10.不穏分子どもの午後
不意に、彼は壁に目を止めた。
それは偶然だったかもしれない。だが、起こりうる偶然は、偶然とは言い難い。
じりじりと、焼け付く様な日射しが降り注ぐ午後。石畳が綺麗に並ぶ白茶けた歩道は、激しく降り注ぐ光をそのまま反射して、目に痛い程まぶしい。
目を細めながら、そんな光に満ちた中、彼の姿は浮き立って見える。淡い灰青色のビルの壁にもたれながら、煙草をくわえる彼の姿は、ひたすら黒かった。
首にかかる程度の髪も、ひどく底の厚く硬そうな靴も、腕をむきだしにした上着も、長いズボンに至るまで、全てが黒かった。
そして対面の壁を、じっとにらむ。
壁には、ポスターが貼られているところだった。何人もが手分けして、大きな壁の一面に。
同じデザインで、同じ文句が、そこには書かれている。
Everybody wants his words.
何枚も、何枚も、その同じ文句だけが通りのその壁の一面に続いていた。遠目で見ると、白い太い線の中に、黒い線が一本引かれたかの様だった。
だがその線が不意に途切れる。彼は目を凝らす。誰かの横顔が、そこにはある。彼はそれを確認するとまた目を細めた。
ふう、と息を吐くと、灰を落とす。どのくらいぼんやりしていたのだろう。半分ほどが、一気に足元に散らばった。
と。
「おーいBP」
聞き覚えのある声に、彼は壁から目を逸らした。まぶしい光に、淡い金色が、きらきらと光る。
「お待たせえ」
両手を頭の上でひらひらとさせながら、相棒は一区画向こうの店から出てきた。そこはまだ新しい宝飾屋だった。オレンジの屋根に白い壁、明るい雰囲気が、新しいながらもこの都市の市民に最近人気があるという。
「待ったあ?」
へらへら、と笑いを顔いっぱいに浮かべながら、相棒は彼の斜め前に立った。その肩から斜めに下げた布の袋が、ぺしゃんこになっている。どうやら首尾は上々らしい。
それでも一応、彼は聞いてみる。
「どうだった? リタ」
「いい感じってトコ。エンジニーヤも機械相手よっか、そっちの方が天職なんじゃねえ? あ、オレにもちょーだい」
相手は彼の吸っていた煙草を見て言う。
彼はポケットから箱を取り出す。ほれ、と渡すとリタリットは中から一本取り、へへ、と笑いながら口にくわえた。
リタリットはん、と口を突き出す。しょーもねえな、と彼は自分の火を相手のものにうつしてやる。ふふん、と相手は笑うと、気持ち良さそうにふう、と煙を吐き出した。
「そーいや、何かオマエ、ずいぶん熱心に前、見てたじゃん。どしたの?」
「ああ…… あれ」
彼はあごで前方の壁を示す。あああれね、とリタリットは納得した様にうなづいた。
「相変わらずビンカンなんだあ」
ふっ、とリタリットはそのまま煙を彼に向かって吐き出した。止せよ、と言いながら彼はぱたぱたとそれを払う。
「すぐ、わかっちゃうんだよな、オマエ」
「しょうもないだろ。判ってしまうんだから」
「ふうん」
何とも言い難い口調で、リタリットはそうあいづちを打った。こういう時には、相棒は不機嫌なのだ。不機嫌だ、ということを自分に対して示している。
「それにしても、実に大変な作業だねえ。こうゆうのも、我らが血税の結果になっちゃうんだ」
税金なんか払っていたかな、とBPは内心突っ込みを入れる。何せ戸籍が無いのだ。法によって守られない存在なのだ。税金を払う義務は何処にあるのだろう。いやそれ以前に、彼らは未だ、逃亡者なのだ。
「あ、作業終わったらしいねー」
くくく、とリタリットは言いながら、煙草を足元に落とし、サンダルの底でぎ、とつぶす。そしてSTOPとシグナルが出ている道のほうへと向かうと、ゼブラゾーンすれすれに立った。BPはその背を慌てて追う。GOのシグナルが出ると同時に、リタリットは早足で車道を渡った。
間近に見ると、白の太線と黒の細線は急に意味を持つ。一つ一つの「Everybody wants his words.」はその流れる様な字体にも関わらず、一つ一つがびしびしと目に突き刺さってくるかの様だった。それがゼブラゾーンの正面から、右から左へと、ずらりと続いていく。
実際近づくとその紙も文字も、ひどく大きかった。一枚二枚さんまい……
彼は思わず数えていた。いち「Everybody」に「Everybody」……
