第94話 何をいまさら
部屋に戻って荷物を片づけ、服を着替えて夕食の準備を始める。慣れ親しんだ動作をこなしながら、頭の中では全く別のことを考えていた。
自分にとって二回目のキスが、頭の中でずっとリピートしている。
繭墨からの、不意打ちのキス。
相手からという点まで含めて
しかも、その感情は優越感と背中合わせだ。
恋人がしていないことを自分はすでに経験している。その程度のことに優越感を感じているのだ。
浅ましいなと自嘲する僕を咎めるようなタイミングで、インターホンが鳴った。
このアパートには外部モニターなんて上等なものは備わっていない。たとえ望まざる来客であったとしても、面と向かって相手をしなければならないのだ。
新聞の勧誘を断ったときの心労を思い出して憂鬱になったが、基本的には知人か、通販サイトの配達くらいしか来訪者はない。今日は後者だろう。数日前に注文した品がちょうど届く頃合いだ。
部屋のドアを開けて廊下へ出ると、黒い人影が立っていた。
戸外ではなく玄関内に。漆黒の不審者に思わず身がまえてしまうが、それはよく見ると繭墨だった。黒ずくめなのはもちろんセーラー服のせいだ。
「……繭墨、なんで」
「合鍵を使いました」
繭墨はキーホルダーを指先でくるりと回す。
「いや、手段じゃなくて、理由を……。バスで帰ったんじゃないの?」
「帰ろうとしましたが、鏡一朗さんの別れ際の表情が気になって、問い詰めるために戻ってきました」
「表情って」
「わたしがファーストキスを差し出したというのに、鏡一朗さんのリアクションは今ひとつ淡白でした。それに加えてどこか、こう……、得意げに見えたというか」
「自分じゃよくわからないけど」
僕はすっとぼける。自然な表情ができているだろうか。
「とっておきの豆知識を『それ、もう知ってるよ』と切り捨てるような……、話の盛り上がりに水を差す、あの嫌な感じです。それをあなたの表情から感じました」
「あまりにも動揺しすぎて、表情が硬くなっただけじゃないかな」
「私が感じた変化は、
繭墨は言葉を切って、目を逸らす。
「……あなたは、初めてでは、なかったんですね」
何が、なんて野暮な問いかけはしない。
僕は返事の代わりに、室内へと振り返る。
「……コーヒーでも飲む?」
◆◇◆◇◆◇◆◇
繭墨はコーヒーが大好物だ。
そのこだわり具合は相当なもので、全自動コーヒーメーカーはもちろん、エスプレッソ用のポットやサイフォンまで持っている。豆を粉砕するミルは電動と手動の二種類を所持。
そこまでそろえる必要があるのか、はなはだ疑問ではあるが、とにかく、コーヒーのこととなると彼女は異様なこだわりを見せる。実際、繭墨の淹れたコーヒーは、僕が淹れたものよりも明らかにおいしいのだ。
ともかく、繭墨はコーヒーが大好きで、香りを嗅ぐだけで精神が安定するとまで公言している。この険悪な状況で、それを利用しない手はない。
それに、冷静にならないといけないのは繭墨だけじゃない。
僕だって動揺していた。
自分の部屋に、付き合い始めの恋人がいるのだ。
落ち着けというのは無理な話だった。
深呼吸をしつつ台所に立つ。僕の淹れ方はペーパードリップ。抽出器にフィルターをはめて、コーヒー粉を入れ、熱湯を注ぐというシンプルなやり方だ。ポットを持つ手がいつもより震えていたが、おおむね、上手に淹れられたと思う。
ベッドの隅に座る繭墨にコーヒーを持っていくと、文庫本を閉じて顔を上げた。
カップを顔に近づけて、まず香りを確かめる。
それからカップをわずかに傾けて、コーヒーを少量だけ口に含んだ。
「腕を上げましたね」
「そりゃどうも」
うっすらと微笑む繭墨に、僕は軽い口調で返す。
大したことじゃない、いつもどおりにやってるだけさ、という余裕を込めて。
しかし、実際は毎日〝美味しいコーヒーの淹れ方〟で検索したやり方を真似したり、それにアレンジを加えたりと、試行錯誤を繰り返していた。
