#15

  2


 ヘッドライトの灯りで夜闇を裂くように、車が走っていく。蜃体学校を出てどれほど経ったろうか。

 やがて、前方の暗がりの中、群青の町の夜景が蜃気楼のように見えてきた。〈蜃体〉の語源は蜃気楼にあり、昔あたった字引きによれば、貝の吐く気が幻を生むと信じられていたことに由来する。だが父帝は単純に、実在しないはずのものが実在するように見える、という性質から、こう命名したのだろう。

 で、その幻本人は空き席に丸まって眠りこけている。ミュロはずっと小声で歌を歌っている。ロエルは黙りこくって、町の影を見つめていた。

「ねえ、本当に良かったの?」

 運転席のトラーネが言った。すると、ミュロが窺うようにロエルを見てきたので、指差しを返してやる。

「いや、俺じゃなくて君に訊いたんだよ」

「え、僕?」

「そうそう、ミュロくんに訊いた」

 トラーネの相槌に、ミュロはきょとんとして、

「良かったのって……僕が君らについて来たこと?」

「うん。もう勤務先決まってたんでしょう? それなのに、争議に参加しちゃって大丈夫なのかなって」

「大丈夫、大丈夫。実際の配属は一ヶ月後だし……それに、僕だって蜃体師なんだ、指を咥えて見てるわけにはいかないよ」

 ミュロは塑性体の蜃体師として王都の配属になった。最近需要が増えてきているというが、その割には実用に付している様子を見たことがないし、ミュロも勤務内容を知らされていないらしい。

 ミュロの返事を聞いて、トラーネは頬を緩める。

「それなら良かった。私をとっ捕まえたこと、許してあげる」

「助かるなぁ……って、あれは絶対君が悪いよ。僕がロエルと友達だから良かったものを」

「私もロエルと友達で良かったよ。でも、ずるくない⁉ あんな見えない壁なんか、ぶつかるに決まってるじゃん……」

 例によって下唇を突き出すバツの悪いポーズ。ミュロの得意とする塑性体の壁に激突して、お縄となったようで、相当悔しがっていた。塑性体は蜃体の鉱物と言われており、自由な形に加工ができるが、一般人にとっては不可視の物質なので、日常の用には適さないと考えられている。どこに需要があるのか、ロエルにはよくわからない。

「それで、群青の町に着いたらどうするの?」

 ミュロの質問にロエルは答えて、

「まず、俺の部屋に行って体勢を整えよう。争議スト中の蜃体師達は潜伏しているだろうから、地下エルデ経由でコンタクトをとる。まぁ、具体的に何ができるというわけじゃないけど……いつでも手伝えるという意志が伝われば、それだけで十分だ」

「そうだね、こういう事態にこそ、人の厚意は励みになるからね……」

 ミュロは知ったようにしみじみ呟いたが、きっと何かの講談本の受け売りだろう。

 しばらく経って、群青の町の境が見える地点まで来たところで、トラーネが声を上げた。

「なんだろう、あれ……」

 町境付近にたくさんの車が溜まっているのが見えた。ミュロが窓から身を乗り出して、前方に目を凝らす。

「うぅんと……あ、わかった、検問だ! 警吏が一台一台車を覗いてるのが見える……」

「争議の噂を聞いて、他の町から駆けつけた蜃体師を弾いてるのか」

「そうみたい。あれは……探知機かな。蜃体師専用の標付を読み取るやつ」

 本来は蜃体が見えない一般の警吏や役人に、自ら蜃体師であることを証明するための探知機だが、それが蜃体師探しに当てられているようだ。

「すごい数……群青の争議が国中の蜃体師を奮わせてるんだ」

 近づくにつれて現れる、膨大な数の堰き止められた人影にトラーネが感嘆した。群青の町での争議が成功し蜃体師達の要求が呑まれれば、全国の蜃体師も同等の待遇を求める根拠ができる。故に、勇んで加勢しようという者達が集まってきているのだ。

「でも、入れなければただの野次馬でしかない。どうする?」

「うぅん……木を隠すなら森が定石だけど、隠す森がないもんねえ。探知機があったんじゃあ、荷台に隠れても無駄っぽいし」

 ご丁寧な検問だこと、とトラーネがハンドルに顔を載せて唸る。

 町境が近づいてくるにつれて、車内に焦りが募った。デグマもいつの間にか覚醒し、ひょっこりと窓の外を見やって『すげえなこりゃ』とぼやく。

「ねえ」

 と、ミュロが手を上げた。

「この車……その辺に放置してっても良いかな」

「後で取りに来ればな……何か案があるのか」

 ロエルが訊ねると、ミュロは嬉しそうに親指を立ててみせた。

「僕がどれだけ講談エンタメ本を読んでると思ってるの! こんな状況シーンなんてザラに見てきたさ」

 やっぱり講談エンタメ本の受け売りか、とロエルは嘆息する。


  2.8(Partially Omitted)