じゅうに「Everybody」まで来た時に、その文句がいきなり途切れた。そして、そこには、ひどく最近見慣れた顔が、横を向いていた。
左向きの横顔は、ひどく端正なものだった。その端正な顔の真ん中より少し上にある目は、そのまままっすぐ向こう側を見つめている様に見えた。耳のあたりで切られた焦げ茶色の髪は、すっきりとして、その人物の潔さを語っているかの様だった。13枚目。その一枚だけが。
ちゃり、と不意に音がしたので、BPはその音のする方を向く。相棒は手をポケットに突っ込んでいた。そしてやや上目づかいで、その13枚目のポスターを見る。笑っていない、その目。
すっ、とそのポケットから手が出された。そして、次の瞬間、しゃっ、と耳障りな音が長く伸ばされた。
指の合間が、きらりと光った。
「いこーぜ」
そう言って、リタリットはBPの手を掴んで走り出した。彼は突然の行動に戸惑いながら、ふと後ろを振り返る。びらり、と壁からそのポスターの1枚が斜めに垂れ下がっていた。ちょうど、それは写っていた人物の顔を、斜めに引き裂いているはずだった。
現在のこのレーゲンボーゲン星系を手にしている、「総統」ヘラ・ヒドゥンの顔を。
三年前。政治犯であるらしい彼らは、収容されていた「冬の惑星」ライから脱走した。
政治犯である「らしい」。
そうは言われている。彼らの持つ「知識」は彼ら自身にもそう告げている。だが「自分」が果たして「政治犯」であるのかどうか、は彼ら自身にも判らないことだった。何せ彼らの記憶は、投獄される以前のパーソナルな部分が抹消されているのだから。
ただ、抹消といったところで、それは完全に「消す」ことを意味しているのではない。人間の記憶はそう簡単に、電子的データの様に「消す」ことができるものではない。要は、パーソナルな部分の経路を人為的に混乱させられているのである。
だがその処置を受けた当の本人達にしてみれば、「消された」という感覚が一番近かった。日々を送る上の「知識」は存在する。だが自分自身に関する「記憶」だけが、すっぽりと自分の頭の中から抜け落ちているのだ。
ただし、その中でも、自分の中で強い記憶は、断片的に残っているということはあった。それは皆それぞれに形が違っていたし、また、それは必ずしも「良い」ものではないことも事実である。
さてそんな脱走者は、故郷たるアルクにたどりついたのち、一度解散した。彼らはそれぞれに当座の生活に役に立つ程度の宝石をライで手にしていたので、そこから自分の道を歩む者も居た。
だが結局、かなりの人数が再びその場に集結したのだ。政治犯「らし」かった彼らは、今度は政治犯に「なる」ために。
「けっこういい値で売れたよ。ふんとにさあ、エンジニーヤ、あんた技師なんか辞めちって、宝飾デザイナーにでもなったらどぉ?」
リタリットは椅子の上に反対向きに座りながら、床の上で胡座を組む盟友の一人にそう言葉を投げる。
「リタリット、お前確かこないだ、愛用の自転車の調子が悪いって言ってなかったか?」
さらりとそう言って、「技師」と呼ばれる男は返した。リタリットは黙って肩をすくめた。
「リタの冗談はさておいて」
食卓の上で、リタリットが持ってきた布の袋から「代金」を広げたビッグアイズは金券の枚数を数える。
「実際いい金にはなるな。原石のままより、多少加工したほうがいいかもな」
「おいおいそれでまた俺かい?」
エンジニーヤは参った、という表情で手を広げた。食卓の別の椅子で聞いていたヘッドは頬杖をつきながら、にやりと笑う。
「まあまあ、それはそれとして、だ。方法としては悪いもんじゃないな、ということだ。資金はあったほうがいいに決まってはいるし、そうでなくても、芸は身を助けるのは確かだ」
「へいへい。それじゃ俺、仕事あるから、事を起こす時には呼んでくれよ」
そしてそれじゃあね、と言い残してエンジニーヤはその部屋から出て行った。その部屋には、四人だけが残される。すなわち、ヘッド、ビッグアイズ、BP、リタリットの四人だった。
脱走者達が一度に一所で動くというのが危険であることは、彼らもよく知っていた。彼らはとりあえず、各地に飛び、偽名を名乗り、そこで表向きの仕事をしながら、時期を待っていた。
