第15話 「あなたのその経験いろいろのキスをしてみてよ」

 予想はつくけど。彼女の態度をそれなりに見ていれば。


「あなたが単に、ハルさんの愛人のような関係になっているだけなら、別に私は何も感じなかったでしょうよ。あなたが女であることは… そりゃさすがに戸惑いましたよ」

「あなたのモラルにはそんなこと無かったものね」

「ええそうですよ。そしてあなたは私のモラルまで揺さぶった。私がどれだけ不安になったか判りますか?」

「判らないわよ。判る訳ないじゃない。あなたがあたしの不安が判らないくらい、あたしはあなたの不安なんて判らない」


 あたし達は、合わない。徹底的に。


 趣味嗜好が多少違うぶんならまあいい、それは互いに互いの主張を認め合って、どうしても合わない部分は丁寧に無視すればいいだけのことである。

 一緒に暮らす場合、大切なのは、そんな趣味嗜好よりも、もっと根本的なものだったのだ。


「私は… それでも一応現実的な人間だと思ってきました。現実的な問題を現実という場所で現実的に解決するのが好きでしたし、それ以外の方法は考えたことがなかった…」

「そうよ、あなたはそういう人だわ」


 だから彼女にそれまで、現実逃避という手段はなかったのだろう。何故ならそうしたところでどうしようもない、ということを彼女は痛感しているからである。

 家族を亡くした時も、その後に家族同様に扱ってくれた人達を失ったときも。彼女には逃げる余地などなかった。逃げようとしても、その場所など彼女には許されなかったのである。


「だけどあなたが現れたことで、私のそんな価値観はどれだけ揺らがされたことか」

「そりゃあ価値観なんていろいろあるものだもの。仕方ないわ。百の人間には百の価値観。当然じゃない」

「ええ全くです。だから異なる価値観とぶつかったこと、それ自体は、結果としては悪くはないですわ」

「じゃあ何が悪いって言うの?」

「あなたの価値観自体が、私には、受け入れられないことなんです」

「難しい話。もっと簡単に言ってよ。あたしはマリコさん程頭が良くないんだから」

「あなたは確かに可哀そうな子供ですわ」

「そうよね。私生児でしかもその母親に殺されそうになったなんて、可哀そう以外の何だと言うのよ」

「あなたはそう言いきってしまう。あなたはそういう人です。それが私には耐えられない。本当の名前もない、本当の自分というものが判らない、親の愛情も知らない、何もその手には持たない。ただ持っているのは、その声だけ。それも自分自身というよりは、その憎んでもあきたりないだろう母親から受け継いでいる。それは事実ですよね」

「そうよ」


 確かに事実だ。変えようのない事実だ。


「ただあなたはそれをも武器にしている」

「当然じゃないの」

「普通なら、それは自分の中に秘めて、確かにバネにするとも知れないけれど、それ自体を武器にしようなんて思いはしないでしょう」

「普通?」


 あははは、とあたしは乾いた笑い声を立てた。


「誰が、普通なんて決めつけたの?」


 まあマリコさんの言うことは…言いたいことは判る。

 多かれ少なかれ誰でも痛みは抱えている。だがそれを口実にしてはいけないのだ、と言いたいのだろう。少なくともこの現実で生きていこうと思う以上。

 だがあたしはそれを口実にしている、とマリコさんは言いたいらしい。生きてくために、そのこと自体を武器にしていこうとしている。


 無意識に人の同情を買おうとしている。


 そうして生き延びていく。それは彼女には考えられない生き方だ、ということらしい。


「ねえマリコさん、あたしは生きてくことを選ばされたのよ? あの時、HISAKAに助けられた瞬間から」

「選ばされたなんて…!」

「そりゃもちろん、拾われなかったら、生きていこうなんてきっと思えなかったでしょうね」

「…」

「いや違うかな、そうしたら、もっとひどい方法でも、生き残ってやろうと思ったかもしれない。あいにくあたしは、あのひとの血を非常に強く引いているらしいからね。すごい皮肉。誰かを犠牲にしても自分の生きやすいようにもっていく、あのひとの血がね」

「そうやってまた人のせいにするんですか? それで、あなたの声は、仕草は、視線は、いつも誰かを誘っているんですか?」

「さあ。そう見えるんなら、そうなんじゃないの?」


 なるほどそう見えていたのか。そしておそらく、今さっきの言葉は、声は、彼女に効いたのだ。


「…ふーん…」


 あたしはにっこりと笑った。ひどくおかしかった。彼女はそういうあたしを恐れているのだ。


「そうなんだ」


 がた、と音がする。マリコさんは椅子を立った。

 あたしはゆっくりと声を放つ。彼女の身体が、確かに一瞬震えた。あたしは立ち上がる。彼女の手を掴む。逃さない。


「まだ話は終わってないのよ」


 一つ、試してみたい気になっていた。


「動かないで」


 彼女の動きが止まる。


「マリコさん、あなたあたしが誰かをいつも誘っているみたいって言ったわよね」


 両手を掴む。彼女は必死で目をそらそうとする。だが逃がさない。逃がしてたまるものか。


「こっちを向いて」


 口をぱくぱくさせながらも、彼女はこちらを向く。向かずにはいられないようだった。あたしは手を離した。だけど彼女は動けない。思った通りだ。


「キスして。あたしを抱きしめて、あなたのその経験いろいろのキスをしてみてよ」


 覚えている。この間のクリスマスあたり、マリコさんがそう言ったことを。いろんな人といろんなことをした、と。


「嘘じゃあないでしょ?」


 糸を引っ張られたマリオネットのように、彼女の腕が、動いた。

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