第13話 「だってマリコさん。あなたがそれにどう関係があるの?」
1989年、8月。
「あ、マリコさん居たんだ… お茶下さいな」
「あらMAVOちゃん、あなた一人ですか?」
うん、とあたしはうなづく。
「ああもうこんな時間」
マリコさんは時計を見上げた。時計の針は2時を指していた。
「ハルさんまだしばらく曲詰めてたいからって。途中までは音と声の相性がどーのってあたしも付き合わされていたんだけど」
「そうですか」
おそらくは夢中になって、だんだんあたしの存在すらも目に耳に入らなくなっていったんだろう。それで取り残されたあたしは暇になった。
「MAVOちゃんは別にハルさんに延々付き合っている必要はないんですよ? 早く寝たければ寝たほうがいいです。そのほうが健康にいいし」
「うん、それは判ってるけど」
「普通のお茶じゃ、これから眠る人にカフェイン多すぎますね… ミルクにしときましょう」
「うん」
うなづいて、あたしはキッチンの真ん中のテーブルにつく。
この家に三人しかいない日にあたしが陣取るのは必ずと言っていい程、調理台に面した席だった。マリコさんは食事を作る側のひとだっだから、一番調理台に近い所が居場所であり、あたしとは対面に座ることになる。HISAKAはその日の気分によって右にでも左にでも座っていた。
厚手のブルーグレイのマグカップに八分目ほど、ミルクをほどほどに暖めてマリコさんが手渡してくれる。するとふと、思い起こされるものがあった。
そう言えば、あの時も。
二年前だ。
拾われた時ではない。あの夏の夜からだ。あの時から全ての物事が変わった。
住む所も、住む人の格好も、住む人の数も。そして住む人の目的も。
マリコさんは基本的には、反省はしても後悔する人ではない。
だからその二年前に何処の誰とも知れない少女を拾ったことにも、後悔はしていないだろう。
現在はマリコさんもHISAKAも、その時まであたしが呼ばれていたという名は知っている。
だからHISAKAはあのスタッフの呼び名をあたしがつけた時、妙な顔をした。
だがおそらく、マリコさんは一つだけ後悔していることがあるのではなかろうか?
どうしてあの時止められなかったんだろうか、と。
聞こえていた。あの時、扉の向こうで。あいにくあたしは耳がいい。都合の悪い会話は、とてもよくキャッチする耳を持っている。
何ということはない瞬間だった、とHISAKAはマリコさんに言っていた。ただいきなり気持ちが動いてしまって止められなかった。そんな意味のことを。
するとマリコさんは言った。別にその関係自体は悪くはない。別に誰が誰を好きだろうと、その感情が本物なら、問題はないと。
言葉だけなら、何とでも、言えるだろう。
マリコさんの理性は、確かにその言葉通りだったのだろう。それは、非常に、正しい意見だ。
だけど、彼女とて人間だ。結局彼女は、その後しばらく、その光景から逃げた。あたしとHISAKAが一緒に居る光景を視界に入れないようにしていた。
まあ当然だろう、と思う。そんな物わかりのいい人間そうそう居るものじゃない。
HISAKAがあたしを好きでしている。あたしがそれに無理なく応えている。あたしだったら、別に問題はないと考える。あいにくあたしには、マリコさんの持っているようなモラルはない。知ってはいるけれど、染み着けはしなかった。
そんな彼女の態度にも、勝手にしやがれ、とやがてあたしは思うようになっていた。
マリコさんも、見えるものをわざわざ視界から外すようなことはなくなっていたが、だからと言って、決してあたしに対して友好的ではない。もしもそう見えるとしたら、それは彼女がとてもよく出来た人だからだ。彼女は「平穏な家庭」を維持したがっている。
HISAKAがそれに気付いているとは限らない。彼女は時々ひどく鈍感だから、下手すると、全く気付いていないだろう。マリコさんは彼女には隠すだろう。
未だにそうなのだ。
「MAVOちゃんは」
不意にマリコさんはそう切り出した。
「はい?」
「MAVOちゃんは、ハルさんのこと好き?」
「何でそんなこと聞くの?」
「いいえ、ただ聞きたいだけ」
適度に冷まされたミルク。猫舌ということはあの時から彼女はよく知っている。一口含んで、それからあたしは答える。
「好きよ?」
「寝ていい位に?」
カップを置く。中身が少し飛び跳ねて、中に王冠を形作った。
「それがどうしたの? そんなの見てれば判るじゃない」
言葉が平板になっているのが判る。これは戦闘体勢だ。得体の知れない緊張感があたし達の間に走り出した。
そろそろそんなことが起こるだろう、とあたしは思っていた。
この春から初夏にかけて、あたし達は全国ツアーへ出向いた。結果としては、いいものだった。最初の名古屋や、なかなか難しいとされている大阪ではやや戸惑いもあったが、九州北陸、ぐるりと回って北海道から東北、関東と戻ってくるうちには、色々なことが進化し始めていた。
例えばFAVのパフォーマンス。TEARのベースプレイ。P子さんのテクニック。そしてHISAKAも。
あたしはあたしで、東京や関東の客とは違う反応を見せる観客に対するコール&レスポンスの面白さを知った。
そして何よりも、皆いちいち考え込まなくなった。
もともとこのバンドのメンバーは基本的に音楽とバンドに関しては前向きである。だがそれでもさすがに人間であるから、時には落ち込むこともある。それが一番大切なことであればあるだけ。
実際、それまでのあたし達だったら確実に落ち込むようなことはあったのだ。だが、悩んでいる暇はなかった。あのツアーは結構なハード・スケジュールだった。悩んで閉じ込もっている暇はなかった。移動につぐ移動。
この移動の際には、マナミがずいぶんがんばった。「スタッフその1」の称号を持つ彼女は、学校をまるまる一ヶ月さぼってついてきた訳だが、その甲斐はあった。それまでだったら、マリコさんがいろいろ気をつかっていたことを、いつの間に吸収したのだろう?
彼女は彼女でずいぶんと成長していた。それは移動に関する一つ一つの段取りだったり、ライヴ前に準備するものの確認だったり、メンバーの健康管理だったり。
マリコさんの出る幕が無かったとまでは言わないが、実際無かったとしても、彼女はきっとその持ち前の明るさとパワフルさで、乗り切っていくのではないか、という気にさせた。
「楽になりました」とか言っていたが、それが彼女の本心である訳がない。彼女はこのツアーから帰ってきてから、何処か元気がない。もちろんそれはあたし以外にはそうそう判らないことらしい。マリコさんは決してHISAKAにそんな所は見せないし、他のメンバーは判る程彼女に接していない。
時々鋭い奴は居る。TEARは一度あたしにどうなのか、と耳打ちしたことがある。大丈夫でしょ、と答えてはみたものの、彼女の何かが変わってきていることは、否めないことだった。
そして彼女はあたしに問いかける。あのいつも冷静な顔が、何処か悲しげに歪んでいる。
「MAVOちゃん」
そしてあたしはそれに対してこう言ってしまうのだ。
「だってマリコさん。あなたがそれにどう関係があるの?」
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