また一方、その飛んだ各地に存在する地下活動家との連絡を取っている者も少なくはない。確かに一応ヘッドは全体のまとめ役であり、連絡役ではあったが、司令塔という訳ではない。飛んだ各地での役割は、それぞれの手にゆだねられた。
そして、一所に留まっているというものでも、ない。
「……で、ヘッド、今回俺達を呼び出したのは、何で?」
床の上で腕立て伏せをしていたBPは、ぴょん、と足のバネを使って立ち上がると、二日前に50㎞離れた街にいた自分と相棒を呼び出した訳を問いかけた。
久しぶりに会った仲間の部屋は、相変わらず殺風景だった。もっとも自分達のところにしたところで、大して変わりはない。そう広くもない、新しくもない鉄筋コンクリートのアパートメントは、カーテンはあったがカーペットは無く、向きだしの木の床に、置き付けの食卓以外家具と言った家具の無いところだった。
「まあ生活なんてあって無きがごとしだからさあ」
と言ったのはリタリットだった。
確かにな、とBPもうなづいた。どんな場所であったとしても、活動が当局に感づかれた瞬間、そこを捨てて逃げなくてはならない。そんな生活に、家具は必要ない。必要なのは、ただ雨風をしのげる寝床。それだけだった。
「ああ」
ヘッドは立ったまま答えを待つBPに向かい顔を上げる。
「……こないだ、ここから少し東の地区の境に居る奴から連絡が来たんだが、どうもその地区担当の奴……ま、マーチ・ラビットとキディなんだが」
「あれ、奴らこんな近くに居たの?」
リタリットは素っ頓狂な声を上げた。
「ああ」
「だって奴ら、最初にあそこで別れた時には、確かイヴェーゲンの」
リタリットは東の辺境の地名を上げた。するとビッグアイズは人差し指を立てて振った。
「いや、そこからまず奴ら、ハルホンに流れたらしい」
「げ」
「まだ続く。コルセウ、クダ、コルサゼル、アダマン……」
「おいおいおいおいおい」
ビッグアイズはその大きな目を呆れた様に半分伏せながらも、それでも間違えずに地名を並べ立てた。
「……でミケガンで、今居るハルゲウだって言うんだが」
「何かそれって、すげえあちこちでヤバくなってるってことじゃねえか?」
「何を今更」
ヘッドはあっさりと言った。その手にはここに来る途中にBPが買ってきた新聞がある。
そういえば、と黙って聞いていたBPは思う。何を考えてか、あの三月兎は、子猫を連れて行ったのだ。別段彼らは一緒に眠っている仲ではなかった。何よりも房が違った。ただ、あの蜂起の時に顔をちゃんと合わせたのだとは聞いたことがあった。それから行動が自由になってから、どんないきさつがあったのか知らないが、何となく気が合ったのだろう。
一度集結した彼らが、別れて行動を取る時に、一人で行く場合もあったが、誰かとコンビを組んで行く者も多かった。結局BP自身、相棒とその例にならっているのである。
理由は色々ある。ひと所の活動にしても、誰かと共に行動したほうが効率がいい、という場合もある。無論それはコンビを組んだ人間の特性でもあるから、一概には言えない。むしろ理由は、メンタルな面にあった。
要は、一人だと淋しいのだ。そういう者が、何かれと理由をつけて、気に入った仲間とコンビを組む。それはまだ当時少年ぽさが抜けなかったキディであっても、如何にも偉丈夫なマーチ・ラビットにしても同じだったのだろう。
「それで、あのでかウサギ、何言ってきたのさ」
椅子の背に立てた手で、リタリットはむぎゅ、と両頬をはさむ。
「向こうの反政府組織とコンタクトを取ったんだと」
新聞から目を離さずに、ヘッドは答えた。それだけは説明が足りない、と思ったのだろうか、ビッグアイズは続けた。
「それがさ、今までコンタクトをとってきた組織と比べて、ずいぶん組織的で、大規模なものらしい。何らかのバックがついているらしくて、資金もふんだんにあるらしい」
「へえ」
リタリットは思わず口笛を吹いた。
「金持ちなんだ。それはイイ」
「ただそれが何処であるのかがいまいちはっきりしないのが、俺としては気にかかるんだが……」
ぱさ、とヘッドは新聞を置く。
「ずいぶんと出来上がってきたようだな」
写真には、作りかけの首府の新スタジアムが写っていた。BPはそれを見て、口をはさむ。
「首府改造計画か?」
「ああ。このせいで、地方の労働者が結構今、首府に集中していると言ってもいい」
