おあいこ

 二階堂は肩を揺さぶられ、目を覚ました。


 ダイニングテーブルの上で突っ伏したまま、寝てしまっていたようだ。


 片目をいて持ち上げると、隣にすらりとしたパジャマ姿の女が立っていた。


 ――誰?


「――?」


「寝るならベッドで、ッスよ。さっき自分もベッドで横になってみたんスけど、いやはや、真っ白、ぴかぴか、ふわふわ。雲の上ってやつッスねっ! 寝るのが楽しみでしょうがねーッスよ‼」


 ――なるほど。アノマリアだ。


「うん。……寝るわ」


 二階堂の眠気は重い。立ち上がると後頭部を下に引っ張られるような感覚があった。昨晩は空腹と、強烈な覚醒感で寝れなかったし、昨日今日と肉体を酷使しすぎた。さもありなん。アラフォーの身体は限界を超えていたのだ。


 二階堂は立ち上がって水を飲み、深酒したおっさん然とふらふらしながら、寝室に向かった。目が老人みたいに、しょぼしょぼだ。


 薄暗い中、倒れ込むようにベッドに横になると、続けてベッドが揺れた。


 何事かと顔を上げる。


 アノマリアがベッドの縁に腰掛けていた。


「――どうした?」


「お礼ッスよ、お礼」


 頼りない明かりの下、アノマリアが四つん這いになってベッドの上を歩いてくる。彼女の寝間着は二階堂のものだ。ダボついた胸元の隙間からは、彼女の柔肌が描く線が見えている。


 背中から垂れたアノマリアの長い黒髪が、二階堂の手の甲をくすぐった。


 まったく慮外りょがいの事態に、二階堂が慌てて上体を起こと、ちょうどアノマリアと目線が合った。


「おじさまのおかげで大もうけしたって、言ったっしょ。あ、宿代も払わないといけないッスね。いろいろとお返ししないと、ッス」


「そんなの……気にしなくて――」


「こんな貧相な身体でよければ」


 ぐいっとアノマリアの顔が寄る。二階堂は彼女の甘い吐息を唇に感じた。


「朝まででもお相手するッスよ」


「朝まで」


「おじさまの言うこと、なんでもしてあげるッス」


「なんでも」


 鼓膜をくすぐる彼女のささやきに、ゴクリと二階堂の喉が鳴った。


「――俺は、君をなぐさみ目的で助けに行ったわけじゃない。恩義や宿代を笠に着て迫るような男でもない。見損なうなよ」


 努めてキリッと言い放った二階堂。アノマリアの顔に挑戦的な色が浮かぶ。


「迷ったね?」


「いや――」


「一瞬、おすの目になった」


「ぐ――」


「無理しなくても、長いこと旅して女日照りでカラッカラなんでしょ? 自分、身体には自信ないッスけど、顔には自信があるッス。かけたっていいし……なんなら飲んであげるッスよ。もちろん中で出してもおっけー」


「まじ」


「まじまじ」


 そう言って微笑をたたえたアノマリアの表情は、惚れ惚れするほど婀娜あだだった。


 心ノ臓を掴まれたような痛みと狭窄きょうさく感が、胸を襲ってきた。


 だが彼女の続く言葉にはっと冷静になる二階堂。


「どうせ子供なんてできねーッス」


「――捨て鉢の女を抱くほど落ちぶれちゃいない」


 そう言い張って辛うじて踏み止まったものの、二階堂は徐々にアノマリアに押されていった。


「――自分のこと、綺麗って言ったッスよね? ……やっぱり目が気持ち悪いッスね? エントリオは特に怖がるらしいッスからね、この目」


「そうじゃない。……今日は何度も死にかけたし、お互い脳が興奮しているんだ。少し落ち着いてからでもいいだろう」


「そう。これからも、カオルおじさまは死にかける」


 アノマリアに完全に組み敷かれるような体勢となると、二階堂の頬に彼女の黒髪がかかった。


桃源郷ザナドゥは厳しいんだ。いつ死んでもおかしくない。敵は外だけじゃなく、心の内にも潜んでいる。弱った心はすぐに虚無きょむに囚われてしまう。凄い力を持ってるおじさまだって例外じゃない。だから螺鈿大地に生きる人々はその時の情念をぞんざいにしない。お互いの心を強く支え合うために……全てを忘れる時に後悔しないように」


 そうして無言でしばらく見つめ合った後、二階堂は嘆息をつくと、観念した風に白状し始める。


「わかった。恥をしのんでリアルな話をしよう」


「リアル?」


 きょとんとなったアノマリア。二階堂は彼女に向かい、咳払いして続ける。


「――そう、真面目な話だ。アラフォーは、俺くらいの歳になるとな……疲労困憊と寝不足じゃあ……たないんだ」


 しーん。


 アノマリアは二階堂の言葉にぽかんとなると、「ありゃあ」とだけ言った。


 すぐに彼女の表情が歪み、堪えきれずに破顔する。


「んふっ――あっはははははははっ!」


 ぺたんと二階堂の上に座ってお腹を抱えているアノマリア。力なく手で目元を覆った二階堂。


「ひー、ひー」


「……さぁ、もう十分笑ったろ。本当に、今日はもう寝かせてくれ」


 アノマリアは目尻を拭ってズルズルとベッドから降りていった。


「……食欲、睡眠欲、性欲の順番っていうッスからね。自分、いさみ足だったみたいッス。ここは大人しく帰りますか」


 そう言って寝室から出て行ったアノマリア。直後、彼女はひょっこりと顔だけ出して部屋を覗いた。


「おじさまも大恥かいたってことで、女に恥をかかせたことと、おあいこッスからね。次は駄目ッスよ?」


 しばらく彼女が去ったドアを見ていると、音もなくドアは閉まった。


「本当なのか?」


「……なにが?」


 唐突に聞こえてきたロンロンの声に、二階堂が不機嫌そうに応えた。


「さっきの、アノマリアとセックスできないというのは」


「ちゃっかり覗いてんじゃねーよ……半分本当、半分嘘だ」


 一回ぐらいなら、いけそうな二階堂なのだった。


 ただ、ムラムラよりも睡気すいきの方が強かったのも事実。


「そうか、それがリアルか」


「そうだ。これがリアルだ。バーチャルじゃあんまりないシチュエーションだろ」


 ――なに言ってるんだ俺は。辛い……。


「てっきりトゥルーエンドに向けたフラグかと思ったぞ」


「はぁ? トゥルーエンド?」


「うむ。エロゲーでは序盤にヒロインに迫られても、それをはね除けないとハッピーエンドに到達できないという意地悪なケースが、たまにある」


「さようですか……たぶん、違う」


「ふむ。ではひと言だけいいか、カオル」


「なんだ」


「据え膳」


「……寝る」


 そう言って二階堂が身体を横に倒すと、「おやすみ、カオル」というロンロンの声が聞こえてきた。


 二階堂の眠気は完全に吹っ飛んでいた。頭の中は当然アノマリアでいっぱいだ。


 ――不思議な女だ。


 次の日、目を覚ました二階堂の記憶には、いつ寝入ったのか覚えがなかった。

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