はまなし野

田所米子

 久方ぶりの故郷は、変わらずに嬢子おとめの頬の色に萌えていた。もしや幼き日の己と弟が飛び出してくるやもと、浜辺郎女はまのべのいらつめは紅で彩った唇をほころばせる。

 青く輝くわたつみも、潮のも、全てが懐かしい。都の貴人あてびとの後添えという立場に納まれども、郎女も弟も、元々はこの地で生まれたのだから。


 郎女といろと稚彦わかひこの母は海女であり、海に潜っては魚や貝を採っていた。姉弟は、海鳴りと母の、母の姉妹たちの子守歌にあやされながら育ったのである。

 郎女と弟には父がなかったが、郎女はそれを気に留めなかった。

 まず、里では父がどこの誰とも知れぬ子は、自分たち以外にも少なからずいた。加えて、夫と妻が離れて暮らし、夫の気が赴いた時に妻の許を訪れるという夫婦めおとの在り方では、父という存在は自ずから希薄になろう。どちらかといえば早熟だった郎女は、このように心得ていたのである。

 一定の間夫が妻の許を訪れなければ、その男女は夫でも妻でもなくなる。そのため郎女は、自分の父は弟ができた後に母に飽いたのか、あるいは母が歌垣うたがきで一夜の情けを交えたおのこなのやもとも考えていた。

 年頃の男女が歌を交わし合う歌垣では、意気投合した男女が手ごろな繁みで契るなど、珍しくもない。その場合、自分と弟の父が同じかどうかも怪しいものだが、それでどんな不便があろうか。

「ねえさま」

 ――かあさまが、ぼくたちのとうさまは昔かあさまに、こうしてくれたって。

 はにかみながら郎女の髪に浜梨はまなしの花を挿した弟は、こんなにも愛らしいのだから。

 初めて耳にした父母の昔から察するに、母はやはり父に飽きられてしまったのだろう。髪こそ潮で傷んでいはするが、母は透けるような白いはだえをした、中々に見目良いひとであるのに。幼心に不思議なものだった。

 覚えがある限りでは母は一度も、浜辺で行われる歌垣に赴こうとはしなかった。その上、母や郎女や弟だけでなく、母の姉妹やその子が暮らす家の母のへやに夜這う男を叩きだしては、嘆息していたのである。

 そんな母をおばたちはしきりに、もう諦めろと諭していた。お前はまだ若くて美しい。なのに、この先二度と訪れてこないだろうあの男に焦がれているのか、と。

 おばたちの忠言にも関わらず、母は一度として忍んでやってくる男を受け入れなかった。というのも、心痛のためにか年を追うごとに伏せりがちになった母は、幼い姉弟を残して、黄泉の国へと旅立ってしまったのである。

 母が暗い旅路へと発ったのは、浜梨はまなしの花が黄色い砂浜を紅紫に染める夏の暮れだった。

「お前たちの父と出会い、結ばれ、お前たちを宿したのは、浜梨の花咲く浜辺だった。今となってはもう一度あの人のかいなに抱かれることは叶わない。だけどせめて、私の亡骸にはせめてあの花を添えて埋葬しておくれ」

 今際の際、母は郎女と弟を手招き、乾いた唇で最後の望みを囁いたのである。

 目に涙を一杯に溜めた少女と少年が握る細い指は、だんだんと冷たくなっていった。郎女はこうして、うつせみの世の命の儚さを知ったのである。

 葬礼の支度はおばたちに任せ、郎女たちは海辺に飛び出した。そうして姉弟は、両のまなこを浜梨の実のごとく潤ませながら、潮風にそよぐ花を摘んだのである。鋭い棘が刺さった幼い指から、浜梨の花弁よりももっと赤い滴が滴っても。じくじくと疼く指先に眼から滴る透明な滴が降り注いだ指先が、酷く痛み始めても。

 幾ほど砂地を涙で潤していただろうか。泣き疲れ互いに寄り添いながら眠っていた郎女と弟は、大きな手に肩を揺さぶられて飛び起きた。

「そなたら、かような所でうたた寝をして、波に攫われても知らぬぞ」

 今はいっそ波に攫われたいぐらいなのですから、放っておいてください。

 郎女は、一度はぶつけかけた文句を呑みこんだ。腫れた目に映る青年の容貌には覚えはないがよく整っていて、好感が持てた。しかも、どことなく自分や弟の面立ちと通ずるおもむきがあったからである。

