溺愛婚約者と秘密の約束と甘い媚薬を
蝶野ともえ
プロローグ
プロローグ
それの出会いは全ての始まりだった。
思い返すと、そう感じてしまう。それほどに、この日の出会いは風香(ふうか)にとって大きな出来事だった。
梅雨が長引き、やっと夏らしい天気が続いていた頃。ある日の夕暮れ時だった。久しぶりに大雨が降った。天気予報でも予想できない、夕立だった。
アスファルトから少し焦げたような匂いがしたけれど、それも雨によってすぐに消えてしまう。
けれど、風香にはそんな事はどうでもよかった。突然、雨に降られてしまい、小走りで自宅へ向かっている所だった。始めは小雨だったので、傘を買うこともなく少し濡れるぐらいならばいいかと、歩いていた。けれど、自宅近くになって大粒の雨が降ってきたのだ。
「わぁー………本降りだ。もう、コンビニなんて近くにないよ」
そんな小さな呟きは、地面や回りのビルや家の屋根に叩きつけるように落ちる雨の音でかき消されてしまう。
髪も洋服も濡れ、持っていた鞄だけは濡れないように前屈みになって走っていた。この鞄には風香の大切な仕事道具であるノートパソコンが入っていた。
カッカッとヒールを鳴らしながら走っていると、何かに躓いたのか風香は体がぐらりと傾いた。
「………ぁ………」
転んでしまう。
と、思った瞬間、風香は自分の体よりもノートパソコンを守ろうと、強く鞄を抱きしめた。体は傾いている。次にくるであろう衝撃に備えて、風香はグッと強く目を閉じた。
だが次に感じたのは、腕を引っ張る温かい感触。それ、ババババッと傘に落ちる雨音だった。
「おっと…………危ない。大丈夫ですか?」
「え………あ、すみません!!」
転びそうになった体を支えてくれていたのは、背の高いスーツを着た男性だった。少し色素の薄い灰色に光る黒髪。そして、つり目だけれど大きな黒々とした瞳。風香の体を支える腕は硬くゴツゴツしており、スーツ姿ではわからないが鍛えられた身体をしていた。そして、ほどよく響く低い声に、ドキリとしながらその男性を見つめてしまっていた。
風香は慌てて彼に謝り、腕から離れて頭を下げた。
「あの……ありがとうございます。おかげさまでパソコンが壊れなくてすみました」
「あぁ、だから手もつかずに転びそうになっていたんですね。でも、間に合ってよかった」
「あ、あの、私はもう濡れているので、傘は大丈夫です………」
風香は彼が自分に傘を差し出し、スーツが雨で濡れてしまっているのに気づいたのだ。後退り、お礼を言って立ち去ろうとした。
が、その男は風香の腕を掴んで、それを止めたのだ。その手もとても大きく、そして熱いものだった。
「待って。これ、使って。そんなに濡れたら風邪をひきますよ」
「え、でも………」
「いいから。この傘はあげるから」
そう言って、濡れている風香の手に無理矢理傘を押し付けて男は、走り去って行こうとした。
吹雪は彼の背中を見て、思わず大きな声を出して呼び止めてしまっていた。
「お礼させてくださいっ!!」
「………え?」
「あの、助けてくれて傘をくれたお礼を………」
大きな声で呼び止めた風香の声は彼に届き、少し驚いた顔でこちらを見つめていた。彼の髪も顔も……全身が濡れているのに、彼は全く気にしない様子で、ゆっくりとこちらに歩いてきた。
そして、風香の持っていた傘の中に、身を縮めて入ると男は、手で前髪をかき上げながらスーツの中からある物を取り出した。
「君を助けたのは仕事だけど……お礼は頂こうかな」
「…………あ………」
そう言って差し出してきたのは、彼の名刺だった。彼の手も受け取った風香の手も濡れているため、その紙も少し濡れてしまっていたが、風香はその名刺を大切に手に取った。
「………青海(おうみ)さん……警察………」
「そう。君の名前は?」
「風香………高緑風香です」
「風香さんね。何かお困りの事があったらすぐに連絡して下さいね」
「………あ………はい」
風香はその言葉を聞いて、少し胸が痛んだ。
自分は何を期待していたのだろう。彼は、仕事の一環で助けてくれただけなのだ。
名刺だって、ただ自分がお礼をしたいからと言ったからくれただけなのだろう。
風香は少し笑顔を曇らせたまま、「ありがとうございました」と、言おうとした。
すると、彼の濡れた顔が風香に近づいてきた。彼の髪からポトリと雫が落ちて、風香の肩にかかる。
「お礼、楽しみにしてます」
「っっ!」
青海は、そう言うと笑顔のまま風香から離れ、片手を上げて「じゃあっ」と声を上げながら颯爽と雨の中を去っていった。
まだ雨足が強い夕方の静かな道路。
青海から貰った傘と抱きしたままのバックをギュッと持ち直し、風香は名刺を見つめた。
「青海柊(おうみ しゅう)さん………」
風香はその言葉を口にした後、自分の体が熱くなるのを感じた。
「もう、風邪でもひいたかな………」
自分の気持ちを隠すようにそう呟きながら、風香は家の方へとゆっくりと歩き始めた。
家に帰ってからも、その名刺は大切なものとなった。
そして、その出会いは、全ての始まりだったのだ。
そう、本当に全ての……………。
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