#8

 彼女は〈蔚藍うつらんの〉トラーネと名乗った。

 半地下の店の一番奥の席。客は不機嫌そうな中年の男が一人いるだけ。

 頭上に設置された灯りは微細に点滅を繰り返している。貯蓄体の函に紐付けされていないタイプのもので、多分ガラクタ市で回ってきた中古品だろう。テーブルやイスのデザインが統一されていないのは、繁華街に捨てられていたインテリアを拾ってきたからか。

「いつものふたつ」

 トラーネは厨房の奥めがけて声をあげた。店主からの返事はなかったが彼女は気にした様子も見せず、盗ってきた財布から銀貨を二枚出してテーブルの隅に置いた。

「いつものってなんだ」

「わかんない。マスター耳聡いからさ、こうやってお金置いたら音で金額判断して、まともなもの作るか作らないか決めるの。悪貨一枚だとお湯にもやしがぷかぷか浮いてるのが出てくる」

 それでも食べられるだけ幸福マシというもの。普通の店なら水すら飲めない。

 ロエルはしばらく、獲ってきた財布の中身を調べるトラーネをまじまじと見つめた。小ぶりな鼻梁に薄い唇、小柄な体躯と言葉の癖、肩にかかる程度の髪。そして、〈蔚藍の〉という苗字は……。

「君、一体、どの国から来たんだ?」

「なっ」

 咄嗟にトラーネは財布を抱きかかえ、愕然とした表情でロエルを見た。

「何でわかったの!?」

「やっぱり外国人か。蔚藍の、なんて言葉を苗字にするなんて聞いたことないぞ。さしずめ適当に読んだ古典から、引っ張ってきたんだろう。しかも、その動揺っぷりからすると、こっそり入ってきたクチか。だから、俺が蜃体師かどうか訝しんだんだ」 

 揺籃の国にいる人民には全て標付が義務付けられているが、外国人ももちろん例外ではない。入国手続の一環に訪問者用の標付が行われている。

 しかし、密入国者の場合は標付が与えられていないから、蜃体師が見れば不法に滞在している者だと一発でわかる。そうなるとすぐに捕まり囹圄行き、数ヶ月の抑留の後、犯罪者の標付をされて本国へ突き返される。もう二度と入国できないというわけだ。

 ロエルの言及に、トラーネは下唇を少し突き出してゆっくり大きく頷いた。

「あー、教養人かぁ。そうだよ……私は掌天の国出身。お察しの通り、お忍びで入ってきたんだ。蔚藍って名前はここの仲間からもらったんだ。ほら、私の髪の毛、濃い藍色だから」

 そう言って、トラーネは自分の髪の毛を房で摘んで見せる。艶やかな良い髪だったが、ロエルにはその色合いはわからなかった。恐らくそうなのだろう、という疎隔された感覚が、遠くに見える明かりのように通り過ぎていく。

「なるほど、掌天の国。あそこは確かに民族的なルーツも言語も同じだし、身元がバレるのを避けるなら揺籃の国を選ぶのは妥当だ……」

 掌天の国は、揺籃の国から西の海を隔てたネオトラル大陸の半島にあり、学問の国として名を知られている。哲学‐神学‐法学‐医学‐科学、そして最近興隆した経済学、全ての分野に於いて世界最高峰の純度を誇り、他の国々と比べて百年は技術が進んでいるとか。蒸気機関も元々は掌天の発明品だ。

「でも……何で、掌天から揺籃に?」

 ロエルにはそこが引っかかった。揺籃の国民からすれば掌天の国は先進国中の先進国。いくら妥当とはいえ、ようやく建国六十年に至った、発展途上のこの国へわざわざ密入国するのは、リスクの割にメリットが少なすぎる気がした。

「家出だよ。別に大きな理由があったわけじゃない」

 むすっとした表情のまま、トラーネは言う。

「私の母国は男中心社会でさ、男は勉学、女はそれ以外全部みたいな、そういう風潮があるの。私はそういうのにムカついてたから、学者になってやりたくて勉強しまくってた。運良く物覚えも良いたちだったから、一五歳の時、高学校とサブカレッジの推薦をもらえた」