すべては繭墨をうなずかせるために。涙ぐましい努力だと我ながら思う。
その努力がこういう方向で実るとは思わなかったが、繭墨の緊張は少しばかり解けたようだった。チャンスは今。
「……乙姫、は、法律の
名前呼びにまだ少しテレを感じつつ、僕はそんな話から切り出した。
「はい。新たに制定された法律を、過去にさかのぼって適用することはできない、という話ですね」
すらすらと応じる繭墨に、僕はうなずきを返す。
法律にそういった特例があるように、恋愛においても不遡及性が認められるのではないかと、遠回しにアピールする作戦である。昔のキスについて現在の彼女があれこれ文句を言うのは、よろしくないことではないでしょうか、と。
「例えば、シスコン死すべし法という新法ができたからと言って、かつてシスコンだった阿山君を処罰することはできないということですよね」
僕は激しく咳き込んだ。台所に立っていて助かった。
「……ちょ、ちょっと待って」
「どうしましたか。阿山君は現在もシスコンなのですか?」
「コンプレックスを異常性愛と同列に語るのはよくない――」
「やっぱり、お相手は千都世さんだったんですね」
繭墨は目を細め、視線を落とした。
「第一容疑者はヨーコでした。ほかにも阿山君と妙に親しい生徒会の女性陣も捜査線上に浮上しましたが……、どうにもしっくりきませんでした。学校の外の、わたしの知らない阿山君を知っている誰かがお相手なのだと考えた方が、うまくイメージができました」
「ここへ来るまでの間に、そんなこと考えてたわけ」
自然と声音が低くなる。
繭墨が僕のことで思い悩んでくれるのはうれしいが、それも内容によりけりだ。
「過去を詮索されるのは、嫌なものですよね。ですがわたしは、別れ際に感じた違和感を、そのまま家まで持ち帰って夜どおし
だから直接うちへ来たのか。
確かに、そういう遊びのない率直さは、繭墨らしいと思う。
「ご想像のとおりだよ」
繭墨からのキスの直後に、僕が千都世さんとのキスを思い出していたことも。
繭墨にとってのファーストキスが、僕にとってそうではないことに、ささやかな優越感じていたことも。
どちらもあっさりと見抜かれてしまった。
だから僕もまた率直に、認めざるを得なかった。
「……でも、これって別に僕が悪いことをしているわけじゃないと思うんだけど」
「そうですね。ちょっとした表情の変化から過去を察してしまい、それが気になって事実を問いただそうとする。自覚はあります。面倒くさいですよね、わたし」
「何をいまさら」
僕は反射的にそう口にしていた。
恋人が弱音を吐いていたら、何をおいても話を聞いて慰めるべきなのだろう。放置するのはまだしも、相手の言葉を否定するなんて論外。どんな恋愛マニュアルでも『やってはいけないこと』として紹介されているに違いない。
それでもやはり、僕にとっては何をいまさら、である。
繭墨が面倒くさいことなど織り込み済みだ。
そういうところに惹かれたのだから。
繭墨は呆気に取られたのか、ぽかんと口を開けている。
「だいたい、そっちからキスしてきたのって、何割かは打算だよね。主導権を握るための」
「お、乙女のキスに理由を求めるなんて」
「精神論に逃げちゃあいけない」
「阿山君のくせに今日は押しが強いですね……」
確かにそうだ。
おそらく開き直っているからだろう。
昔のことをほじくり返されて気が立っていたのかもしれない。
繭墨が見せた弱みが気に入らなかったのかもしれない。
繭墨はコーヒーを飲み干すと、諦めたようにため息をつく。
「……今日のことがダメなら、もっと先へ進むしかありませんね」
「もっと先って……?」
驚くべき発言だった。
今日のことの、もっと先。
つまりキスの先。
となると――僕はつい繭墨の身体を凝視してしまう。
次いで、視線はベッドへと移る。
繭墨が座っている辺りがくぼんで、白いシーツが波打っている。
