第29話 玄関で靴の上に投身自殺している新聞の姿が目に浮かぶ。

「そうよ」


 あたしは即座に答える。それが彼女の怒りを生むことを知っている。そしてまたHISAKAは無言になる。

 そして平行して数時間前の似た行為のことを思い出している。

 確かにそうだ。こんなにたくさん触れさせた。胸には特に。


 タイセイは――― 彼は決して下手ではなかった。

 かなり経験があるようだった。

 そしてひどく優しかった。たぶん普通の男よりずっと。

 あたしの気持ちいいと反応する所を見つけると、そこをずいぶんとゆっくりと、そして大事なものを扱うように、充分慣らしてくれた。


 だが彼は、結局男なのだ。


 確かにあの感覚は、初めてだった。

 作り物でないそれが自分の中に入って来る感触は、ひどく新鮮と言えば新鮮だった。

 だが「新鮮」と冷静に感じてしまう自分に気付いてしまった。そしてその時に脈打っているそれを、違う、と感じてしまう自分に。

 その時やはり脈打っている自分の鼓動とは別のリズムを打っているそれは、「違う」と。

 判っている。それが普通なのだ。相手も自分も、別の鼓動を打っているのに、それで同時に一番の快楽を引き出せたら、それが一番いいだろう。


 だけどあたしは、それは違う、と感じてしまった。

 欲しいのは、そういうものではない。


 確かに相手が自分を好きで抱いているのは判る。誠意とか、好意とか、愛情とか、そういうものが、判る。ちょっとしたことから、判る。気付かないうちに、そういうものは、こぼれ落ちていくものだ。


 だが。判るけど、違う。自分の欲しいものとは。


 確かに自分も感じている。だけど相手も感じている。相手のために自分が勝手に使われている。


 その感覚が、無性に嫌だった。

 それとは別に平行して、思った。「足りない」。


 彼のことは嫌ではない。彼はまだましな方だ、と思う。

 別に他の男を知っているのではないが、そんな気はする。だけど。


 ―――HISAKAは一つ一つ、つけられた赤い染みを追っていった。

 胸の牡丹だけではない。その上の鎖骨のくぼみ、首すじ、その裏に手を這わせて、ゆるりと撫で上げる。

 途端、ぞくりとした感覚が腰に走る。

 びくん、とその下が跳ね上がるような感覚が飛ぶ。

 かくん、と首を後ろに倒す。

 あごの下、ゆっくりと猫にするように軽く軽く、ほんの軽く、触れるか触れないか、程度に撫でる。猫のような声が喉の奥から漏れる。

 そしてようやく開いた唇に、触れた。

 あたしは腕を相手の首に回す。相手の舌がゆっくりと入ってきて、自分の舌の両わきを交互に撫でる。頭の裏にきん、と痛みに似たものが走る。

 ようやく唇を離した時、あたしはHISAKAがやや涙目になっているのが判った。おそらくは自分もそうなのだろう。

 ああ綺麗な人だな、と改めてあたしは思った。


 どうしてこの人はあたしを抱いているのだろう?


 今更のように思った。自分が誘ったのだ。それは判っている。そうではない。それ以前の問題なのだ。


「まだ、温まらない?」


 ハスキイな声が耳に触れる。くすぐったい。まだ、とあたしは両手でHISAKAの頬をくるんだ。

 ああまだ冷たいね、とHISAKAは目を閉じた。あたしはその表情を見て、今度は自分から唇を唇に押し当てた。そしてやっと自分の身体から離れた腕から片手で彼女のシャツを抜き取り、フロントホックを取った。

 手に長い彼女の髪を巻き付ける。懐かしい香りがする。ずいぶんとこの香りを感じていないような気がした。

 かたん、と扉の方で音がした。新聞配達だろう、とあたしは思った。玄関で靴の上に投身自殺している新聞の姿が目に浮かぶが、どうでもよかった。

 何故こんなにあたしは彼女が欲しいのだろう。

 それは季節のせいだ、と思おうとしたことは幾度となくある。


 例えば冬。

 寒くて寒くて、たまらなくて、誰でもいいから誰かの温もりが欲しくなる季節。全身が冷たくなって、悪夢ばかりが何度も何度も夜を行き過ぎ、浅い眠りの中で、疲れだけがたまっていく季節。幾度目覚めても、同じ物語の夢が、次を次をと場面をせかす。そのたびにその中の自分は、何処かで追い立てられ、逃げ回り、何処にも休む場所がない。

 誰か。誰かあたしを捕まえて。

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