第16話 「ここは、もしかして」

 すみません、とそいつは言った。

 濡れネズミになった俺は、腕組みをし、そこに現れた奴に口を歪める。

 歌姫が正気になり、頭の上から水をひっかぶせられたところで、俺はようやく辺りを見渡す余裕ができた。

 天井のさほど高くない部屋だった。コンクリートの打ちっ放しの壁に、窓はない。暗い部屋ではなかった。ごくごく当たり前の、蛍光灯の照明が、煌々と部屋中を照らしている。

 スプリンクラーが急に作動したらしい。

 見上げた天井には、シャワーのノズルのようなものから、さあさあと水が音を立てて降り注いでいた。

 一体何が起こったのか、という顔をしていたのは歌姫も同じだった。

 乾いている時には、あっち向きこっち向きしていた奴の銀色の髪も、しっとりと濡れて、重力に従い、水を滴らせている。俺は俺で、濡れた重い髪をざっとかき上げた。

 そこへ、扉へ開けて、そいつが入ってきたのだ。俺は無意識のうちに、そいつと歌姫の間に立って腕を軽く広げていた。

 ところが、そいつは扉を開けるなり、ぺこんと頭を下げた。そして、言った。


「すみません」


 見た所は、青年と言うところだろうか。

 奇妙に特徴の無い、整った顔。ブラウンの短い髪、ブラウンの目、高すぎも低すぎもしない背、太りすぎでも痩せすぎでもない身体。

 ただ妙に声にも顔にも表情がない。


「少し試すつもりが、どうにもこうにも、こちらまで身動きが取れなくなってしまいまして… 止めて下すって感謝致します」


 だが言葉だけは流暢だ。俺は言葉じりを捉えて、問いつめる。


「止めて… って、お前がやったのか?」


 こんな、神経拷問の機械を。


「ええ。すみません。程度の資料が少なかったので」

「そういう問題じゃないだろ!」


 危うくそいつにつかみかかるところだった。だが歌姫が後ろから袖を引っ張ったので、それは未遂に終わった。


「すみません。お二人に危害を加える気はなかったのです。ただこの方の、声の特性を確かめたかったのです」


 ぴく、と俺の服を掴む歌姫の手が震える気配がする。


「…こいつに、用があったのか?」

「はい。メゾニイトの、『歌姫』の方なら、きっとそれはできると私共は思いました」


 複数かよ、と俺は思い、口をとがらす。


「どうしても、かなえていただきたい願いがあるのです」

「願い?」


 背後で声がする。


「ええ。おそらくあなたならできるでしょう。…いえできなくても、仕方ないのです。駄目もとなのです。ただ、我々には、もうそれをここにあるもので試す術がない…」


 何だかこいつの言っていることの意味はさっぱり判らなかった。こちらに向かって言っているというよりは、自分自身のつぶやきの延長の様だ。


「…ごちゃごちゃとややこしいな」


 ぶつぶつと勝手に納得されているのは、面白くない。俺は腰に両手をあて、目の前の奴に向かって言う。


「とにかくあんたは、俺達に危害を加える気はなかったというんだな」

「もちろんです」


 顔を上げ、そいつは間髪入れずに、答える。


「そういう意味で言うなら、あなた方は、客人です。大変申し訳ないことをしたと思います」

「だったらな」


 俺はぐっと顔を突き出す。


「客人に対する礼って奴があるんなら、とりあえず俺達に着替えと風呂と食事をくれ」

「着替えと、風呂… ですか?」


 相手は無表情をようやく崩す。言われるとは思わなかった、という顔だ。俺はそれを見てようやくにやりと笑った。


「これを見てそれが必要だって、思わないのかよ?」


 かき上げた髪からは、まだ水が滴っている。



 先に「着替え」を受け取ってから、俺達はそこから早足で移動した。

 この中は暖かかった。だが、かと言って、暑いという程ではない。そのままでは風邪をひく。風邪のビールスがこの地にあれば、の話だが。

 案内され、その水浸しの部屋の外に出た。薄暗い廊下がそこにはあった。

 何やらひどく人気の無い廊下だった。

 いや人気が無い、というよりは、人間無しで長い時間が経っていたような気配だ。

 時間が、建物そのものに染みつかせるにおい。少なくとも、そこには長い時間、誰もいなかったような。

 だが、何かの気配がある。それは歌姫の方が強く気付いていたようで、気がつくと、奴は俺の左の腕を強く鷲掴みにしていた。そんな掴み方されてはさすがに俺も痛いのだが…まあ仕方がない。


「…もうずいぶんと使われていなかったのですが、コントロールは可能です。先ほどの部屋を出る時に起動するように呼びかけましたから、もうそろそろ使える筈です。…かつての職員が、利用していました」


 二重の扉を開けると、いきなり熱帯雨林のような大気が押し寄せてきた。歌姫はややむっとした顔になる。何これ、とでも言いたそうだ。


「…その昔閉じたままですから、中のものが果たして使えるのか、私には判りませんが」

「あんたは使ったことはないのか?」


 案内人は湯気をまといつかせてゆらりと振り向いた。


「私は端末です。この姿はどのくらいぶりでしょう。ここは私には必要はないのです」

「た」


 端末?! そう口が動く俺に、案内人ははい、とうなづいた。


「私は、この小規模都市管制コンビュータの端末です。あなたがたの生体反応が私のレーダーに反応したので、私はこの身体を起動させました。長いことこの身体は眠っていたので、なかなか表情が安定しません。不愉快でしたら謝ります」

「…や、…いやそれはいいが…」

「ねえ、人間はいないの?」


 背後で歌姫が訊ねた。


「俺は全くその気配を感じなかったけど」

「はい」


 案内人… 端末はうなづいた。


「人間は、存在しません。ここは、そういう惑星なのです」

「静かだった」

「はい」

「だけど人間以外の気配はする」

「はい」


 端末は歌姫の問いに一つ一つうなづく。


「そうです。この惑星は、かつて人間がひしめいていました。しかし今では、一人もいないのです」


 誰一人として。その時俺の頭に、一つの記憶がひらめいた。学生時代。歴史の授業。


「おい… あんたもしや… ここは…」

「何でしょう」


 あくまで冷静に、端末は問い返す。


「ここは、もしかして、地球なのか?」


 そうです、とあくまでも冷静に、端末は答えた。

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