毎日横になっている何の変哲もない寝具の、意味合いが変わってしまう。
ごくりと生唾を飲み込んで視線を戻す。
繭墨が眼鏡越しに冷たい瞳でこちらを見下ろしていた。
地べたを這いずる害虫を、どうやって抹殺しようかと思案しているような視線である。少なくとも彼氏に向けていい目ではなかった。
「また卑猥なことを考えていますね」
繭墨は素早く立ち上がりつつ、身体の前で腕を組んでこちらの視線をガードする。
「も、もっと先というのは、例えばどこかへ出かけるとか、そういう体験のことです。鏡一朗さんの想像している行為とは違いますから」
今日は帰ります、話をしに来ただけですので――と、バタつきながら玄関へ歩いていく。繭墨が珍しく本気であわてていた。
繭墨がうろたえたり、慌てたりするのは、いわゆるフリの場合がほとんどだ。
うろたえるさまを見せて、相手を調子づかせたり。
あるいは、慌てた様子を見せて、周囲を急かしたり。
要するに、自らの注目度を活かして周りの人間を動かすためのポーズなのだ。
だから、繭墨の焦りっぷりは、本気で〝その先〟を嫌がっている、あるいは怖がっていることの表れだった。
そこが現状での限界のラインなのだろう。彼女が自分の部屋に上がり込んできたからといって、押し倒してもいいサインだとは限らない。
例えば、繭墨がドアノブに手をかけたところで開かないようにドアを押さえ込んで、『今日は帰さない』なんて言ってみても、それに心揺らされるやつではないだろう。今日のところは、おとなしく繭墨を見送ることにした。
――ただ、最後に少しだけ、ささやかな反撃を試みる。
「それでは、また。コーヒーありがとうございました」
玄関口で頭を下げる繭墨に、軽い口調で語りかける。
「あ、そうそう」
「なんですか」
「千都世さんと、その、したのって、ちょうどここなんだ。玄関先の共用通路」
繭墨は立ち止まって振り返り、不愉快そうに眉をひそめる。そりゃそうだ、と苦笑しつつ、今度は僕の方から近づいてキスをした。
「ん……」
こぼれた吐息はどちらのものか。
数秒間の接触のあいだ、お互い目は閉じず、視線もそらさない。感情を伝えるのとも、欲求を解消するのとも違う。意地を張り合っているみたいなキスだった。
離れると、繭墨は人差し指で唇に触れて、それから、眼鏡の位置を調整した。
ギロリと睨みつけてくる。
「眼鏡がずれました。それから、レンズに皮膚の脂がつきました。もう少し気遣ってください」
「ごめん、次からは気をつける」
「つ、次から……!?」
繭墨は素っ頓狂な声を上げる。頬が赤い。
「阿山君のくせに、小癪なことを言いますね、さっそく駆け引きですか、心理戦ですか。わたしの心にくさびを打ち込もうという腹ですか」
「そんなに胸にきちゃった?」
「減らず口を……。か、勝ったと思わないでください」
繭墨はバタバタと騒々しい足音を立てて、アパートの階段を駆け下りていった。ときどき足音のテンポがずれていたので心配だったが、無事に道路へ出てきたのを見届けると、安心して部屋へ戻る。
「――ッし!」
思わずガッツポーズが出てしまう。
勝ったと思わないでください、だって? それは無理だ。
繭墨と知り合ってからというもの、彼女にはさんざんやり込められてきたのだ。今日の大勝利に心躍らないはずがない。
しかし、勝利の余韻なんて束の間だった。
ひとしきりシャドーボクシングを続けて、ふと冷静になってベッドに倒れ込む。
これは自力でつかんだ勝利じゃない。
勝因は、繭墨の
彼女が部屋に上がり込んできたからといって、押し倒してもいいサインだとは限らない。でも、彼女の方からキスをしてきたのだから、こちらから同じことをするのは問題ないはず――。
そういう保証がなければ大胆な行動がとれない、まだまだ小心者の僕だった。
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