第十九章『猟奇式人形』4

 猟奇式が拳を突き出す。

 尻餅をついたままの楓は辛うじて体をひねってかわそうとするが、拳が肩の付け根に命中してしまい半身を床に叩きつけられてしまった。

 ぶつかる直前に右手をついて受け身を取るも、尖った破片で手のひらが刻まれ、たちまち鮮血がしたたる。背中の打ち身が腫れ、二十歳の女が人前でけして口にせぬような、濁点まじりの汚い呻きが漏れる。

 が、すぐに歯噛みして声を押し殺す。

 手が強張り自然と握り拳になり、身体がしびれて動かなくなる。

 命中する間際に楓の腕が日進に触れていたが、これを反撃と呼ぶにはあまりに弱々しい。

 ただ、そのとき人形の懐から何かが楓のてのひらに紛れこみ、知らず一緒に握りしめていたが、負った痛みの大きさにばかり気を取られ彼女はそれに気づかなかった。


「に、日進さん、お願いです、聞いて、くださ、い」

 かなりの息を漏らし、楓はなお言葉を紡ぐ。

「あなたは日進さんなんです、よ」

 喘ぎには色気も艶気つやけもない。

 創痍そういからこぼれる嗚咽混じりの声だ。

「ご自分で、そう名乗ら、れたではない、ですか」

 最大火勢となった炎が背後で轟々と吹き上がる。

 階層全体が揺れるような錯覚さえ起こり、天井から煉瓦片がぱらぱらと降ってくる。

 絶体絶命の状況の中、度重なる轟音に注意を払える者は誰もいなかった。

「もうこんなことはやめ、やめて、ましょう、お願いです」


 どちらももう動けない。

 ならばどちらから殺す。

 判断しかねた猟奇式は市谷と楓を交互に見やった。


 ――我が猟奇式人形よ、お前はどう判断する?

《猟奇博士》は新たな指示を出さず見守っていた。

 人形にはどちらも殺せと命じている。

 しかし実際に二人を同時に殺すような器用さは備わっていない。

 ならばどちらを先に殺すと判断するだろうか。

 それを見極めるために造物主は何も言わない。

 ここで下された処理手順を後で解析し、今後の改良に役立てる腹積もりなのだ。

 人形の処理手順や自発的な動作などの一切をつかさどる、出所不明の装置を解析する時間もないまま急造したため、博士はすべてが落ち着いてから猟奇式人形を解析にかけるつもりでいた。

 実際に動かしてからならば、有益な記録や履歴を得られるかもしれない。

 二人にはそのための尊い犠牲になってもらう。

 仮にいまの猟奇式にどちらも「同時」に殺せという指示を与えたならば、『優先選択に関わる順序手数処理』に混乱が生じて、命令は自動的に棄却されてしまい、新たに命令されるまで動かなくなるだろう。


「なんで逃げねぇんだよ楓姉ちゃん」

「どうしてあの時に言ってくださらなかったのですか。人形が、人だって……」

 市谷が苦しそうに、しかし苛立たしげに言う。

 それを受ける楓も必死なので、返す言葉には珍しく怒りがこもっていた。

「世の中には知らないほうが幸せなことだってあんだよ、くそ!」

 付け加えられた罵倒は楓に向けてのものではなかった。

「知らないままでいて、かえって不都合になることも多いです」

「最初から知ってたとしても、襲われた時点で穏当に済ませる方法なんてなかったさ」

 猟奇式人形を前に市谷と楓が言いあっているのを見て、博士は愉悦の表情を浮かべた。彼は他人同士が足を引っ張り合うのを見るのが大好きだった。

 ご満悦の博士の背後で機械がうなりを上げ、やたらと蒸気を吹いた。

〈地下炉〉も何かを急きたてるように炎と轟音をあげている。


 もっとも目の前の状況に精一杯の彼らにとってそれらは意識の外にある。

 だから、そこに何かが砕ける音が混じっていても誰も気づかなかった。


「元が人間ならば、話し合えばわかりあえる可能性は、あるんです。なのに私は、彼に銃を向けて撃って……、知らなかったというのは言い訳で、市谷さんも平気でこ、こ――」

 殺して、と口にするのに楓は大きな拒否感があった。

 忌み言葉である。死や穢れなど、それに類する言葉を婉曲的な言葉に置き換える極東の古い慣習だ。現代においては極東でもあまり重要視されないが、〈巫機構かんなぎ〉では現役であり、楓にとってはいくらか身近な慣習であった。

