第166話 前には進めず、後ろにも下がれず


『――はい、乙姫です。どうしましたか』


 まず電話に出てくれたことにホッとするが、その声色には違和感があった。警戒ぎみとでもいうのか、こちらの出方をうかがっているような硬さがあるのだ。


「ちょっと、話したいことがあるんだ。今から会える?」

『それは……、はい、大丈夫ですよ。飛んで火に入る……』

「え?」

『いえ、なんでもありません』

「それで、場所なんだけど……、アパートでいい?」

 少し甘えてみる。

『はい、構いませんよ』

「あ、でも時間が……」

『夕食どきですし、ひさしぶりに何か作りましょうか』

「ありがとう、助かるよ」

『でも……、あの、これってもしかして最後の晩餐……』

「え?」

『いえ、なんでもありません』


 乙姫の様子がおかしい気がするが、彼女はコホンと咳ばらいを一つ、露骨な仕切り直しをして話を変えた。


『今は学校ですので、いつものスーパーで待ち合わせしましょう』


 そして僕はいつものスーパー、すなわち元バイト先であるラッキーマートに到着する。乙姫を待ちながら店内を冷かしていると、なぜか灰谷から電話がかかってきた。


『ちょっとアンタ今どこ?』

「え? 家の近くだけど。今日は勉強会じゃなかったはず――」

『何か目印になるものある?』

「ラッキーマートっていうスーパーが――」

『駅前の?』

「いや、商店街の中にある――」

『あーそっちね』

「どうしたの灰谷さ――」

『あとでかけ直すから』


 通話は一方的に切れてしまった。

 こちらの話を聞かない食い気味のやり取りといい、やけに焦っている様子だったが、僕に用事があったのだろうか。予備校での一件もあって気がかりではある。あとでこちらからも連絡しておこう。


 そんなことより今は乙姫だ。2学期に入ってからは一緒にいる時間が減ってしまい、正直、さみしいと思っていた。気が重い話とセットとはいえ、久しぶりの二人での夕食を思うとテンションが上がる。


「おや阿山君」


 売り場を回って食材を見ていると、副店長の長谷川さんが声をかけてきた。


「今日は顔色がいいじゃないか。受験勉強、はかどっているみたいだね」

「まあ、そっちの調子は悪くないんですけど……、ちょっと悩みごとが」

「ほう、例によってコッチ絡みかな?」


 と長谷川さんは小指を立てる。なんのテレもなく、あんな恥ずかしい仕草ができるなんてすごい。


「それも若干、関連がないとも言えない感じなんですけど……」


 こちらが言いよどんでいると、長谷川さんは近くの棚の整頓を始めた。

 店員とお客様の立ち話というのは、周りにいい印象を与えない。だから長谷川さんは作業をしつつ、こちらの話を聞こうとしてくれているのだ。そういうサインだった。僕も商品を見ている客をよそおい、言葉を選んで話をする。


「大した悩みじゃないんです。ある男がちょっと動けばすぐに解決するような問題で……、でも、そいつには動くつもりがないらしくて」

「そのある男の怠慢が、君には腹立たしいと?」

「わかるんですか」

「今わかったよ、そういう顔をしていたからね」

「ああ……。腹立たしいのは確かなんですけど……、困ったことに、僕はそれに口出しできるほど関係者ってわけじゃなくて」

「傍観者でいることに罪悪感でも?」

「いや、その……、あまり関係ないくせに、口出ししちゃったんですよ」

「それはそれは」


 長谷川さんは苦笑いを浮かべる。若気の至りの勇み足を、仕方ないなと温かく見守るような笑みだ。


「それで案の定、相手は僕の言うことを真面目に受け取ってくれなくて」

「なるほどねえ。それで出過ぎたことをしてしまったと悔やんでいる――あるいは、こっちは正しいことを言っているのに、どうして相手はわかってくれないんだ、と苛立っているのかな」