 サブカレッジは高学生が大学の講義を受講できるシステム、と聞いたことがある。教養と専門科目の学習を一番吸収の良い年齢に同時に行うことで、将来的に有力な人材を云々。

 トラーネは頬杖をついて、盛大なため息を吐く。

「そしたら、父さんがブチギレ。女に学は要らんって。自動車のエンジニアだからさ、頭の更新アップデートがされてないんだ。女なんて自分よか頭の良い男に股開いて指輪もらって、死ぬまで水場でばちゃばちゃやってるのが幸せなんだと。本気でそう思ってるんだよ、親切心で言ってた。ふざけんな、って思った。一年で我慢は限界、私は家出した。なんなら、国からも出てきた……ってわけ」

「壮大な家出クロニクルだな……でも、この国だってさして変わらないだろ」

 揺籃の国の、大学への進学率も圧倒的に男子の方が多い。

 ロエルの指摘に、トラーネは苦笑する。不思議な苦笑だった。

「ま、家を出た時点でどん底は覚悟してたから、却って気楽でいいよ。食べていくのは大変だし、変な男によく絡まれるけどさ、家業の整備もやらされなくて済むし、図書館でいくらでも勉強できるし……」

「勉強好きなのか」

「嫌いだよ。でも、馬鹿でいるままの方がもっと嫌だから、仕方なく」

 どたん、と、目の前に料理が置かれた。平べったい皿に、赤っぽい香辛料で和えた麺が横たわっていて、縁にはどっさりと野菜が盛り付けられている。料理を持ってきた店主は無愛想に卓上の銀貨を掴んで、何の声がけもなく奥に引っ込んだ。

 いただきます、とトラーネは食事を始めた。その挨拶を好奇に思いながら、ロエルも皿に載ってきたフォークとスプーンを手にとり、麺を口に運ぶ。塩の風味と遅れてくる香辛料の刺激が、つるりとした麺の食感と絡み合って、美味だった。

「俺も昔、本をよく読んだよ。異教国のものだけど」

 ロエルが言うと、トラーネは食事を続けたまま目だけでこちらを見やる。

「俺の出身は東部国境、干戈地域の付近だ。子どもの足でもちょっと歩けば軍隊の野営地に着けるような場所。たかが教義の食い違い一つで戦争を仕掛けてくる異教国は野蛮だが、全員がそうというわけじゃない。聖典を抱えて、地道に彼らの信じる教義を説きに来る宣教師はいた」

 未だに思い出せる。軍隊の哨戒をかいくぐり、洗練された礼儀を以って訪れる宣教師たち。彼らが訪れるのは、必ず寒い日のことだった。丈の長いローブを着込み、四角い帽子を深く被り、配布用の聖典を担いで、見つかればただでは済まない道を命がけでやってくる。

「俺は彼らの本を読むのが好きだったし、お陰様でじいさんの溜め込んだ蔵の本を片っ端から読む気にもなれた。村が焼かれなかったら改宗していたかも知れない。蜃体なんてクソ食らえってな」

「……故郷が戦火に?」

「そう、十四の頃だ。俺はたまたま、村から離れた井戸に落ちてて助かった。で、帰ったら何もなかった。家は焼かれてて親父とお袋の首が転がってて、妹は連れ去られていた。それから根のない生活さ。町を幾つも転々とした。どいつもこいつも貧しさに喘いでいて、俺みたいな戦争孤児に構ってる余裕なんてなかったが、俺自身も故郷の最後の生き残りだ、死んでる余裕もなかったさ」

 そして、最後に勤めた日雇い労働の監督が蜃体学校の募集要項を突きつけてきて、程なくそこへ入学することになる。曲がりなりにも、蜃体技術は国を支える重要な基盤だ。故郷の全てを負ったこの命を鼠のように消費して無駄に潰えさせるより、それなりの技術を以って国に還元する方が良いように思えた。