 郎女たち姉弟、特に弟は、里の他の者とは違う顔をしていると囁かれていた。だが、こんな形で自分たちと似通った顔と出会うなんて。

 弟も、郎女と同じ思いだったのだろう。目を丸くする姉弟に、青年は優しく問いかけた。お前たちは、佐保さほという女の家を知っているかと。

「……母さまに、一体どんなご用がおありなのでしょう」

 またしても瞳を潤ませて応えた娘の細い肩を、青年ははっと息を呑んで掴んだ。

「お前たちが、そうなのか」

「……だから、一体、どんなご用なのです」

 この人は一体誰なのだろう。母が昔、情けを交わした人なのだろうか。だがそれにしては若すぎる。前触れなく押し寄せてきた哀しみを持て余す身と心では、ものも満足に考えられない。

 母が望んだ花は十分に集まったし、弟も疲れている。だいたい、このいかにも怪しい青年に、いつまでも付き合ってはいられない。

「――ま、待て」

 弟の手を握ってくると踵を返した少女を、青年は慌てて呼び止めた。

「俺は実は……」

 郎女たちとは母が違うで、父の命により、お前たちを迎えにきたのだと。でまかせの空言だと否定しきれぬ文句は、果たして郎女の足を砂地に縫い止めた。

「お前たちの母はどこにいる」

 次いで青年は、再び立ち尽くした姉弟に問いかけたのだが、遅すぎた。

暁方あかつきがた、黄泉路へと」

 己の衣の裾を握り締める弟の背を撫でながら、少女は涙で枯れた声を絞り出す。すると青年は、凛々しい双眸をそっと伏せた。

「父さまは、どうして今の今までまで迎えを寄こしてくれなかったのです」

 元来気が優しい稚彦は、母を喪って間もない今では、泣きじゃくることしかできない。その弟の代わりに、郎女は唇を噛みしめた青年を詰った。柔らかな指で潮で傷んだ髪を梳き、棘を取った浜梨の花を飾ってくれた母はもういないのだと。流しても流してもこみ上げてくる哀しみが迸るままに。

「母さまはあんなにも父さまを恋い慕い、父さまがおとなう夜をずっと待っていたのに。なのにどうして、父さま自らが来てくださらなかったのですか」

 幼い娘が血塗れの右の拳を振り上げると、青年は大きな掌で小さな拳を受け止めた。ならば、とこちらは赤く染まっていない左を振り上げた郎女を、青年はなおも悲しげに見やる。

「全て、話そう。だがその前に、お前たちの母御に、父上の代わりとして俺からも何か手向けさせてくれ」

 郎女は慌てふためきながらも、浜梨の花の束と弟の手をしっかり握って住まいに戻った。そうしておばや年長のいとこたちと耳を傾けたところによると、郎女たちの父は天皇すめらみことに仕える官人であるが、若き日には国司の補佐としてこの出羽いではに滞在していたのだという。そしてその間に母と出会い、郎女たちが生まれたのだ。

 国司と共に都へ帰る日、父は母に約束した。いつか必ずそなたらを都に呼び寄せ、共に暮らそうと。だが、既にいた嫡妻の悋気のため、とうとうその願いは長年叶わなかった。

 朝廷に届けられた父の正室は、父よりも地位高い官吏を代々輩出してきた家の出だという。己の出世にも大いに貢献してきたこの妻や、妻の親族の機嫌を損ねれば、官人としてのこれ以上の栄達は望めぬ。いや、栄達どころか、明日もしれぬ身ともなりかねない。

 我慢に我慢を重ねてきた父だが、この年その妻が病で死去した。ために一刻も早く母や郎女たちを吾が許に呼びよせんとした父だが、皮肉にも亡き正妻と同じ病に倒れてしまったのだという。

「だから、俺と共に都に、父上が待つ都へ来てくれまいか。父上はお前たちの母の死を知れば気落ちするだろう。だが、お前たちが側にいれば、持ち直すやもしれぬ」

 郎女たちと同じく正室でない女の子だという異母兄は、潮騒にかき消されんばかりの声で懇願する。応えは、決まっていた。いかに道は険しかれども、熱にうなされながらもしきりに母や自分たちの名を呼ぶという父に、会いに行かずにいられようか。