 重く低い音の響く中で、暗闇が揺れていた。自分の手元すら見えない暗さである。

 世界の神話では死んだ誰かを蘇らせるために、地下深い死者の国へと下りていく物語がよくある。そのうちの一つに、死者が「生者の国に戻るまで絶対に明かりを点けてはいけない」と忠告するが、生者が暗さに耐えきれず明かりを灯してしまい、死者が浄化されてしまう、というものがあった。

 要するに、迎えに行くほど思い入れのある死者を放り出してしまうほど、本当の暗がりは恐怖であるということ。

「ロエル……痛……」

「わ、悪い……」

 闇に覆われた感覚の中、ロエルはトラーネの手を握る力を緩めた。冷や汗がとめどなく流れ、自分の息が他人事のようにぜいぜい聞こえる。そのうちまた無意識のうちに、彼女の手を強く握りしめてしまうだろう。

「ご、ごめんよ、ロエル。暗所が苦手なんて知らなくて」

 どこからかミュロの萎縮した声が聞こえてくる。

「き、気にするな……お、俺も知らなかった……」

「でも……」

「……昔、井戸に落っこちた時の……感じに似ている。涸れ井戸で、釣瓶もなくて、く、暗かった……やっとの思いで……這い出た時には……村が焼けていた……」

 吐気が静かに喉奥を上ってくる。まるで、井戸の壁を伝って必死に出ようとする己の影のように。

「大丈夫、そんなに長くないはずだから……」

 右手に包まれた感触。トラーネが両手で強く握りしめてくれている。その感触は、ロエルに遠い日の情景を思い起こさせる。変えるのよ――と小さく、しかし透き通った音で囁く声。滅びた村に佇む一人の宣教師、その温もりと鮮烈な言葉……。

 やがて、大きな揺れの後に、静けさが訪れた。闇の中にぽっかりと四角く縁取られた光が開く。

「着きましたよ」

「ロエル、着いたって。下りられる?」

 いつになく優しい声で、トラーネが訊いてくる。「うん」と言ったが吃りにしかならなかった。腕を引っ張られる力に任せて、光の差す方へと這うように出る。

 永遠とも思われる暗闇を抜けると、そこは群青の町の工業区であった。太い管がいくつも通った、無骨で金属質なデザインの建築物がずらりと並んでいる。排気などで綺麗なはずもなかろうに、吸い込む空気はこれ以上ないほどに清冽に感じられた。足元がふらついたが、トラーネが支えてくれた。

 出てきた方を見返すと、そこには道路を舗装用のアスファルト合材をたんまりと積んだダンプ式貨物車トラックの荷台があった。合材の山の下部、奇妙にくり抜かれた空間があって、そこにさっきまで自分たちが入っていたのだと知る。その傍らで、ミュロが運転手に手付け金を渡していた。

「それじゃ、これ回収するんで……」

 ミュロが一言告げて向き直ると、砂時計の砂が落ちるようにアスファルトを穿つ空間が埋まっていく。見ている運転手はいかにも面白そうに、その光景に見入っていた。

 ――工業区行きの貨物車トラックの荷台の中に、人が入っているとは警吏も思うまい。群青の町に向かうダンプ式貨物車トラックを停めて協力を取り付けると、ミュロの持っていた塑性体の蜃体を函状に形作り、積み荷の中に無理くり空間を作り出して、密かに乗り込むスペースを確保したのだった。

 作戦は上手く運んだ。ロエルの恐怖症が露呈したことを除けば。

「なかなか面白かったですよ。じゃ、頑張ってくださいね」

 それから運転手はそう言って、ダンプ式貨物車トラックに乗り込み、去っていった。ミュロは手を振って見送ってから、蜃体を持ち運ぶための瓶に栓をした。

「とんだ関門だったな……」

 ロエルはぼやきながら、トラーネの支えを離れる。いつまでもこうしているのは流石に気恥ずかしかった。トラーネは尚不安そうに、ロエルを見つめる。彼女の視線から逃れように額を手で拭うと、脂汗がじっとりと指先についた。

 やるべきことは、まだ始まってすらいない。ロエルは手を握りしめる。


  3


 群青の町南西部、周縁部に乱立する粗末な家屋の間を縫う無数の小路。そのうちに、奇妙なほど垂直に交差する四辻がある。そこが地下エルデの集合地点だった。

 そこに佇む墓掘りのような格好をした男が、近づいてきたロエル達を見据えて、やけに低い声で言う。

「……蔚藍のトラーネ、か」

「や。今、地下どうなってる?」

「三番街で遊戯ゲームのルール説明中だ。参加するつもりなら早めに」

「そっか、了解。ありがとね」

 トラーネは手を振って、四辻を左折する。男の持った蜃体灯の明かりが揺れる。あの人囚人の標付だ、とミュロが小声で囁いた。この友人は元貴族だから、周縁部のような場所には馴染みがないのだ。