「スタジアムやら駅やら…… ま、確かに駅なんか手狭になってたらしいしな」
「ふうん?」
ヘッドは眉を片方上げる。それに気付いたのか気付かないのか、BPは続けた。
「混乱を起こすにはいい状況だな」
「そう思うか? BP」
「敵になる味方になるは関係なく、人間がいつも以上にあふれている状況ってのは、混乱を引き出しやすいと俺は思う」
「なるほどね」
意味深にヘッドは笑う。
BPは自分が軍の人間であったことは、この三年の間に完全に確信していた。ただどの部署であったのか、何を担当していたのか、は未だによく判っていなかった。銃が手にしっくり来るあたり、実戦担当であっただろうことは確かなのだが。
それだけでも自分の中ではっきりしているだけ、相棒よりはましなのだろう、と彼は思うのだ。
相棒の「文学者」は、未だに自分が何なのかさっぱり判らないらしい。その身のこなしからして、都市ゲリラだったのではないか、とは思われる。
だが手にした少しの鋭意なもので人一人殺せる程の手練れでありながら、血を見ると吐き気がするという矛盾を抱えていた。そして未だに、地下鉄に乗れない。正直、BPがこの相棒にくっついているのは、そういったリタリットの壊れた部分が気に掛かっていることもある。
しかし、BP自身も、この三年で、自分の中に訳の判らない部分があるのを発見していたのだ。
「で、会うの?」
リタリットはヘッドに向かって首を傾げる。
「ああ、そのつもりだ。あいつらが俺達に勧めてくるくらいだから、とにかく今までに会ってきた何処よりもでかい組織であることは確かだろうな。内容はともかく。取り込まれるというのは好かないが、手を組むという方向に持っていくのはそう悪くはないと思う」
「ふうん…… まあ、念願叶った暁に消される、って組織じゃなけりゃ、オレは別にイイけど」
リタリットはそう言って唇を尖らせる。
「BPお前は?」
「俺は…… 会わなくては判らないだろう?」
確かにな、とヘッドはうなづいた。
*
そんな予感はしてはいた。
床に敷かれた毛布の中に潜り込んで数分、疲れた身体に睡魔が襲いかかってきたところで、背中から腕が回る気配がした。BPはそのままくるりと身体の向きを変えられるのを感じる。
昼間からそんな予感はしていたのだ。あの路上で、相棒がポスターの13枚目を切り裂いた時から。
相棒のポケットには、加工したばかりの水晶のペンダントが入っていた。あの惑星から脱出した時の「分け前」の一つだった。他のものは全て「要らない」と供出したリタリットだが、この一つだけは、ずっとそのポケットの中にあった。そしてつい最近、エンジニーヤがそれだけでは売れないようなくず宝石をアクセサリに加工する時に、ついでにと作ってもらったものだった。どうやらそれをつけようかつけまいか迷っている最中だったらしい。
その僅かに尖った部分でもって、一気にこの男は、あの貼られたばかりの、まだ糊もついているだろうポスターを、斜めに切り裂いた。
理由を聞くと、リタリットは答えた。
「だってオマエ、ずいぶんと熱心にあのポスター見てたじゃん」
腹立つじゃんオレとしてはさ、と相棒は続けた。BPはその言葉の意味が分からない訳ではないが、とりあえず言ってみる。
「そりゃあ、今現在の俺達の打倒する対象なんだから」
「そぉじゃなくてさ」
歩きながら、相棒は掴んで走った手首をぐっと引き寄せた。
「オマエもしかしてさあ、コイツ、知ってんじゃないの?」
やや上目遣いの瞳が、凶暴な色に変わっていた。
そしてその結果が出るのだろうな、とは彼も予想していた。それが泊まりに来た他人の部屋であっても構わないらしい。
眠いことは眠いのだが、別段拒む程の理由も無かったので、彼は相棒の髪をくしゃ、と一度かき回す。そして眠っている家主が目を覚まさない様に、彼は声をかみ殺す。
この三年の間に、知ったことは色々あった。
そんな、嫌いな血を見て吐き気を覚える様な夜、相棒が自分を抱きしめる力が強くなること。相棒は地下鉄にも降りられない。足がすくむのだという。眩暈がするのだという。吐き気がするのだという。
そして眠っている時に、やっぱりうなされる時もある。あの冬の惑星で、凍えて縮まっていた本能がアルクの暖かい大気で解放されると同時に、押さえ込んでいた強い感情をも引きずり出されたらしい。