 そんな彼女であっても、これまで発されていた「犠牲」や「死んだ」といった第三者の言葉はまだ許容できた。しかし自らが「殺す」と口にするのはあまりに直截すぎる。

 といって興奮していてすぐ言い換える言葉が出てないのは、風習に完全に馴染みきっていないからだ。最初から刷り込まれていればすんなりと口にできたはずである。


 むろん市谷がそんなしきたりを知るわけもなく、

「平気で撃って、人形を殺したさ。ああそうか、楓姉ちゃん――」

 楓がなにを考えているのか、市谷には読めない。

 しかしこれまでの経緯から、また自分が悪いとか、人形が人間だと知らないのに撃ってしまったとか、そういうことを考えているのだろうと容易に想像できた。

 彼女は明らかに優先順位を誤っている。

 解決しなければならない問題や、差し迫った危機的状況があるというのに、度々そこから遊離して別種の問題にはまりこむ。

「自分を殺そうとするやつに襲われてんのに、そいつが元は人間だからってなにもしないのかよ。むざむざ殺されるのかよ!」

 状況を読めぬ楓への苛立ちもあって、徐々に声が荒ぶっていく。

 声に反応した猟奇式が市谷の方を向く。

「自分の命の価値考えな! 自分の命を奪おうとする相手を返り討ちにして、何が悪いんだ? 知らないで撃っただぁ? また『自分が悪い』か? それともはっきり教えなかった俺が悪いか? 楓姉ちゃんには必死さがないんだよ、自分の命にすがろうとするみっともなさってのがよぉ! ひもじくなったらそのまま大人しく死ぬって人間だな、姉ちゃんは」

「返り討ちって、過剰防衛ではないですか。鉄砲なんか持っているからバンバンと!」

 珍しく楓も大声で返す。切迫しているのでいつかのように怯えはしなかった。

 猟奇式が楓に反応して首を向ける。

「楓姉ちゃんは潔癖すぎるよ! もう銃もないんだから撃たなくていいし、いまはともかく早く逃げろってんだよっ!」

 猟奇式がまたもや市谷に反応する。


 どちらも殺すにはどちらから殺せばよいのか。


 猟奇式は声を出す方を優先しようと判断しているが、どちらも交互に声を出すものだから、その度に優先順を書き替えていた。これではどちらから殺せばいいのか一向に判断を下せない。

 仮に《猟奇博士》が従来の機能を忠実に移植していれば、ともかく命令をやり通そうとの判断をもって順位をつけず機械的に動いただろう。

 ところが、猟奇式は《猟奇博士》によって独自に機構を組み換えられている。

 この改良は人形をより思考的にしたが、命令をいかにして達成するかばかりに重点が置かれてしまっていた。


 どちらも殺すにはどちらを先に殺せばいいのか。


 目先の小さなひっかかりにつまずき問題を解決できない猟奇式は、目先の問題を差し置いて別のところでつまずいてしまう楓とどこか似ていた。

 その楓が左足の痛みをおして、蹌踉よろけながら立ち上がる。

 市谷に怒鳴られてさすがに目の前の問題に対処せねばならないと判断したようだ。


 元気な方は逃げるかもしれない。

 先に殺さなければ。


 そう判断した猟奇式も、ようやく目標を定めた。

 ――奴らが命乞いをはじめたら猟奇式を一時停止してやろうか。そしてたっぷりもったいぶってから断ってやる。あいつらの絶望する顔が楽しみだ


 その時だった。


 にたついている《猟奇博士》の前方、〈喜色〉のそば、部屋の出入り口にほど近い壁が、ごん、ごん、と音を立てて次々とひび割れていったのは。

 と思えば、あっという間に壁面が砕け散る。

 人形がさらに大きな音に反応して動きを止めた。


「な! なんだ! 折角いいところだったのに……、剥落か?」

 塵埃じんあいの向こうから何かが飛びこんでくる――

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