第6話 洞窟

 後日、シグルドの姿は洞窟にあった。


 地下ダンジョンの最下層。今は、魔物の住(す)み処(か)となり果てた、鍾乳洞(しょうにゅうどう)の奥の奥。

 十重二十重(とえはたえ)にそそり立つ鍾乳石の間を縫い、その地に足を踏み入れた、というよりも岩陰から覗(のぞ)き込んだシグルドの瞳にそれは飛び込んできた。

 ―おっぱい。

 白く豊満な乳房がシグルドの目を奪った。

 正確には、彼が最初に見たのは光だった。

 洞窟はどこも真の闇で、「琥珀電球」のかすかな灯りを頼りに進んできた。

 琥珀電球は、エステルの考案した錬金アイテムで、琥珀を摩擦することによって生じる微弱な電気が、中に閉じ込められた蛍を刺激して異常興奮させるというとち狂った照明器具である。

 この瞬間も、蛍が交尾しているのかと思うと、童貞のシグルドにはおもしろくなかったが、それでもこの暗黒の中で、唯一きらめく希望の光なのだ。

 その貧弱な灯りを一瞬で呑み込んでしまうほどの光がその空間を満たしていた。

 眩(まぶ)しさに一瞬目がくらむ。

 徐々に回復してきた視界の端に、今回のクエストの目的である薬草が生い茂っているのが見えた。

 しかしすぐにそんなものはどうでもよくなってしまった。

 目の前に、裸の女がいたからだ。

 打ち捨てられた薬草畑。

 踏みしめる地面が柔らかいのは、かつて人の手で運ばれた土が一面に敷き詰められていたからだ。

 それも、今は成長を続ける鍾乳石に覆われて、至る所で石筍(せきじゅん)がそそり立っていた。

 その岩間に地下水が流れ込んで出来た水たまりで、若い女が水浴びをしていたのだった。

 美しい女だった。

 水たまりの中に座して、上半身を後ろの大岩に預けていた。

 肌がミルクのように白い。

 その白い乳房に、燃え立つような赤い髪が掛かっていた。

 女が少しでも体を動かせば、その髪の毛に隠れた乳首までが見えそうだった。

 いや、髪の色と同化しているだけで本当はその薄桃色の蕾は見えているのかもしれなかった。

 シグルドは、咄嗟に岩陰に身を隠しながら、彼女の一挙手一投足を凝視していた。

 無論、それはいやらしいデバガメ根性からではない。

 むしろ冒険者として当然の警戒心であった。

 ―自分は魔物に化かされているのではないか。

 シグルドはそう思った。

 ただでさえ険阻なこの洞窟には、多くの魔物が棲みついていたし、奴らの牙に掛かり果てた冒険者の屍もいやというほど目にしてきた。

 ここは女子供がピクニック気分で足を踏み入れて、暢気(のんき)に水浴びなどしていていい場所ではないのだ。

 シグルドは恐らく、自分だけがこの場所に辿り着いたのだと考えていた。

 証拠は、この薬草だ。

 辺り一面には、彼らのクエストの目的である「常闇(とこやみ)草(ぐさ)」が手つかずのままに生い茂っている。

 常闇草と言うのは、暗闇の中で育つ特殊な草でかつて、長雨の際の救荒作物として注目されたが、今では出涸らしのお茶よりも栄養が少ないことが分かっているという代物だ。

 その雑草が再び脚光を浴びるようになったのは、とあるカリスマ錬金術師が「これこそが鉛中毒に多大な効能を示す万能薬である」と触れ回ったからであるという。

 尤もエステルに言わせればそれも胡散臭い話であるという。

「常闇草にそんな効能があるなんて聞いたこともありません。そのカリスマとかいう人も胡散臭いですね。錬金術師の中には人をだましてお金を巻き上げる山師みたいな人も多いんですよ」

