13 鬼退治 一
「え……」
今更だが、
あの黒服の男を追い払っただけでなく、彼は――
駆け出した。
向かう先にいるのは、膨張が収まり、まるで息を整え落ち着こうとしているかのようにうなだれていた鬼だ。首がないのでうなだれるという表現は違うかもしれないが、そう見える格好をしていた。
彼の接近に反応したのかゆっくりと上体を起こす。地面に蹲った女性教師も合わせれば全長三メートルほど。その威容は見るものを圧倒し、普通の人ならきっとその前に立てば恐れから立ち尽くしやがて膝から崩れ落ちるだろう。拳を振るわれれば身を守ることも忘れて、というかその暇もなく、なすすべなく殴られてお終いだ。自分がそうだった。直に前にすると、その身体から立ち上る悪意めいた何かに気圧されて動けなかった。
彼は違った。悪意などものともせず、自分から振るわれた拳に向かっていく。単調な拳の軌道を見切ってかわし、さらに距離を詰めながらホウキを突きあげた。鬼の胸を打つ。鬼自体は微動だにもしなかったが、その胴体から先を生やしている女性教師が自身の胸を押さえるようにしながら呻いた。
舌打ちこそしなかったが、彼は何かあまりよろしくない結果を得たようだった。
それにしても、気になるのは鬼だ。
もしかしなくても、鬼の受けるダメージは女性教師にも伝わっているのだろう。いや、伝わるというよりは鬼の感じるもの全てを女性教師自身、直接感じているのかもしれない。鬼もまた彼女の一部なのだ。そんな気がする。
そしてきっと、鬼が放出する悪意も、私を襲う殺意もまた。
彼がホウキを手元に戻そうとした瞬間、鬼が空いた片腕でホウキを掴んだ。人間的な仕草だった。まるで〝自分の体〟を動かすのに慣れてきたかのようだった。
軽く握っただけでいとも容易くホウキは半分に折れる。彼は構わずホウキの柄を握る手を引いた。半分に折れたホウキはいい感じで武器になりそうな鋭角さを得ていた。
鬼が再び右腕を振るうと、彼はホウキを鬼の拳に突き立てながら軌道を変えつつ、身を捻るようにしてガラス片で鬼の胴体を切り裂く。裏拳の要領だ。鬼の体を青い光が焼いているようだった。
黒煙が立ち上る。それでも傷は浅く、徐々にだがすぐに塞がって元通りだ。彼はそれ以上追撃せず、あっさりと飛び退って身を引いた。
それから、右手に持ち替えたガラス片を強く握り込み、何をするのかと思えば、彼は自身の左手にガラス片を突き刺した。血が破片を、布を濡らす。青い光がより強くなる。
彼は再び鬼に向かって突っ込んでいった。拳を軽くかわし、踏み込んで突き刺す。さっと横に裂く。鬼と女性教師とを切り離そうとしているようだが、うまくいかない。ガラス片の長さというか、威力、切れ味のようなものが足りていない。それでもダメージは蓄積しているのだろう。鬼ではなく女性教師の方にだが。
「…………、」
嘆息、したのだろうか。
彼は鬼の攻撃をかわしながら距離をとる。汐見のすぐ近くまで後退してきた。打つ手がないと諦めてしまったのか、彼はガラス片を脇に放り捨ててしまった。
幸いなのかどうか、鬼はすぐには追ってこない。動こうにも足代わりである女性教師が蹲っているからか。
しかしやがて力ない動きで彼女は腕を地面につき、這うように前進を始めた。先の落下で脚は折れているのかもしれない。足取りというか進歩は遅い。でも着実にこちらを目指している。
汐見は目の前の背中を見上げた。ほんの数歩先に佇む彼は一度も視線を寄越してはくれない。垣間見えた横顔は目を閉じていた。神経を研ぎ澄まして何かを探っているかのように集中している。表情は真剣だった。汐見はただ、地面に座り込んでそんな彼を見つめていた。
鬼との距離が徐々に縮まっていく。
不意に彼が血に濡れた左手を横に伸ばした。
「――
誰かの名を呼んだ。それが名前だと分かったのは、直後にまるでその呼び声に応えるかのような現象が起こったからだ。
どこからともなく、一振りの刀が現れた。