 僕は思わず長谷川さんの方を向いた。

 まったく本当にそのとおりのことを考えていたからだ。後悔と苛立ちが半々――いや、たぶん苛立ちの方が強い。


「何が正しくて何が間違っているのか――それは主観的な問題だというのは、わかっていると思うけれど」

「はい」


 主観的な問題とは、人によって違うという意味だ。クサい言い方をすれば、人の数だけ正義がある。


 長谷川さんはテキパキと商品を整列させながら言葉を続ける。


「これは昔、ある新人が経験した問題なんだけど……朝早く、開店の数時間前にね、どうしても欲しい商品があるからと入り口を叩くお客さまがいたんだ。

 開店前だからお客様に商品をお売りすることはできないし、それ以前に店内に入れることもできない。

 だけどお客様はどうしても朝早くに必要だからと必死に頼んでくる」


「それで、どうしたんですか」


「その新人は、今回だけですよと前置きして、お客様に商品をお渡ししたんだ。もちろん料金は受け取ってね。だから店への損害はないし、自分のポケットマネーが減ったわけでもない。ただ、ルール違反という事実だけが残った。お客様は喜んで帰っていった。新人は良いことをしたと満足していた。

 ところがこの話には続きがあってね。

 しばらくしてその新人は上司から、ルール違反の件で叱責を受けてしまうんだ」


「他の人が告げ口したんですか」

「いや、知っているのはお客様と新人だけ。だから、まあ、残念ながらね」


 おそらく話の中の元新人であろう長谷川さんは苦笑いを浮かべ、


「そのお客様は後日、よその店舗でも同じようなことをやったらしい。そこではもちろん断られたんだけど、おとなしく引き下がらずに文句を言ったらしい。別の店ではやってくれたのに、なんで店によって違うんだ、ってね。そこから新人のルール違反が発覚してしまった」


「そんな……」


「良かれと思ってやったことの代償は、始末書と若干の減給、そして、行き場のない漠然とした人間不信というわけさ」


「善意からの行動が、必ずしもいい結果を生むとは限らないってことですか」


「ルール違反ありきだから、あまり褒められた行動でもないんだけどね」


 そう言って長谷川さんは苦笑するが、僕は納得がいかず不満を漏らす。


「でも……」


「〝善いこと〟をしていると、正しいことは無条件で認められると思ってしまいがちだ。そのために突き進んでいれば、周りも理解して、道を譲ってくれると勘違いしてしまう。正義は我にあり、の状態さ。だけどそれは、急病人を乗せているのを言い訳にして、赤信号を突っ切ろうとするようなものなんだよ」


「それが許されているのは救急車両だけってことですか」

「何事も、責任の取れる範囲でないとね。そこを外れてしまうと、善行であっても他人に迷惑をかけかねない」

「……なんか、世知辛いですね」

「まったくだ、それでも……ん?」


 長谷川さんが言葉を切って、通路の端に目を向ける。やがて、スーパーマーケットの店内にはさわしくない、バタバタという足音が聞こえてきた。それはだんだん大きくなり、そして曲がり角から足音の主が姿を見せる。


「見つけた……、ちょっとキョーイチロー!」


 灰谷だった。急いで走ってきたからか、肩を上下させており、顔も赤い。彼女はその場で息を整えて、頬を朱に染めたまま僕をにらんだ。


「アンタ、あたしのこと好きってホント!?」

「――ちょ、灰谷さん?」


 声が大きいし中身もおかしい。声量にしても内容にしても注目を集めまくりの発言だった。買い物中のマダムたちが「若いっていいわね」と口元に手をやっている。


「……どういうことですか」


 後方から、背筋が凍るような冷ややかな声が聞こえた。振り返ると、そこには紅色の縁の眼鏡をかけた長い黒髪の女子生徒が立っていた。


「――乙姫?」


 前方を灰谷、後方を乙姫にはさまれて、僕は狭い通路の真ん中で立ち尽くす。前には進めず、後ろにも下がれず。悪いことはしていないはずなのに、なぜか罪悪感を感じてしまう。

 救いを求めて頼れる元上司を見やった。


「こうしちゃいられない」


 長谷川さんはそんな言葉を残して、近くの通用口へと姿を消してしまう。その口元は楽しそうに吊り上がっていた。


「――長谷川さん?」


 やがて、店内の有線放送に短くノイズが走り、音楽が切り替わった。JPOPをアレンジしたインストから一転、昭和の香りが色濃くただよう歌謡曲が流れ始める。浮気を責める妻と、三年目の浮気くらい大目に見ろよと開き直る夫のデュエット曲だ。馬鹿いってんじゃないよ……。

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