女性バンドPH7⑥マーヴェラス・ヴォイス~その声で切り裂いて
江戸川ばた散歩
第1話 1987年8月の引っ越し。
1987年8月。
引っ越しをしようと言ったのはHISAKAだった。
夏が終わる少し前のことだった。「退学届を出してくる」と行った学校から帰ってきた玄関先で彼女はそう言った。
「別にいいですけど」
マリコさんは驚きもせずに言った。そして炎天下の外から戻ってきたHISAKAに冷たい紅茶を出しながら、訊ねた。
「何処へ引っ越すんですか?」
「東京よ」
HISAKAは簡単に言った。あたしは驚いた。だけどそれを口にはしなかった。
マリコさんはあたしの方にもついでのように紅茶を渡した。冷たい、甘い紅茶だった。それを口に含むと、少しばかり苦かった。
そしてあたしはほんの少し目を大きく広げた。
「いつ引っ越すんですか?」
マリコさんは続けて訊ねる。非常に現実的な質問だった。
「もう支度は今日からしてもいいわね」
「判りました」
彼女はうなづくと、すぐに何処かに出かける支度を始めた。十分もしないうちに家から出て行った。
HISAKAの、と言うより、まだその頃は、あたしにとってただの「ハルさん」だった彼女の、思いつきのような言葉を実行に移すために。迷いという奴が全くない。
あたしはまだアイスティを飲み終えてもいないというのに。
ガラスのジョッキはこの残暑の空気のせいで、瞬く間に汗をかきだした。手がぐっしょりと濡れる。だけどひんやりと冷たくて気持ちいいので、冷えた手を時々頬に当てる。
ふと思いついて、その冷えた手を、ハルさんの頬に当ててみた。案の定、彼女はひっと声を立てて、肩をすくめた。
「何すんの」
「あんまり暑くなかったの?」
「……ああ」
苦笑まじりにあたしを見る。
「暑かったわよ。だけど、結構風は涼しくなってきたと思わない?」
「そうかなあ」
実際、朝方とか夕方の風はそうだった。8月と言えばまだ夏というイメージがあるが、その終わり頃ともなれば、秋の気配も所々に混じってくるものだ。
そしてそういう気配をあたしは好きではない。
「学校、どうだった?」
話題を逸らしてみる。逸らすと言っても、もともと訊こうと思っていたことではある。
「そぉねえ」
ハルさんは、アイスポットを手に取る。一杯目のアイスティは既に空になっていた。二杯目からはこれを入れるように、というマリコさんのお達し。一杯目には甘味が加えているけれど、二杯目からは甘味ぬきのはず。
注いでしまうと、口をつける前に彼女はあたしの喉を軽く指先で撫でた。やん、と喉から声を立てながら、やや逃げてみせる。でもこれも予想がついたことだ。
悲しいかな、あたしには人の行動の先を読むクセがある。特に、身近な人の。
そうしなければいけなかった生活、というのは、そんな生活をする必要がなくなってからも、無言で身体を締め付ける。
気付かなかったふりをして、やや驚いた顔をしてみせる。
「くすぐったいじゃない。何でそうゆうことすんの、ハルさん」
「別に。したいと思ったから」
そうだろうと思った。きっとこの人に、そんな意識はないのだ。
「学校はね、うん、何も変わらなかった」
「へえ。友達は?」
「居ることは居るけどね、別に切って惜しい程の奴はいなかったから」
「へえ」
これもまた、だろうな、と思う。
ハルさんは基本的に愛想はいいが、友達は少ない。少なくとも、家まで遊びに来るような友達はほとんどいないんじゃないか、と思う。
あたしが来たせいかもしれない。それまではちょくちょく、あの。ドラムを教えてくれたとか言うユーキ君とか言う人も来ていた。ハルさんがあたしを拾った時に、マリコさんも加え三人で旅行に来ていた相手だ。
ハルさんがそういう男の友達を持っていた、というのも何か奇妙な気もする。だけど、付き合っていた男が居た、というのに比べれば驚くべきことではないのかもしれない。
「ユーキ君とかメイトウさんにも会ったの?」
ハルさんの付き合っていたらしい男は、メイトウさんと言う。
あたしが来る前にもう二人の仲は終わっていたらしい。
彼の方はどうか知らないけれど、少なくともハルさんにとっては終わっていたらしい。
時々電話で怒鳴っていた彼女を見た。あたしに対する穏やかさとは違い、何やら苛々しているようだった。
ユーキ君は、ハルさんよりむしろマリコさんと連絡を取り合っているらしい。
これもまた電話。
あたしは耳がいい。耳がいい、というか、電話の声に敏感になってしまうクセがある。
顔色を読むクセと同じだ。それによって相手の持つ空気ががらりと変わってしまうことがある。
「あのひと」は特にそうだった。時々やってくる何やら無理難題を押しつけられたような時には、物音一つ立ててもいけないような雰囲気が部屋の中に生まれたものだ。
だけどハルさんはマリコさんとユーキ君が個人的に会っていることを知っているのか知らないのか、彼女自体はユーキ君とコンタクトを取っている様子はない。
最も親しそうな彼さえそうなのだから、他の友達など彼女には忘れ去られているのではなかろうか。
「ま、だから最後と思って、学食でごはん食べてきたけどね」
「それでお昼は要らないって言ったの」
「そ」
「マリコさん、ずいぶん急いでたね。何処まで行ったのかな」
「ああ、たぶん東京まで出かけて行ったんじゃない?」
「東京まで?」
今度はさすがにあたしも声がオクターブ上がった。確かに現実的な対応だけど。
「ええそう。引っ越すと言えば、引っ越す先が必要じゃない?だから」
「でもハルさん、まだ何処に住むとも決めてないじゃない」
「だから、決めに行ったんでしょ」
「マリコさんが?」
「マリコさんには判るでしょ。音楽… それもロックをしたいとはあたしも言ってあるし、だったらどういう所が適しているか、とか、そういうことは、あの人の方がずっとあたしより大丈夫よ」
あたしはやや眉を寄せた。
「まあそれはそうだろうけど… そういうもの… なんだろうな…」
「適材適所ってあるじゃない?」
こっちの表情に気付いたのか気付かなかったのか、さらりと彼女は言う。するとあたしもあっさりとあいづちを打つしかない。
「ふーん」
「例えば」
ぴ、と斜め右に座るあたしの額をHISAKAはつついた。
「まほちゃんにはまほちゃんの役割っていうのがあるはずよ」
「あたしの、役割?」
この頃、あたしは便宜的に「まほ」と呼ばれていた。それが彼女の妹の名であることは、もう結構前から知っている。
そして、その名を持つ人物のことを、ハルさんが誰よりも大切に思っていることも。
「そう。あたし達がしなくちゃならないこと、の筋書きの中の」
筋書き、と彼女は言った。
「筋書き?」
「そ、筋書き」
だがそれは実に漠然としたものだった。特にその頃のあたし達にとっては。
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