 ロエルはそのことを話すかどうか迷った。そこからの経緯はややこしいし、蜃体師を天敵と見なすトラーネにどう思われるかはともかく、ホメロや大蜃体に関わる機密が漏れてしまうかも知れない。

 ロエルは逡巡しつつ付け合せの野菜を一口含み、トラーネの顔を見て動きを止めた。

 泣きそうな表情だった。まるで、これからロエルが絞首台に連れて行かれるために、悔み惜しんでいるような。

「……どうした」

「だ、だって、故郷が焼かれたんでしょ……母さんも父さんもきょうだいも友達も、皆死んじゃったってこと……」

「まぁ、そうだけど……どうして君がそんな悲しそうな顔をする」

「だって……そんな辛い過去があるなんて……ご、ごめんね、私の癖なんだ、人の辛い話を聞くとどうしても、その、落ち込んじゃって……」

 トラーネは顔を隠すように、前髪をしきりにいじる。

 新鮮な反応だった。ロエルが戦争孤児になってから巡った場所にいる連中は、誰もがロエルと似たような境遇だったり、或いはそれ以上に苛烈な過去を持っていた。

 例えば、蜃体学校でよくつるんでくれたミュロは、西部沿岸の貴族出身だが没落の危機に瀕した際、兄弟のうち最も駑鈍であった彼が全ての責任を背負わされ、蜃体学校送りとなった。ミュロもまた故郷を失っているのだ。

 ロエルの場合、そういう身の上話を聞く度に抱くのは、もっと乾いた感慨だったし、周りも同じような反応をする。

 こいつも、生きてしまっているか、と。

 同情でもなく共感でもなく、ただ、この途方もない現実への納得が、風のように心の裡を通り抜けていくのだ。

 食卓に気まずい沈黙がおりた。トラーネは俯いていて、皿に残った料理は手付かずのまま。

 困った癖だな、とロエルは思いながら完食した。自分もかなり甘い方だが、彼女の甘さはまた一味違う。優しすぎる。そして、脆すぎる。

「気持ちは嬉しいけど……結局、気持ちだけだ。いちいち気に病んでたら、疲れて老いが早く回るぞ」

 ロエルはおどけた調子で言ってみせた。ほとんど場を取り直すためだけの台詞だ。

 すると、トラーネはすっと顔を上げた。悲嘆おもてをどこへやったのか、腹を決めたような力強い眼差しで、ロエルを見据えた。

「気持ちだけじゃないよ。私は何かをしたい」

「何かって」

「だから、困った時には私に言って! 〈地下エルデ〉が力になるから!」

「エルデ……って、噂に聞く盗賊組合のことか」

 工業者や商人の結成する相互扶助団体のパロディとして、繁華街・周縁部を拠点に活動する盗賊の組合ギルドがあると小耳に挟んだことがある。

「盗賊というか義賊って言うべきかな。あと組合ギルドっていうけど、もっと緩い繋がりだよ。名簿がないからね。地下エルデの名を冠する頭がいて、ほぼカリスマ性で階級が決まってる感じ。私も来たばっかの時はたくさん助けられてさ、今はそこそこ顔が利くんだ」

「へえ……それで、義賊達を頼らざるを得ない、俺の困った状況って何なんだ」

「何でも良いよ。腹が減ったとか家がないとか服がないとか匿って欲しいとか病気にかかったとか。恩義を感じたなら、後で誰かが困っていた時に返せばいい。そういう団体」

 組合と銘打っているものの、中心人物と理念だけが決まった恣意的な集まりらしい。

 トラーネはポケットから一枚の紙切れを取り出して、ロエルに手渡した。書かれているのは群青の町周縁部の住所のようだ。

「良いのか、初対面の人間に渡して」

「ダメ。覚えたら返してね」

 紙片から視線を上げると、トラーネはニタニタと笑っていた。ロエルも苦笑して、住所のメモを戻してやった。

 その時、一人の若い男がひどく慌てた様子で店に入ってきた。資格所持者であること示すエンブレムを胸元に縫い付けたジャケットと、作業用のズボン。そして、手にぶら下げた器材は――蜃体、それも貯蓄体を収めた容器。

