第23話 「お前が、帰ってしまうじゃないか」

「おい待てよっ!」


 黙ったまま、歌姫は凍った道を駆け出す。俺は一瞬、ずるりと足が取られるのに、背すじがぞっとする。だがすぐに体勢を立て直す。この間のようなことがあったら、たまったものではない。

 手を広げて飛ぶ小動物のように、歌姫は毛皮のコートを広げて走る。俺は足下に気をつけながら、いや、凍った道の氷を踏みつぶす勢いで、走った。


「おなじこと…」


 腕を伸ばす。


「繰り返させるなよ!」

「さわんなよ!!」


 振り向きざま、歌姫は染まった顔を左右に振る。奴の声のトーンが上がっているせいか、時々胸によく判らない痛みが走る。


「何言ってんだよお前」


 奴の両の手首を握りしめる。じたばたしようが、逃がす気は俺にはなかった。


「だーかーらー、離せってば!!お前が触ると熱いんだよっ!!」

「だったら逃げるなよ」

「だって、お前もう三時間も走ったら着くって言ったじゃないか」

「着きたくないのか?」

「無いよ!」


 意外な解答が、返ってくる。


「だって、役目を終えたら、きっとあの端末は、もっと多くのものを俺達にくれるよ」

「自信はないって言ったのはお前じゃないか」

「何とかなるよ。俺は『歌姫』だもん。何とか。だけど、そうしたら、お前は船がもらえるじゃないか!!」

「え」


 聞き慣れない言葉を、聞いたような気がした。

 歌姫は俺にまだ、手首を掴まれたままだった。だが顔は下を向いている。掴まれた手首より下げた頭。見ているのは、地面の雪なのか、自分の靴のひもなのか。


「あの都市が小規模だったら、中規模の都市には、絶対外惑星用の船があるよ。『彼女』を目覚めさせたら、きっと端末はそんな船一艘くらい、お前にやるよ。そしたら、お前は帰れるじゃないか!」

「…お前一体、何を言いたいんだよ」

「だからお前は鈍感だって言うんだよ!」


 歌姫はいきなり顔を上げた。真っ赤な瞳が、これまでにない程、強く俺を見据えた。

 そして、言葉一つ一つを区切るようにして、奴はこう言った。


「お前が、帰ってしまうじゃないか」


 鈍感。

 そんな風に、昨夜は、言葉と枕を投げつけられた。


「…お前」

「ああやだやだやだやだやだ」


 歌姫は大きく首を横に振り続ける。


「何で俺がこんなこと言わなくちゃならないんだよ! 俺だって判らないよ! 何であの端末にあんなこと言われて、俺が、恥ずかしくならなきゃならないんだよ! あんなこと、俺の惑星じゃ当然のことだったし、おんなじように、俺の気分が、伝わったことだって、あったよ! でも、何ってこと、なかったはずなのに」


 あっさりと、自分と寝ないか、と奴は会ってまもなく、言った。でもそれは。


「何だって、お前とのことは、こんなに、気恥ずかしいんだよ!」


 裏返る声。甘い痛み。その正体は。

 掴んだ手を離すと同時に、俺は奴の毛皮でまるまるとしている身体を抱きしめた。毛皮と俺の中で、奴はわめきながらもがく。

 だがそのたびに、伝わってくるのだ。甘い痛み。

 そしてとうとう観念したのか、奴はもがくのをやめて、背伸びをし、羽根を広げ、そのまま俺の背に回した。


「帰るなよ」


 裏返った声が、耳に届く。筒型の帽子が、ぽろんと落ちる。


「お前、帰るなよ。帰るなんて… 俺が、嫌だ」

「この惑星は、静かでいいんじゃなかったのか?」

「静かだけど、寒い」

「寒さには強かったんじゃないのか?」

「故郷では、俺はずっと寒かった。でも知らなかった。あそこでは俺は、俺が寒がっていたことを、知らなかった」

「でも、寒かったんだな」


 歌姫は黙ってうなづく。


「お前が居ると、時々苦しいくらい、熱くなる」


 胸の中が、ぎゅっと素手で掴まれたように痛い。ああそうか、と俺は目を細める。

 目の前の、静かな凍った景色が、ひどくまぶしい。


「…彼女は」


 腕の中の身体が、びく、と動く。この場合の彼女が、どの彼女を示しているのか、「敏感な」奴はすぐに気付いたらしい。


「いい女だった。俺達のリーダーだった。強い女だった。俺を好きだった」


 背中に回る腕の力が強くなる。


「…だけど、俺を必要とはしていなかった」


 正確には、俺が、最初に掴み損ねたのだけど。

 あの時。

 彼女が俺を言葉で責めたあの時、もし俺が、彼女の本当の気持ちに気付いていたらどうだろう?

 その時には彼女は、俺を必要としただろうか。

 いやそれは無い。起こってしまったことは、戻らない。俺はやっぱりその時には気付かなかっただろう。そして彼女は俺を見限っただろう。

 だけど今。


「…行かない」

「嘘だ」


 銀の髪が、もしゃもしゃと手の中で揺れる。


「嘘じゃない」


 奴の顔を上げさせる。にじんだ涙を吸い取る。


「嘘だ」

「嘘じゃない」


 本当に。

 向いていただけだ。戦争なんて好きではない。

 彼女なら言うだろう。生きてくこと全てが戦争と同じじゃない?

 ああそうだ。それはそうだ。だけどどうせ戦うなら、少しでも性に合った場所で。

 アニタお前は、俺を買いかぶっていたよ。

 俺は、この腕の中の、名も知らない歌姫がひどく愛しいんだ。

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