 幾日も輿に揺られようよう辿りついた、百敷ももしきの大宮います平城京。その一画に佇む父の屋敷の門を潜り、病の気が濃く漂う寝所に足を踏み入れた折には、父は既に虫の息だった。しかしそれでも父は郎女たちの姿を認めるや、とめどない涙を流したのである。

「母さまは、父さまのことをずっと恋い慕っておりました」

 そして父は、郎女が一房切り取って来た母の髪を握らせ耳元で囁いた途端、息絶えたのである。父の墓には、母の髪も共に埋められた。父と母は現世うつしよでは引き裂かれたが、黄泉では再会できて喜んでいるかもしれない。

 父の葬礼が全て終わった後。天離あまざかる鄙からやって来た姉弟は、異母兄の屋敷で、異母兄の母に養育されることとなった。望めば出羽の小さな海辺の村に帰れぬでもなかったし、弟は里に帰りたがっているようだった。しかし郎女は、せつにこの都に留まらんと望んだのである。

 折角、あの里にいては望んでも一生足を踏み入れられぬ、華やかなところに来たのだ。父とは死に別れてしまったが、ここで自分と弟の才を磨き、自分たちの運を試さずにいられようか。何より、亡き父母もそれを望んでいるだろう。

「お前たち、おばやいとこたちとは今生の別れになるやもしれぬが、良いのか」

 整った眉を寄せて問いかける母違いの兄に、郎女はふっくらとした唇を吊り上げた。

「確かに、おばさまたちは悲しまれるでしょう。されど、わたしたちが出羽にも聞こえるほど名を上げれば、おばさまたちはきっと喜んでくれるはずです」

「これはこれは。可愛らしい顔をして、我が妹は随分と情のこわいものだ」

「兄上は、気が強い女子おなごはお嫌いですのね」

 わざと眉尻を下げ、しょげた顔を作ると、目の前の青年はかかと破顔した。

「いや、好みだ」

「それは嬉しい」

 郎女がますますふっくらとした唇を吊り上げると、兄は益々面白そうな顔をした。

 ――あと五年もしたら、そなたに泣かされる男が数多出て来るだろう。俺は、その様を見てみたくなったよ。

 こうして、郎女の望みは叶えられたのである。

 弟は未だ悲しみに曇ったあどけない目を丸くして、郎女の袖をこわごわと握っている。だが聡明な稚彦ならば、これぞ進むべき道だったのだと解してくれるだろう。郎女は期待していたし、ほどなくしてその通りになったのである。

「お前は本当に利発で、愛らしい子ですね」

 異母兄の母は優しい人で、郎女たちを可愛がってくれた。穏やかで賢く、なおかつ父の面影を濃く継いだという稚彦は、目に入れても痛くないほど。弟も弟で、養母や教師の期待に応えなければと、勉学の成果を称賛されるたびに勉学に励むから、一層可愛がられる。

「だから浜辺郎女。あなたは、稚彦を見習わなければなりませんよ」

 一方、この時から浜辺郎女――浜近くの里からやってきた娘と呼ばれ始めた郎女は、里に居た時分と同じく小鹿のごとく跳ねまわっていた。それだけでなく、お転婆が過ぎて下働きの子と取っ組み合いの喧嘩をしては、養母から直々にお叱りを受けていたのである。とはいえそのお叱りも、里の女たちの拳骨が伴うそれとは全く違う、やんわりとしたものだったから、甲斐はあまりなかったのだが。

「ですが、それもまたあなたの魅力なのでしょう。あなたの勝気な性分は、わたくしの亡き背の君から受け継いだものなのやもしれませぬ。あの方は本当に闊達な、雲や風のような御方でした」

 養母は郎女をたしなめ終えると、必ずくすりと微笑んだのである。

 郎女は、容貌こそはどちらかと言えば母に似ている。しかし気質の方は母とはまるで違っていた。養母の指摘通り、この気質は父から譲られたものであろう。

 紅紫の花が咲く浜辺で、自分や子を置いて都に帰った父を待ち続けた母。郎女には、母のようなおとなしい生き方は決してできまい。郎女ならば、どんな労苦が待っていたとしても恋しい人に付いて行った。世の多くの妻と同じく夫の訪いを待つ身に落ち付いたとしても、一人寝の侘しさに耐えきれなくなれば、自分から背の君を訊ねただろう。

 都に来てから三つの年が過ぎると、浜辺郎女は婚姻を許されるよわいになった。ために、いつ吾の室にも妻問う男が通ってくるだろうかと、日々まろくに膨らんだ胸を高鳴らせていたのである。

