第147話「大所帯」


 すっかり上がってしまった体温を落ち着けるために翔はしばらくその場で佇んでいた。


 自分でしたことなのに、身体が全く普通を取り戻そうとしていないらしく、体温は元に戻っただろうが、脈が戻らない。


 変に高いテンションだったせいだということは分かる。きっと、朝目が覚めて最愛の女性が自分にしがみつくようにして寝ているという妄想でしかなかったはずの光景を現実で目撃したからだ。


「それで上がるとか……僕はどれだけ変態なんだ……」


 抑えきれずに言葉に出す。

 すると、それが効いたのか、すっと心が落ち着いた。


 翔は変に思い返さないように、今の内に家族がいる所へと向かった。


「随分と遅いお目覚めね」

「おはよう」


 梓からのお小言には何一つ言い返せないので、何も言わない。


 翔と桜花は夏休みで、両親達も休暇を取って帰ってきているので、割と朝はゆっくりとしている。しかし、その人数は明らかにリビングの範囲に対して飽和しているため、どこか殺伐した雰囲気も感じる。


 我が家が磯野家のように広ければ、と少し思ったが、またすぐに両親達はアメリカへと渡るので、広くなくてもいいか、と思い直した。


 二人で住むには広すぎるので、これ以上広くなられては困る。


「翔。夏休みの宿題はもう終わったのか?」

「うん、ちゃんと終わらせてる」

「珍しいな」

「去年と違って為になる宿題だったし」

「結構難易度の高い宿題だったのか?」

「桜花にも手伝ってもらったよ」

「ほぅ……」


 朝食を食べようとダイニングの椅子に座ると、向かい側に座っていた修斗が話しかけてきた。


 翔が少し胸を張りながら言うと、修斗は満足気に頷いた。


 去年の夏休みの宿題を全くと言っていいほどしなかったので、心配されるのも納得だが、桜花には聞かない辺り、少し桜花への信頼が厚すぎる気がした。


「高校生は楽しんでこそだからな。勉強はそこそこに沢山遊べよ」

「父さんが言うと説得力あるなぁ。けど、親としてはダメな気がする」

「勉強しろ勉強しろと言われるのは母さんからだけで充分だろう」

「確かに……!」

「私が悪役なの?」

「私よりは適任だろう?」

「そうかもだけど……」


 修斗が自信満々に言うので、つられてしまった。梓は不満そうだった。悪役というのはあまり気が乗らないものだ。


 それでも、翔が今の成績を残しているからこそ、そう言ってくれているのであって、成績が落ちていれば、きっと、もっと勉学に励め、と言われていただろう。


 修斗が言いたいのは要所要所で力を抜けと言っているのだろう。……多分。


 そう解釈し、梓が持ってきてくれた朝食を食べ始めた。食パンを咀嚼し始めた時、ふと桜花と充達の話が耳に入ってきた。


「お勉強は大変?」

「大変ですけど、予習や復習を忘れなければ大丈夫ですよ。翔くんも教えてくれますし」

「そうなのね。翔くんも頭がいいのね〜」


 佳奈と視線が合いそうだったので慌てて外した。この話の流れから視線を介するときっと、頭がいいと思われてしまう。


 実際はそんなことはなくて、桜花に教えて貰ってばかりなのだ。


 そんな心の叫びが通じる訳もなく、翔は食パンを見つめるしか無かった。


「桜花。無理していることはないか?」

「無理……ですか?」

「そうだ。いや、肩肘張り続けていないか、と訊いた方がいいかな」


 充がそんなことを訊ねた。

 それは翔も感じていたが、充とは違ってその理由までも見当がついていた。それはおそらく、親が目の前にいるからだろう。


 翔が何か助け舟を出さないと、と思い、席を立とうとすると修斗に咳払いで止められた。修斗からは口を出さずに見守れ、と告げられているように思えた。


 翔も修斗にも思うことがある。充も少なからず思うことがあるのだろう。しかし、それは一瞬、一部だけが共通しているように表面上は見えるが、その内部は全くもって異なるものだろう。


 翔は黙って席に戻った。


「お父さんとお母さんが居るので、かもしれません」

「……」

「私は真実を告げられてから何一つ文句は言いませんでした。ですが、私は自分の心に嘘はつけません」

「桜花……」

「まだ心の中ではどうしても優しく振舞ってくれるお母さん達に冷酷は一面があるように思えて仕方がないのです……」

「私達が音信不通だったからか?」


 桜花がこくり、と頷く。

 それは昨日、桜花が自分に吐露した桜花がずっと持っていた疑問の種だった。


 充はやはりか、と合点がいったような言葉を呟くと、何かを決めたように息を吐いた。


 翔はこの先を聞きたくなかった。桜花にとっていい方向に転がるのか、悪い方向に転がるのかは分からなかったが、もし、また悪い方向へと言ってしまった場合の姿をもう見たくはない。


 修斗が珈琲を飲み、わざとにかちゃりと音を立てておいた。


 それが合図かのように、充は口を開いた。

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