 蜃体師だ。

「やばっ、ちょっと、こっち来て!」

 トラーネが、慌てた様子で言った。蜃体師ならば、一目で彼女が蜃体による標付を持たないことがわかってしまう。彼女の意図を察して、ロエルはトラーネの隣に移動すると、その小さな体躯を壁に押し付け自分の身体で隠した。一見、飯屋であるにも関わらず情事お盛んなカップルに見えるはず。

「ちょ、近っ……」

「わ、悪い……」

 咄嗟のことだったので、思ったより二人の身体が密着してしまった。といってもこの状況で、身を離すのも不自然だ。

 首を下に向けると、直近にトラーネの顔があった。胸の辺りがざわつく。

「してるフリね、フリ……」

 小声で彼女は言った。ロエルは目だけで頷き、極限まで顔を近づけた。

「……ん」

 小さい喘ぎ。篭った息遣いが耳奥に沁みる。当然、演技なのだが、その色っぽさにロエルの心臓が跳ねる。もうなし崩しに、してしまっても良いのでは……という、邪な声が聞こえた。

「馬鹿野郎! どんだけ待たせやがる、このクソ蜃体師め!」

 が、突然の罵声に全てが吹き飛んだ。思わずロエルは首を竦める。動きを止めてちょっとだけ振り向いて、とトラーネが囁く。その通りにした。

「申し訳ございません、先の案件が長引いてしまって……」

「言い訳など、知ったことか! いつもいつもよぉ、テメェが無能だから悪ぃんだろ!」

 怒鳴っているのは、一人で不機嫌そうに腰掛けていた中年の男だった。若い蜃体師はすっかり弱りきった声で、謝罪し続ける。

「申し訳ありません……」

「うるせえ、謝罪なんかいらねえよ、さっさと新しい蜃体を寄越せ」

「はい、ただ今すぐに……」

 蜃体師の作業を始める音が聞こえ始める。古かったり違法に作られた機器の蜃体は、函の貯蓄体と紐付けされていないので、エネルギーが切れたらフルの蜃体と交換する必要がある。蜃体を不法に持ち出していることになるので、王法では禁止されている闇商売だ。

 しかし、駆け出しの蜃体師ならば、誰もが手を染めなければいけない道でもある。蜃体学校を卒業したら定職は与えられるものの、その賃金があまりにも低すぎて生活できないのだ。

 恐らく、あの若い蜃体師は本職の仕事の後で、こちらの商売を行っているのだろう。本職の仕事が長引きがちなら、後の客の待ちは嵩み怒りが募る。

「大丈夫……すごい、汗かいてるけど……」

 トラーネに心配そうに言われて初めて、ロエルは自分が動揺していることに気がつく。

「あぁ、いや、大丈夫だ……」

 暗示するように呟く。

 だが、苦しかった。蜃体学校に入った時点で、もはや蜃体師になるほか希望はない。しかし、蜃体師になったところでこんな不遇の身を強いられるなら、そんな希望はハリボテよりもひどいゲテモノだ。

「大変お待たせしました、こちら充填したての蜃体をお入れしました……」

 やがて、若い蜃体師が作業を終えたらしい。何に入れたのか、よく見えないのでわからないが、多分蒸気機関だろう。

 彼の仕事ぶりを見届けたらしい客の男は、辛辣に言い放った。

「フン、そうかい。そんじゃ、さっさと失せな」

「あの……お代の方を頂戴したいのですが……」

 蜃体師がおずおずと言うと、ガン、とテーブルを派手に殴る音がした。トラーネの肩が、びくっと震える。

「は? テメェ、やっぱバカだろ? これだけ待たせておいて、どうして俺が金を払う必要があんだよ」

「で、でも……」

「でもじゃねえ、金が欲しいなら仕事の時間くらい守れよ無能。オラ、さっさと失せねぇと、こいつでテメェの顎吹っ飛ばすぞ」

「そ、そんな――どうか、一割だけでも、お願いします! もう次の給料日までアテが全然なくて……」

「だから、知らねえっつってんだよ! テメェの都合を押し付けてくるんじゃねえ!」

 客の剣幕に蜃体師は言葉を失い、消沈して幽霊のように店を出ていった。すると、途端に客はけらけらと笑い出して、厨房の奥の方へと声をかける。

「おい、聞いてだろ! ちょっと脅しただけで、尻尾巻いて逃げ出しやがった! あんな連中に金払うのもバカらしい。ほら、さっきのメシ代だ、蜃体代を踏み倒した分から払うぜ」