 だからこそ、相応に名の行き渡った家柄の、しかも立派な風采の男が忍んで来た夜は、喜んで褥を共にした。しかし郎女は結局、その者にいもの君とは呼ばれずじまいだったのである。

 弟は、郎女が最初の思い人を室に招き入れた翌朝、ひどく哀しい眼をしていた。すると郎女は組み敷かれ突かれている最中も弟を想って上の空になり、その男とは三月も保たなかったのである。郎女は次の男とも、そのまた次の男とも、同じことを繰り返した。

 更に郎女は、気に入ればどんな男でも室に招き入れるので、いつしか浮かれ女の異名を頂戴することとなっていた。が、それはそれで構わなかった。

 世の多くの妻は、生まれ育った家で、子を育てながら夫を待つ。しかし己が暮らすこの屋敷は異母兄の母の一族のものであるので、郎女や弟がこの先一生留まる訳にはゆくまい。ならばこそ郎女は、弟は官人として身を立てさせたいものだと考えていたのである。

 郎女は地位も財産もある男の身も心も捕らえて、自分のみならず弟の立身の世話をもさせんと企んでいるのだ。男の涙の河の一つや二つ作らずに、美しい女を数多知る貴人をどうして蕩かせようか。

 いつか、弟も気に入る男が現れたら、その者に落ち付いてもよいだろう。だがそれまでは、この自由で気ままな暮らしを楽しむのだ。

 亡き母とよく似た白く柔らかな、熟れ切った膚に、茱萸の唇。潮風から離れ艶やかになった射干玉ぬばだまの髪の、匂うがごとき十六の嬢子となった郎女は、ますます奔放になっていった。同時に弟の稚彦は、若木のごときしなやかな肢体に涼しい目をした、物静かな少年に。

 亡き父から受け継いだ端整な造作に、母譲りの繊細さが影を落とす風貌の稚彦は美少年の誉れ高く、郎女は枕辺でいつも弟を自慢した。そしてそれがまた、一度は契った男の足を郎女から遠ざけさせていたのである。いくら弟とはいえ、閨で他の男の話ばかりされていては面白くないと。だが、そんなつまらぬ男は、こちらから願い下げだった。郎女の夫には稚彦の世話もしてもらわねばならぬのだから、弟を吾子同然に遇せる男でなければ困る。

 思い人に去られても、涙どころか溜息の一つも零さぬ郎女のつれなさは、いつしか知らぬ者の方が多くなっていた。

 流石の郎女も、我が身には何か大切なもの欠けているのやもと、時には物思いに耽りもする。

「どうした、妹よ。お前はいつも麗しいが、このところ気分の方は麗しからぬ様子だな」

 妻の許から帰って来たばかりだというのに、郎女の室に足を向けた異母兄の口ぶりに、案ずる色はなかった。

「……兄上のような軽薄な方には、わたしの胸の裡は分かりますまい」

「それは、どの口が言う、という返事を期しての物言いかな」

 わざとつんと顔をそらすと、兄の面に広がる笑みは一層深くなっていった。常ならばこのあたりで口でも吸ってやるのだが、今日は生憎その気になれない。

「常のお前ならば今頃、新たな男を招き入れている時分だろうに、一体どうしてそこまで塞いでいる。あの男は、それほど佳い男でもなかったろうに」

 軽くあしらわれた形になった異母兄は、今度こそ整った眉根を寄せて郎女の沈んだ顔を覗き込んだ。

「お前がそれだと、今に稚彦も同じになるぞ。お前たちは、本当に睦まじい姉弟だからな。時折勘ぐってしまうほどだ」

「異母ならいざ知らず、同母のきょうだいが睦み合うのは大罪。いくらわたしでも、そのくらい存じておりましてよ」

「だいたい稚彦は、室に籠ってばかりなのが良くない。あれではいつ気を病むか分からんぞ。俺があれぐらいだった頃なぞ、机に向かっている方が珍しかったものだがな」

「稚彦は兄上と違って、熱心な子なのです」

 脇目もふらず勉学に励む弟を謗られ、郎女はふっくらとした頬を膨らませる。

「とにかくお前も稚彦も、このまま塞いでいては晴れる気分も晴れぬままだ。ここは一つ、稚彦と共に山歩きにでも行って、塞ぎの虫を追い払ってこい」

 しかしその数瞬の後には、弟の室まで駆けていたのだった。

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