 そう、自分のことを棚に上げてプリプリと怒っていたのをシグルドは覚えていた。

 元よりシグルドにとってそんなことはどうでもよかった。

 彼の目的は、あくまで精霊講だった。

 それでも、このつまらない草のために大勢の人が命を落としたこともまた事実である。

 そのことに思いを致すと、しんみりとした気分になる。

 奇妙な感傷に襲われたシグルドは雑嚢から一束の護符(タリスマン)を取り出した。

 護符(タリスマン)には様々な魔術的効果がある。

 今シグルドが手にしているそれのご利益は、恨みを抱えた魂を慰撫し、天国への旅路を守護することであった。

 それはエステルが書いた護符であり、うっかり殺してしまった患者の逆恨みから自らを守るために作成したものであった。

 シグルドはそれらをそっと足元にバラまいた。

 鎮魂のためである。

(俺は、無念のうちにこの洞窟に斃(たお)れた無数の冒険者の志を継いでいるのだ。同志たちよどうか安らかに至高天へと旅立ってください。そして我に幻影を打ち破る勇気を与えたまえ。)

 シグルドの胸は、冒険者の矜持(きょうじ)にはち切れそうであった。

 よもや女性(にょしょう)の美しさなどに惑わされようはずがない。

 彼も世間並みに助平(すけべ)な男の子だったが、助平(すけべ)に冒険者の魂を売り渡すほどの見下げ果てた助平(すけべ)ではないのである。

 女が水たまりから立ち上がった。

 ガバッ。

 シグルドは思わず身を乗り出す。

 薄桃色の乳首はもとより、引き締まったお腹、くびれた腰、むっちりとした太ももまですべてが露わになった。

 そして、もちろん太ももに縁どられた、その三角形の領域までもが…。

(―黄金郷(エルドラド)!)

 シグルドは心の中で喝采(かっさい)した。

 もう我慢が出来なかった。

 がちゃがちゃがちゃ。がちゃがちゃがちゃ。

 焦れば焦るほど、皮のベルトはなかなかバックルから外れてくれなかった。

 シグルドが熊に襲われたのは、そんな時だった。

 全神経を裸体とベルトに集中していたので、背後からぬっと現れた阿呆熊(パーベア)にとっさに反応することが出来なかった。

 阿呆熊は、世界でもパーデンネン王国の山岳地帯だけに棲息する魔物である。糞穢(ふんえ)のような黄色地の体躯に、腹の部分だけが血のような緋色というカラーリングが特徴的な怪物だ。

 主食は蜂蜜だが人殺しが大好きな熊である。

 その殺意に満ちた気配に振り返った瞬間、左肩口から右わき腹にかけて、袈裟掛けに熊の爪を受けた。

「うわああああ」

 痛みに悶えるシグルドの前に立ちはだかったそれは、体重二百キロ以上はあろうかと思われるほどの巨大な獣だった。

 その巨体が、雪崩のようにシグルドに覆いかぶさってきた。

 シグルドは恐怖のあまり目をつぶった。

 全身の細胞がやんわりと死を受け入れ始めた。

 しかし、その瞬間は一向に訪れなかった。

 訝(いぶか)しく思い、眼をあけると、そこには顔面に鍾乳石が突き刺さった熊がもだえ苦しんでいた。

「お兄ちゃん伏せて!」

 よく通るソプラノの声が洞窟に轟いた。

 声の方を振り向くと、女が背を預けていたあの岩の上に一人の少年が立っていた。

 その少年は、身の丈に不釣り合いなほど大きな弓を携えていた。

 限界まで引き絞られたその弦には、人体よりも少し大きい岩が番(つが)えられている。

 それは奇妙な光景であった。

 歪な岩の塊が、尋常の理を超えて、行儀よく弦に固定されているのだった。

 シグルドは尻餅をつくようにその場にへたり込んだ。

 少年が弓の弦を離す。

 シグルドの頭上を大岩が飛び越えていく。

 熊の頭が爆ぜた。

 血と肉片が飛び散り、シグルドの上にも降り注いだ。

 呆然とその光景を眺めていたシグルドに少年は続けて言った。

「お兄ちゃん、そこ危ないと思うよ」

 見ると、頭部を失った熊の体から、濛々と煙のようなものが噴き出していた。

(あれは、鉛瘴気…)