唐突だった。まるで最初からそこにあったかのように、見えない誰かが彼に差し出したかのように。だからこの場合、彼は刀を〝受け取った〟と表現するべきだろうか。
誰から? たぶん、さっきの声の主だ。黒服の男を撤退させた、あの。
「――――、」
彼は左手で鞘を掴み、何事かを呟いた。思わず息を呑んだ。一瞬不安がよぎった。それは、黒服の男が私を斬ろうとした時に口にした言葉だった。意味は分からないが、その言葉を合図にしたように彼の腕から鞘にかけてが青い光を宿した。
そして彼は音もなく刀を引き抜いた。静かで、それでいて素早く、よどみのない動きだった。刀身もまた青く輝いている。
ここにきて初めて、彼がこちらに視線をくれた。首だけ振り返らせ、ちらりと一瞬だけ。安否を確かめるというよりもちょっと気になったから振り返ってみた、なんだまだいたのか、といった感じだった。素っ気ない。というかむしろ、彼の目は汐見ではなくその後ろに向けられていて、なるべくなら汐見を見たくない、顔を合わせたくない、そんな印象があった。
顔を見られたくない、ような。
こんな時だが、なんだか寂しさを覚えた。でも確かにそうだ。こんなところにいつまでもいるべきではない。さっさと逃げるべきだ。もう飛び降りた時の痛みも脚の痺れもない。
逃げたければいつでも逃げ出せる、はず。まだ足に力が入らないような感もあるが、たぶんそれはもう少しだけここにいたいという、愚かにもほどがある想いが胸の中にあったからだろう。危機感が麻痺しているのかもしれない。二度も殺されかけたのに。
こんな時なのに。刻一刻と鬼が近づいてきていて、すぐ目の前で刀を持った人と異形の化け物との戦闘が始まるかもしれないのに。
客観的に見て、自分はどうかしてると思う。
だから――
君は人形みたいだ、とか。
まるでここにいないみたいだ、なんて。
そんなことを、特に親しくもない相手に言われるのだろう。
「ぁ……、わっ」
また唐突だ。鞘が飛んできた。彼がこちらに放り投げたのだ。反射的に、でも慌てて受け取った。ぼんやりしていたから反応が遅れた。なんだか落としてはいけない気がして思わず受け取ってしまったが、これをどうしろというのだろう。縋るように答えを求めて見上げるが、彼は既に前を向いていた。
「――
そしてまた、誰かの名前を呼んだ。
慈しむように、懐かしむように、そっと。
「いるんだろう」
きっとその時の彼の口元には穏やかな微笑が浮かんでいたに違いない。そう思わせるのに充分なだけの優しい感情が込められていた。
まるでその言葉だけで全てが伝わったかのように――
「うん」
応える声は後ろからだった。ぎょっとして固まってしまう。これまで人の気配なんて微塵たりとも感じなかったのに、すぐ後ろ、背後といってもいいところから声がしたのだ。
振り返ろうとした。出来なかった。背後から何者かに肩を掴まれていた。手つきは優しく柔らかく、しかし有無を言わせないような、一切の身動きを許さないかのような強さがあった。
金縛りというものがあるのなら、きっとこれがそうだと思えるほどに自由がきかない。肩を掴まれていると分かっているのに、その手が見えない。目の前の背中を見上げた格好のまま、後ろに誰かいるのに、振り返りたいのに、動けない。
対して、目の前の彼は肩の荷が下りたかのように颯爽と駆け出した。鬼との距離は一息にゼロになる。
本当に、気がかりがなくなって身軽になったみたいに、さっきまでより目に見えて速く懐に入り込み、左手を添えた刀を振るって一太刀で断ち斬った。
鬼と、女性教師との繋がりを。
女性教師はその瞬間、激痛に襲われたように声を上げたが、不意にぱたりと。糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。
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