「いちいち警吏に報告してたら、それだけで一生が終わるぞ」

「そ、そんなことしないよ」

 やがて、下り階段のあつらえられた店が現れた。同じ半地下だが、トラーネと初めて出会った時の店とは違う。幾つもこういう拠点があるようだ。彼女の後をついて、階段を下っていく。

 中はバーだった。といっても、行政区にあるような洒落たものではなく、照明は胡乱な光を湛え、装飾のあちこちは傷み、煙草と粗末なアルコールの臭いが漂う、落ちぶれた雰囲気の周縁部らしい店だ。その奥に少なくない人数の老若男女が、寄ってたかって息を詰め、談合していた。

 それを餌に群がる動物を見るように眺める店主に、トラーネが声をかける。

「今は何を?」

「誰かと思ったら蔚藍の、か。依頼主が喋り始めたところだ」

 要領を得ぬままロエル達が集団に近づいていくと、概要を話す男の語りが聞こえてきた。

「……お宝ホメロはこちらの監視の緩む頃合いを狙って、必ず帰ってくるはずだ。現状、睨み合いが続いているのは、ただ、町長の手元にお宝ホメロがないからに過ぎない。戻ったことを確認できれば、大きな顔で警察権を行使してくるだろう。我々には時間がない」

 人だかりの合間、話している男の立ち姿がちらと見えた。すらりとした長身、揃えられた短髪、切れ長の面に、淀みない語り口と相まって清新な印象を受ける。何の意味もなさそうなぼろぼろの外套を羽織っているのは、何かの象徴的な意味合いなのか。

 横に立ったトラーネが小声で、

「彼が空翠のアルガ。レジ派の重鎮」

「……何故地下エルデに?」

「困ってるからでしょ」

 お人好しの限りを超えたその理念に、ロエルは驚嘆しつつ呆れも覚える。地下的な者である、という意識を持っていればこその連帯感なのだろうか。

「そこで、我々は町民の力を借りたいと思う。熱狂の力だ」

 アルガの台詞に聴衆が身を乗り出した、ような気がした。それだけ、彼の論説は聞く者の耳を引きつける何かがある。

「現状、蜃体師争議と呼ばれる件について、一般の人々は概ね、仕事で苦労しているのはお前らだけではない、と考える向きが多い。が、これは誤解だ。生活のために苦労するなど当たり前だ。その苦労が不当に収奪されているからこそ、我々は立ち上がったのだ、ということを伝えなくてはいけない。つまり、この町のエネルギー生成にかかる仕事は一人の怪物に独占されていると」

 そこでアルガは一旦、話を切った。聞き手が話を呑み込むのを待っているのだろう。

 と、聴衆の中から手が挙がった。この場に於いて、唯一椅子に腰をかけている壮年の男。長い前髪を左右に撫で付け、鋭い眼差しでアルガを見据える。一人だけ上物のスーツを着込んでおり、周囲から明らかに浮いていた。「あの人がかしら地下エルデその人」と、トラーネが耳打ちして教えてくれる。

 有り余る貫禄を撒き散らしながら、エルデは指をぱきぱきと鳴らしながら口を開いた。

「……その怪物が町に戻ってくるならば、始末してしまえば良いではないか」

「我々に必要なのは、怪物の不在ではない。彼女がいなくなれば、その仕事の空白を埋めるのが我々に替わるだけ……これでは何も変わらない。我々は変わらなくてはいけないし、変えなくてはならない。ホメロという怪物を含めて。そのためには今、町民の共感が最も肝要になる」

 アルガは一切物怖じせず、エルデに反駁した。やもすると狂気にも似た気色が、その瞳には宿っている。

「そこで我々が計画したのは一連の工作活動だ。まず、庁舎に保管されているホメロに関連する書類を盗み出す。そこから町民の心根に訴えられそうな材料、例えばエネルギー産出独占の契約書等を抜き出し、町民にもこの事態がわかるような物語に編纂した後、大量に増刷、大新聞の号外と称して町中でばら撒く。ビラ作成は技術が要るから我々で受け持つが、後の盗みと拡散は諸君らに頼みたい」

「わかった。では、今夜中に書類を盗み出し、明日の朝には拡散、扇動を行えるようにしておこう」

 二つ返事でがえんじると、エルデは隆々とした手を差し出した。アルガは厳しい顔つきでその手を取り、蜃体師と地下エルデの連合がここに発足する――。

 ロエルはアルガの話を聞いて、胸をなでおろしていた。彼が徹底的に求めているのは蜃体師の地位の回復のみであり、ホメロを排除することでは決してない。そのことが、ロエルにどれだけの勇気を与えたか、計り知れなかった。

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