そして自分は。
はあ、と彼は息をつく。
暗い部屋の中でも、判る。一度重ねた唇が離れた時、相手の目が、じっとそのまま自分を見据えていることを。そして自分はそれに捕まって、逃れられなくなっていることを。
背中から抱きしめられて揺さぶられる時に、耳元に、あの大気を震わせる様な声が、注ぎこまれるのが判る。
「オマエはさあ、オレのなんだよ?」
繰り返される。呪文の様に。もしくは、戒厳令下で交わされる情報文の様に。だからあのポスターの中の顔を、気にするな。そんな裏の意味を込めて。
そんなことを言われたって。彼は溶けそうな意識の中で、内心つぶやく。俺すら判らないものを、俺にどうしろって言うんだよ。
今でも、自分の唯一の記憶は、夢に出てくる。しかも、それは日々鮮明になってくる。
長いゆらゆらとした栗色の髪、華奢な身体。泣きながら、じっと自分を見据え、……抱きついて、くる。そしてその身体に付けられているのは、……軍服。だけど、何か、奇妙な。
だがその何か、が見つからない。
ところが見つからないまま、ある日偶然見た映像は、彼の呼吸を一瞬止めるに充分だった。あれは、中央放送局の、政見放送だった。
脈絡は何処にもない。
なのに、自分の中の、あの記憶の中の顔が、最近は、あの顔とだぶる。ずっと、ずっと空白だったその顔に。
髪の長さも、その質も違うというのに。
そして相棒がそれに気付くのには、時間は大して掛からなかった。
彼は自分の中で膨れ上がるものを感じ、喉の奥から微かに声をもらした。
*
「あれ?」
相棒は不意に声を上げた。そして横に立っていた彼を肘でつつく。何、とBPは相棒の指す方向を見る。彼は思わず両眉を上げた。
「ジオ?」
都市間列車はゆっくりと止まる。そのさほど待ち人の多くない小さな駅の、改札を抜けた向こう側に、彼らは知った顔を見つけた。それは、居るはずの無い顔だった。
彼らは慌てて改札を飛び出す。穏やかな顔の、この研究者は、偉丈夫とまだ少年くささが残る青年の間に挟まれて、ひらひらと手を振った。
「……ジオ……」
「やあ久しぶり、二人とも。ヘッドとビッグアイズは?」
「二人とも後で来る……それよりあんた、何でここに居るんだ?」
BPは答えと質問を同時に放る。
「やだなあ。帰ってきたに決まってるだろう?」
「って…… けどあんた」
聞きたいことはあった。何せ、ここに居る筈のない男なのだ。この目の前でにこやかに笑う地質学者は。
「ま、それもおいおい話すよ。ちょっと一口では言い切れないんだ」
そうだろう、とBPは思う。そうでなくては、いけない。何故なら、この男はあの時、あの惑星に残ったのだから。
「や、それにしてもお久しぶりですう」
眠そうな猫の様な顔でキディはBPに向かって笑いかけた。するとマーチ・ラビットはぐい、とその襟を後ろから掴む。ぐび、とキディは喉から音を立てた。
「何だよお前、ずいぶんと違う態度じゃねえか」
「あんたに今更何言えっていうんだよ」
そう言ってキディは斜め後ろの相棒にひじ鉄を食らわせた。ひえい、と思わずリタリットは指をくわえる。
「お前強くなったのね……」
ふんっ、とキディは両手でポーズを取った。
*
もう一組の待ち人が到着するのは一時間程後の予定だった。
リタリットはキディと一緒に、広場に溜まる鳩をからかい、BPは煉瓦でできた花壇に座って煙草をふかしていた。偉丈夫は何やら小腹が減ったらしく、近くのサンドイッチ屋へと入っていった。
「それで、どうやってあんた、帰ってきたんだ?」
ふう、と煙を吐き出しながらBPは訊ねた。隣に座っていたジオに一本勧めると、吸わないんだ、と手を振った。
「まあ、帰ってくる気は無かったんだけどね……」
「あん時は皆びっくりしたんだぜ?」
「そりゃあそうだろうね。誰だって帰りたいだろうから」
「でもあんたは違ったじゃないか」
「僕にとっては、あそこは宝の山だったから」
それは確かにそうだったろう。ジオは当時からそこで働くこと自体が好きだった。あの頃の強制労働ですら、この男には楽しみでしかなかったのだ。
「三年。でも三年は大きかったよ。おかげで僕は色んなことを知った」