 バン、と貨幣をテーブルに叩きつける音。

 その音で、ロエルの理性は吹き飛んだ。

 こいつは、人への報酬を取り上げて、自分の飯代に充てたのか。そんなことをしなくても、自分は飢えることはなかったというのに。

 もしかしたら、先の自分がやっていたのかも知れないその行為は、慄くほどに醜かった。狂おしいほどの怒りが身体の底から吹き上げる。その客の男に、この憤怒を全てをぶちまけなければ気がすまなくなった。

「ねえ、ちょ、落ち着いてよ!」

 しかし、身体は動かなかった。トラーネが両腕で必死にロエルを抑えつけているのだ。

「トラーネ、離してくれ……クソ、あの野郎に、思い知らせてやりたい……」

「ダメ、ダメだってば……喧嘩は仕掛けた方の負けなんだ……」

 そうだ、そんなことはロエルもわかっている。

 でも、最初から負けているならば、今更負けたところでどうということもあるまい……

 ロエルはトラーネの細い肩を掴んで、自分から引き剥がそうとした。トラーネは目を思い切り瞑って、ロエルを行かせまいと踏ん張る。だが、ゆっくり、ゆっくりとと彼女の拘束は剥がれていき、ロエルは――

 ふいに両の頬に冷たさを感じた。

 それから唇に、温もりが、水面に垂れる一滴の雫のように、落ちてきた。

「もう俺は蜃体師に金は払わねえことにしたぜ。そいじゃあな」

 中年の男は大きな声で言いながら、店を去った。静かな店内に、店主が皿を片付ける音だけが、密かに響く。

 ロエルは呆然と、目の前の娘の顔を見ていた。彼女は両掌でロエルの頬を包み込み、下唇を突き出して、バツの悪そうな顔をしていた。

「……そ、その……悪かった」

 ロエルが謝ると、途端にトラーネはふふ、と笑みを漏らした。

「これは貸しだかんね」

地下エルデのか?」

「ううん、私個人の」

 身を離すと、彼女は不敵な読めない表情をして、ロエルを見上げた。

「君、すごく大きいものを背負ってるんだね。今は詳しく聞かないけど、さ――それじゃあ、私、もう行くね。それ、食べちゃって良いよ」

 ばいばい、と手を振って、トラーネは店を出て行った。再び訪れる静寂。残されたロエルは、静々と自分の席に戻った。トラーネの皿は食べかけで、縁の野菜が丸々そのままになっている。

「野菜嫌いか……」

 短く呟き、フォークに手をつけた。

 冷静になっていくにつれて、自分の無鉄砲さに対する羞恥が湧いてくる。もし、あの男がこの地域の大物だった場合、殴りつけた時点でロエルはこの町にいられなくなっていただろう。喧嘩は弱い方が負ける……そして、先に仕掛けるのは弱者だ。強者が喧嘩を売る理由は何もない。

 トラーネには随分と助けられてしまった。ロエルは食べ残しを全て平らげると、自分の皿に重ねる。すると、どこからともなくデグマが現れて、皿の上にぴょんと飛び乗った。

『出会ってすぐ口吻か……一体どうなってるんだ』

「状況が状況だったからだ……って、ん?」

 何か違和感を覚えて、ロエルは自分の懐を探ってみる。そこにあるべきものに触れようとした手が、ことごとく空を掴んだ。この覚えのある感覚は……

「あいつ、また財布パクっていったな!」

 大慌てで店の外に出るものの、トラーネの姿はもうどこにもなく、肩に載ったデグマは腹を抱えて大笑い――。


 

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