 ―逃げなければ。

 ぼんやりした頭でそう思うのと、自分の体が痺れて動かなくなっているのに気付いたのはほぼ同時だった。

 あっというまに広がった瘴気が、シグルドを包み込み、そして…。


 刹那、女は十メートルに近い跳躍を見せた。

 水たまりから、シグルドの所まで人ならぬ脚力で飛んだのである。

 瘴気のカーテンの向こうに女の影がシグルドのもとに降って来るのが見えた。

 女は、いつの間にか下着を身に着けていて、その両腕には一振りの長い剣を握っていた。

 その剣は、光っていた。女がその剣を振るうのに合わせて、洞内の明かりも揺れた。その剣こそが、この洞窟を満たす不思議な光の源なのだ。

 女の顔は笑っていた。

 肉食獣を思わせる獰猛な笑みだった。

 着地とほぼ同時、女は熊から吹き出る煙を両断した。

 その時瘴気が凍った、かのようにシグルドには見えた。

 半分ずつになった気体は、その形のままに二つの金属の塊となって地に鈍い音を立てた。

 その片割れは、なおも熊の胴体と繋がっていた。

「ふしゅううう」

 獲物を仕留め終えた女は、内なる狂気を排出するかのように細く長い息を吐き出し、その剣を岩の上に突き立てた。

 剣は熱せられた金属に特有な赤い光を放ち、その明かりが洞内を照らしていた。

 その時、シグルドは女の胸のあたりに先ほどまではなかった紋章が浮かんでいるのに気付いた。

 炎の図柄に縁どられた盾形模様(エスカッシャン)。その銀色(アージェント)の地の上に火蜥蜴と剣が交差して描かれていた。

 その模様が、女が息を吐き出すのに合わせて次第に薄れていくのだった。


「しゅ、しゅごい…」

 シグルドは、鉛の毒で萎え切った体に鞭打って、女の足下にいざり寄った。

 先ほどまで紋章が浮かび上がっていた女の乳房に露骨でぶしつけな視線を注ぐ。

 彼の瞳は、畏敬の念にきらきらと輝いていた。

 冒険者に成って早三年。

 その日初めて、シグルドは奇跡というものを目の当たりにしたのである。

 少年は巨岩を射、美女は瘴気を凍らせた。

 まさにそれこそが、シグルドのあこがれ続けた冒険者の世界なのだった。

「すごい。すごい。これは並みの魔法じゃない。星の力ですね? あなた方のジョブは何ですか? ヘルペス博士もこちらにいらしてるんですか?」

 熱っぽく問いを発するシグルドに、返って来たのはしかし、答えではなかった。

 ―ごちん。

 ものすごい勢いで、頭上に拳骨を落とされた。

「お前は、人に助けてもらったとき何て言うのか、お父さんお母さんに教わって来なかったのか?」

 すごい剣幕だった。

 美人が怒るとこんなに怖いのかとシグルドは思う。

「ご、ごめんなさい。ありがとうございました」

 女は、むすっとした表情のまま、シグルドに手を差し伸べた。

「ほら、一人じゃ立てないんだろう?」

 シグルドは、恐る恐るその手を取った。

 とても、女とは思えない乱暴な力で引き上げられる。

「ありがとうございます」

 良かった。今度は、ちゃんと言えた。

 突然、万力のような力で、腕を締め上げられた。

「ぎにゃあああ」

 すごい剣幕だった。

 これが、怒り顔だとすれば、さっきまでのあれは微笑である。

 憤怒の形相が、美女の顔じゅうを染め上げていた。

 釣り上がった眦(まなじり)には、まだ瘴気をぶった斬った時の殺意が燻っている。

「てめー、この紋章は何ごとだ?」

 そう言って女が高々と掲げた腕に連なるシグルドの左肩には、彼女と同じくらい物々しい意匠(いしょう)が刻まれていたのだった。

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