量子的な彼女

からした火南

第01話 シュレーディンガーの猫

 僕の彼女は、量子的だ。

 量子的と言っても量子のような振舞いを見せるという訳ではなくて、彼女は粒子でありまた波でもあるという意味ではないし、ましてや彼女の存在位置は確率でしか表すことができないという意味でもない。

 いや、気まぐれな彼女の性格を考えればそういった解釈もあながち間違いではないのだけれど、単に理系女子をこじらせた彼女が、何かにつけ量子論にこじ付けた話題を振ってくる……そういった意味で量子的なのだ。

「シュレーディンガーの猫って知ってる?」

 ほら、今朝も開口一番これである。待ち合わせ場所に遅れて現れた彼女は、挨拶をすっ飛ばしていきなり量子論の話を始めた。

「量子論の矛盾を指摘する思考実験……だっけ?」

 僕たちは、肩を並べて通学路を歩き始めた。

 今日が七月七日だから、付き合い始めてもうすぐ一ヶ月になる。恋人になって日が浅い二人は、手は握れどキスすらまだしていない清い関係なのだ。量子論なんかじゃなくて、もっと高校生らしい話題で距離を縮めたい。

 彼女の悪戯っぽい性格を可愛いと感じてしまうし、それに容姿も僕好みだ。それにおっぱいだって大きくて、歩くたびにたゆんと揺れる。波の性質を持つのは、何も量子ばかりではない……って、僕は朝っぱらから、何を言ってるんだ!? でも仕方ないじゃないか。僕だってエッチなことに興味津々のお年頃なのだ。


「で、シュレーディンガーの猫がどうしたって?」

「どういう思考実験なのか、説明できる?」

「確か、箱の中に放射性物質と、放射線を感知したら毒ガスを出す装置と、猫を入れてフタをする……だったかな」

 並んで歩く彼女の表情を、ちらりと盗み見る。

「心配しなくても合ってるわよ。放射性物質の原子核が崩壊して放射線を出すと、毒ガスが出て猫が死ぬわ」

 箱に入れられたり、毒ガスで殺されたり……思考実験とはいえ、猫もいい迷惑である。

「えーっと、それで何だっけ。一時間以内に原子が崩壊する可能性は五十パーセントで、一時間後に原子が崩壊しているかどうかは、観測することによって収縮する……だったかな」

「そうね。観測するまでは、原子が崩壊していない状態と、崩壊している状態が、重ね合わせの状態で共存していると解釈するの。観測することによって、どちらか一つの状態に収縮するわ」

「原子の崩壊と猫の死が連動してるから、観測するまで猫が生きている状態と死んでいる状態が重ね合わせに共存していることになってしまう……」

「半死半生の猫なんていう馬鹿げた存在を許す量子論の解釈はおかしいっていうのが、シュレーディンガーの指摘したパラドックスよ」

「何回聞いても、状態の重ね合わせとか収縮って理解できないな」

「収縮が起こらずパラドックスが発生しない解釈もあるのだけれど、そっちはそっちでまた理解しがたい解釈ではあるし……」

 やめてくれ。これ以上ややこしい話は、勘弁してほしい。


「ところで昨日ね、ウエブで面白いの見つけたの。聞いたことないかしら? シュレーディンガーの……」

「猫だろ?」

「ちがうわ。パンツよ」

「パンツ!?」

「そう、パンツ」

 立ち止まって、彼女の顔を覗き込む。

「スカートの中ってね、パンツを穿いている状態と、パンツを穿いていない状態が重ね合わせで共存しているそうよ」

「は、はぁ……」

「スカートの中を観測すれば、どちらかの状態に事象が収縮するって訳ね」

「お、おう……」

「それでね、面白そうだから試してみようと思ったの」

「え? 試すって……」

 思わず、彼女の下半身を見遣る。膝上まで詰めた制服のスカートから、長い脚がスラリと伸びている。その下はまさか……。いやいや、ちょっと待って。もしかして穿いてないの? ノーパンで登校しちゃってるの?

「勘違いしないでね。穿いてないんじゃないわ。穿いてる状態と穿いてない状態が、共存してるのよ。観測することによって、いずれかに収縮するの」

 そんなの、観測するまでもなく確定してる……なんて、野暮なことは言わない。この場合、観測者って僕じゃないか。スカートの中を覗くチャンスを、つぶす訳がない!

「か、観測するの……僕だよね?」

 喉を鳴らして、生唾を飲み込む。

 人通りのない路地に入り、彼女は背中を向けたままスカートの端をつまむ。

 キスもしたこと無いのに、おしり見せてくれるとかどんな女神様だよ。不幸にも穿いてる方だったとしても、パンツ見えるじゃん。最悪でもパンツ! 最悪でもパンツ!

「準備はいいかしら?」

 そう言うと彼女は頬を赤く染めながら、つまんだスカートの端を少しづつ上げ始める。

 太ももがあらわになり、後少しで生尻が……いや待て、紺色の生地が見える。残念、事象は穿いてる方に確定した! でも、パンツ確定! 理系女子はみんな白を穿くものだと思っていたけど、紺とはまた大人っぽい。少しづつ露わになる下着に、僕の気分も最高潮に……って、あれ? パンツにしては、ゴツくない!?

「あの、それ、何を穿いてるの?」

「何って、体操着?」

「体操着……だと!?」

「だって今日の一時間目の数学、明日の体育と入れ替えになったし……」


 絶望は死に至る病である、そう言ったのはキルケゴールだっただろうか。僕の心と体は、ひどい病に蝕まれてしまった。かつて無いほどの絶望……期待が大きかった分、落胆も大きい。元通りに下ろされたスカートの向こう側、虚数世界をただ見つめる。

 けれども落ち込んでる場合じゃない。考えろ、考えるんだ! 事象は確定した。しかし再びスカートが下ろされた今、ノーパンとパンツと忌々しい体操着の三者は、再び共存しているんじゃないのか? もう一度観測すれば、別の事象が確定するんじゃないのか?

 それとも、一度確定した事象はくつがえらないのか? だったら確定前まで、観測する前まで戻してくれ! やり直しを要求する!!

「せめて、パンツだろぉ!!」

 僕の魂の叫びが、晴れ渡る朝の空に響き渡った。

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