2/9 Lは街の中を歩く

*Lは街の中を歩く



 Lは歩き出す。何かへの反抗心からでもなく、何かへの従順な心からでもなく、ただ目的がないということのために。


 Lはまず、北へ向かって歩いていく。北は「死」をイメージさせる。「極北」という言葉もある。北は誰にとっても因縁めいたイメージを残すものだろう。この期に及んで自分が求めるもの――というのを、Lは皮肉に感じていた。


 アーケード街を歩いていると、人の数は増えた。銀行、ラーメン店、ダイニング・バー、喫茶店。今さらのように、Lはこの街の雑多な構成のことに思い至る。そこでは、清潔と猥雑とが同居している。それは、S以外の街にはない特徴だった。


 ごく普通の街では、繁華街とビジネス街とは明確に区別されている。しかし、この街にはそれがなかった。オフィスビルの隣に風俗店が並んでいることもあれば、高価な宝石店の隣にリサイクルショップが並んでいることもある。それはまるで、生と死との混在、静と動との混在を思わせた。


(今の自分の気分にはふさわしい)


 と、Lは一人ごちる。誰にも聞こえないような声で。


 Lの周囲にいる幾人かは、Lが狂気に駆られていることに気づいていただろう。何も見ずに、何の目的もなしに歩いていくということはそういうことだ。Lはかつて見た光景を肌で感じ、第六感で分析している。


(この街は自分にふさわしかったのだろうか)――と。


 Lが死にたい気持ちはたしかに必然だった。それは、Lの曖昧模糊とした精神からもたらされたものだったろう。恋人とは2年も前に別れていたし、仕事を辞めたのも3カ月も前の話だ。Lは決して落ち込んでいるわけではない。そして、うつ病でもなかった。ただ、死に招き寄せられるように、それに向かって歩いていた。


 Lの街にはY橋という自殺の名所がある。峡谷の上に架けられた橋で、100メートルほどの高さがある。そこから飛び降りれば、死ねることは間違いなかった。


 かつて学校の教師から聞いた話では、Y橋にはかつて鉄条網が張り巡らされていたということだった。しかし、自殺志願者たちはそれを乗り越えて下へと飛び降りてしまうのだという。「自殺したい人は痛みを感じないからね」――と教師は言った。そのY橋も、今は鉄条網ではなく、防音フェンスのようなもので覆われている。


 防音フェンスの上部は内側に向かって折れ曲がっていて、つまり、以前よりも飛び降り自殺がしにくくなったのだった。今でもそこが自殺の名所なのか、Lは知らない。ただ、自殺志願者が死の前に痛みを感じることはもうないだろう、とLは考えた。そして、


(そう言えば、自殺志願者は痛みを感じないのだったっけ)


 と、思い直す。


 Lは自分の右手で自分の左手をつまんでみる。そして、若干力を入れてひねる。Lは痛みを感じた。それは「生」の痛みのはずだったが、Lにとってそれはあまりにも茫漠としていた。「生きているから痛いのではなく、痛みを感じるシステムによって痛いのではないかしら」――と、今度は具象的に考えてみる。


 北へ向かって歩いていると、H通りに出た。最初にたたずんでいた青江通りと比べると、そこには並木がないという違いがある。それが一層空の暗さと、そこから舞い降りてくる雪を際立たせているような感じがした。通りを歩く人々も、ここではいくぶん寒そうにしているように感じられた。


(なぜ、死にたいのだろう)


 Lは、そこで再度思い直す。通りを行く人たちのいずれも、幸せとは行かないまでも不幸ではないようだった。それらの人々に比べて、自分が取り立てて不幸な訳でもない。ただ、死んで悲しむ人の数は少ないだろうと思えた。


「あの子は初めから死ぬことが決まっていたんだよ」


 誰もがそう言いそうな気がした。

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