アストロモルフ
膝を突けない、何も掴めない。という制約を課された中で、薄暗く、濃い霧に包まれた森を歩くという行為は、想像以上に精神をすり減らす作業だった。杖を準備するべきだったと気付いたのは、一時間ほど進んだ後のことだった。
二階堂の視界にはナイトヴィジョンとワイヤーフレームマップが重ね合わされており、足元に不安はない。それでも服一枚隔てた先に死のガスが充満しているという緊張は、絶えず彼の肩に重くのし掛かってきた。
唯一の救いは本当に異形が現れなかったことだ。アノマリアがくれた術も間違いなく効果を発揮しており、疲労感は薄い。二階堂は精神的な衰弱以外の点では順調に森を進んだ。こうして数時間ほどかけて行程の半分まで来たところ。
『カオル、少し休憩しよう』
「――りょうかい」
ロンロンの声に、腰に手を当てて伸びをした二階堂。そこにアノマリアの声が聞こえてくる。
『器用なもんスねー。もっと苦戦すると思っていたッスよ、おじさま。ひょっとして、森に慣れてるんスか?』
『カオルはこんななりで、その実、どの上にどが付くほどの、どどど田舎者だ』
『どどど田舎者……ププーっ!』
「……聞こえてるぞ」
スピーカーの向こうで盛り上がる二人。
――俺は毒ガスの中で死と隣り合わせだというのに……。
二階堂は二人の評価をこっそりひとつ下げた。
『カオルが生まれた場所は、日本という国の、地方の隅の隅で、彼は子供の頃は野山を駆け回って育った野生児なのだ』
『はぇー。そうなんスね』
『その地域では裏山に登ればすぐにカモシカという動物と遭遇するほどの超ど田舎で、ちょっと山奥に足を伸ばせば山菜やキノコがわんさか生えているのだが、それをクマやサル、鹿と奪い合ったり、時にはその山の持ち主に山菜泥棒と言われて追い回される少年時代を送ったそうだ。タケノコ一本を巡ってシャベル一本でイノシシと殺し合ったことも』
『なんか……壮絶……』
『うむ。ベニテングダケという毒キノコさえも塩漬けにして食べる。そうでもしなければならないほど悲惨な幼少期だったようだ。その地域では昆虫食も普通に行われていて、カオルも子供の頃はイナゴやセミ、ハチの幼虫、果てはザザムシという川虫まで食して飢えを凌いでいたらしい』
『おじさま……』
ついにアノマリアの語尾に涙が混じった。
「……そこまでだ。アノマリア、信じてないと思うが、だいぶ脚色されているからな。毎日そんな事してたわけじゃない。季節の風物詩ってやつだ」
『帰ってきたら、自分が何か美味しいもの作ってあげるッスからね……でも、おじさまは、そんなに野生児風味には見えないッスけど』
「だから、そこまでの生活はしてないって。……子供の頃の話だからな。学校を出たら軍に入ったし、それが終わったら都会で仕事してたし」
二階堂はフレキスケルトンを硬化させて身体を預け、楽にした。
『そういえば、おじさまは商売に失敗して故郷から逃げてきたって言っていたッスけど、なにしてたんスか?』
二階堂が口を開く前に、ロンロンが話し始めた。
『カオルは回路設計者だ』
『かいろせっけいしゃって、なんスか?』
『私の脳を設計する仕事だ。古典コンピュータのエキスパートなのだ』
ロンロンは少し誇らしげに言った。
『んー、ちょっとよく分かんねーッス』
「それ、前職の話だろ。都会に出てからは、しばらくコンピューターの設計をしていたんだ。アノマリアは初めて聞くかも知れないが、アホみたいに大きな計算機のことだ。ものすごくざっくり言うと、ロンロンを作る仕事だ」
『ロンちゃんは、おじさまが作ったんスか⁉』
「いや、ロンロンは作ってない。そういう関係の仕事って話だ」
『カオルはソフトウェアのことしか知らない、にわかソフトウェア・ガイどもとは違って、コンピュータの
『ほえー、分かんないけど、なんか凄いッスね!』
「でももう、その仕事は辞めたんだ」
『プログラミング能力を最大限活かして、楽して稼げる仕事を探したら証券取引に行き着いたらしく、最終的にはそこで大損こいてこのざまだ。笑ってやってくれ、アノマリア』
『だっははははははっ! 何度聞いても、まじウケる!』
証券取引は、ほとんどプログラマの世界なのだ。相手よりナノ秒早く取引を成立させる高速プログラミング・コンテストの側面が強い。その点に鑑みて、証券会社に華麗に転職を果たした二階堂。勤務場所が自由だったことも後押しになった。
転職してから彼は田舎に引きこもり、穏やかに独り暮らしを堪能していた。その頃すでに、二階堂は人生に疲れ始めていた。ウサギ追いしかの山に癒やしを求めていたのだ。取引失敗をやらかしたのは、それから数年経ってからだった。
それからしばらく、二階堂はコンピュータの話や証券取引の話、二階堂の息の根を止めた超倍率レバレッジという狂気の取引形態の話などを、アノマリアに話して聞かせた。緊張が彼を
『多才なんスね、おじさま? 知らなかったッス。さすがっ!』
アノマリアには才能がある。二階堂はそのことを、にわかに理解した。
彼女は何を聞いても興味深そうに相づちを打ち、「さすが」「知らなかった」「すごーい」というスペシャルワードで答えた。意識しないでやっているのであれば、ナンバーワンの器を感じるさせる好対応だ。
――天然のおっさん殺し。
二階堂は少し気を引き締めた。気付いたら手の上でころっころされていた、ではかなわない。
そうして二人とのお喋りで気分転換し、二階堂は再び足を進めた。
『まて、カオル。センサーに動体』
二階堂はロンロンの声にピタリと立ち止まった。視界に浮いたマップをチェックすると、突如として右の藪から巨大な影が現れた。
頭にキノコを生やした、巨大なアリだった。ミニバンくらいの大きさがある。それが木々の隙間から歩み出してきたのだ。二階堂の息が詰まった。
『動くな。喋るな。カオル、面目ない。藪に伏せて隠れていたようだ』
『おじさま、そいつ、多分
――これがか。B級パニック映画さながらじゃん。
『でも、なんでこの毒霧の中で動いていられるッスかねぇ』
『
『いんやぁ……? 初耳ッス。毒霧の中って、誰も活動できないもんだから、中がどうなっているか分かんないんスよね』
巨大なアリを目の前にして、蛇に睨まれたカエルのようにピクリとも動けない二階堂。そんな彼を尻目に呑気な会話を進める二人。
アリは二階堂の目の前をガサゴソと横切っていく。
『カオル、節足動物の複眼の視野を考慮すると、君はすでにそのアリの視界に入っている。先ほどまで動いていた姿も、見られたと考えて良いだろう。それでも襲ってこないことから、おそらく、そのアリはカオルに興味がないと判断できる』
――おそらく、じゃ困る!
動かない二階堂。彼はフレキスケルトンを駆使して
『仮説ばかりですまないが、あの頭に生えているのは
『なるほどなるほど?』
『ある種の寄生虫に
『ロンちゃんは物知りッス!』
歩み去って行く巨大アリを見送り、完全にその姿が消えたのを確認してから、ようやく二階堂は「は、は、は」と渇いた笑いを漏らした。どっと疲れが来た。
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