁーっ!」
体術には体術。超常現象には超常現象で。
先程は偶然ケツから出たが、ケツから出せたなら、全身のどこからだろうと出せない道理はない。
魂の命じるまま、へその下あたりでエネルギーをグルグル回して、それを全身の毛穴から一気に解き放つイメージ!
轟ッ! と、俺を中心にエネルギーが爆発して、飛んできた光弾を全て吹き飛ばす。
まな板メイドの顔に驚愕の色が浮かぶ。
だが、すぐに唇を噛みしめ、今にも泣きだしそうな怒り顔で、今度は全身に霊光を纏って矢のように襲い掛かってきた。
早い――――っ!?
「双方、そこまで」
本当に突然だった。
何の前触れもなく目の前に現れた何者かが、まな板メイドの拳を片手で受け止める。
七十代くらいの、豊かな白髪の老執事だった。
年齢の割にがっしりとした逞しい体つきで、背筋も真っすぐに伸びている。
銀縁のモノクルの下から覗く鋭い
「
「あっ! ご、ごめんなさいすぐに向かいます! ……な……で……のよ」
「あぁ!? なんか言ったか?」
「うっさいバーカ! アンタなんか嫌いよ! ふんっ!」
「馬鹿って言った方が馬鹿なんだぞバーカバーカ! って、もういねぇし」
老執事に睨まれて仕事とやらを思い出したのか、まな板メイドは背筋を伸ばして頭を下げると、舌打ち一つ俺を睨んで小学生みたいな悪口を吐き捨てて、そのまま夜の闇の中へ溶けるように消えていった。
ところでアイツ、レイラって名前なのな。名前の響きからしてなんかツンデレっぽい。
「当家のメイドが大変失礼をいたしました」
「…………いえ。元々助けてもらったのは俺の方ですし。なんか成り行きで喧嘩になっちゃいましたけど」
言い過ぎた自覚があるだけに、見ず知らずの老執事から頭を下げられてしまうと、どうにも決まりが悪い。
なんだか初対面のような気がしなくて、つい言い過ぎてしまった。
なんというか、気の置けない友達というか、幼馴染にでも再会したようなそんな感じだった。はじめて会ったはずなのに、なんとも奇妙な感じだ。
「そうでしたか。……こんな偶然もあるのですな」
なにやら意味深なことをポツリと呟いて、何かを哀れむようにレイラが走り去った方を見つめる老執事。
「いえ、年寄りの独り言です。お気になさらず。もう四月とはいえ、まだ夜は寒い。いつまでもこんな場所にいては風邪をひいてしまいます。家までお送りいたしましょう」
老執事が高らかに指を鳴らす。
世界が歪み、その輪郭が闇の中へ溶けるように沈んでいく。
「最後に、これは個人的なお願いでございます。……どうか、あの子のことを忘れないであげてください」
夢と
老執事の最後の言葉だけが頭の中で何度も反響して――――。
「――――――はっ!?」
気が付くと俺は自分の部屋のベッドの上にいた。
目覚まし時計の音がうるさい。二度寝防止のために足元に置いた目覚ましを止めて時間を見る。
四月四日。午前六時三十分。入学式の朝だ。
「夢……じゃ、ないよな……?」
夢にしてはあまりにもリアルだった。
血が出たはずの頬を撫でるが、そこに傷は無かった。……まるで全てが夢であったかのように。
悪霊に追いかけられてケツからビームを出した事と、謎の老執事の顔だけはなんとなく覚えているが、それ以外の記憶が酷く曖昧だ。
「あ? なんだこれ」
ふと、左の
ツンデレイラ まな板メイド わすれるな。
逆の掌には刺青のようなアザが浮かんでいて、炎のように踊る不思議な文字が円を描いており、その中に数字の一が大きく刻まれている。
「まな板……? なんだ、まな板メイドって」
ツンデレイラって……誰だ。
それにこの数字は一体……。
「あ! くっそ、これ油性じゃねーか。しばらく消えねーぞこれ」
いつ書いたのかも思い出せない走り書き。
忘れちゃいけないから書いたはずなのに、どうしてもそのことが思い出せない。
俺は昨夜、誰に助けられた……? それとも、あれはただの夢だったのだろうか。
まるで登場人物の名前と、その人物に係わる文章だけ塗りつぶした小説でも読んでいるかのような、薄気味悪い違和感。
「アキヒロー! いつまで寝てんの! 今日入学式でしょ、早く起きな!」
「うっせーなぁ、もう起きてるよー!」
母ちゃんの声。
時計を見ればいつの間にか時刻は七時を回っていた。
あれ。俺、何を思い出そうとしてたんだっけ……。
思い出そうとしても思い出せない。そんな喉の奥に小骨でも刺さったような気持ち悪い違和感も、朝の準備をしている内にいつしか忘れて。
そうして、掌に謎の走り書きと不思議な痣を残して、俺の高校生活がはじまった。
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