ばさばさばさ、と鳩がキディの持つポップコーンを狙って大挙する。それを見てリタリットは何やってんでえ、とげらげらげらと笑う。
「例えば?」
「うん、……何って言えばいいんだろう……」
「長くなるのか?」
「かなりね。ここでちょっと人待ちで話すには」
「ふうん」
BPは再び煙を吐き出す。
「じゃあ、どうやって帰ってこれたか、だけでいいんだけど」
「ああ……ちょっとばかり、帰還組に混じってね」
「帰還組。って言うと、もしかして軍の……」
彼は新聞の文化欄に載っていた記事を思い返す。
「そ。僕はずっと、あの調理人達の間に混じっていたんだけど」
「ああ、元気だったかい? あの料理長は」
彼は赤ら顔の料理人を思い出す。思えばあの男のおかげで、皆何とか健康なまま、あの冬の惑星を生きてこられたのだ。
「ま、さすがに彼らも三年の期間延長には参ったらしいけどね……でもその三年で、あの収容所を閉鎖するって、やってきた科学技術庁の特派団が言ったから、しょうもないな、とか言いながら、任務を全うしていたけど」
おそらくは、その三年自体が、むざむざと囚人達を逃してしまった彼らへの失態の処罰なのだろう、とBPは思う。
「平穏な生活に戻っていて欲しいよな。ラルゲン料理長は」
「全くだ」
ジオはうなづく。
「ところでジオ」
「何だ?」
「向こうで、あんたは囚人だったってこと隠してたんだろ? 今度の科学技術庁長官に抜擢されたって奴とは、話したことあるのか?」
「ノーヴィ・ケンネルのことかい?」
ああ、とBPはうなづいた。現在の政府は、首府改造計画の様な物理的な部分を大きく変えているだけではない。政府内の組織もかなり変えてしまったのである。
「あれは滅茶苦茶な人選だ、と皆言ってたよ」
「ああ………… でも僕としては、別に構わないとは思うけど」
「構わない構わなくない、じゃなくてさ」
「そりゃまあ、BPの言うことはよく分かるよ。だから何の実績もさっぱり分からないぽっと出がいきなり長官、ってことだろ?」
「そう」
「でもそれを言ったら、今をときめく総統閣下だってそうだろう? 大きな声では言えないけど」
「……まあな」
BPはその人物のことを話題に出されると緊張する自分に気付いていた。気にしすぎだ、とは分かってはいる。だが。
「そもそも総統なんて地位が、今までのこのレーゲンボーゲンにあったか、って言えばそれも無いだろう? 首相の代行、で、首相にはならない代わりに、そんな地位を作ってついてしまった。僕はね、BP、向こうで会った軍の科学技術庁関係の連中と話をするたびに、向こうの連中が首をひねっていたのを知ってる」
「そういえば、放送が入ってきてたんだよな」
「一応料理人の中に紛れていたから、食堂の放送は僕も目にしたしね。向こうの機材を使ってもみたかったから、『すいませんお手伝いさせて下さい~』ってちょっと愛嬌なんかもふりまいてね」
似合わねえ、と思わずBPは頭を抱えた。
「……そんなこと言ってもしょうもないだろう? 僕はそういう時には何でもやるからね。……まあそれはともかく、おかげで、向こうの連中の研究という奴にも結構参加できたし……」
「本当にあんたはそういう点では見境無いなあ……」
「お誉めにあずかってどーも」
誉めている訳ではないのだが、とBPは苦笑する。
「目的があるんだから、そのためだったら何でもできるさ。僕はそもそもがどうもノンポリらしいし。……ああ、そう言えば君は、BP、何か記憶の断片でも増えた?」
「増えたと言えば増えたかもしれないけど……謎も増えたというべきかな。あんたはどうなんだ?」
「僕は別に。もともと皆の様に残っているものも無かったから、思い出そうという気も起きない。しいて言うなら、僕に残っていたのは、研究への熱意、って奴だろうし…… だとしたら、僕は…… ねえ?」
全くだ、とBPは再び苦笑する。
「僕はかなり、幸せな部類だろうな」
そう言ってジオは子供の様に鳩と遊び続ける二人に視線を移す。肩にふんをされて馬鹿ヤロ焼き鳥にしてやる、と怒鳴るリタリットをキディがばぁか、とげらげらと笑い飛ばしていた。
「ドクトルKから前に聞いたことがあるけど、キディの唯一の記憶って、親、らしいよ」
「親?」
「どうも断片的な部分をつなげると、彼、親に通報されたらしい。……て言うか、親に殺されかかって逃げたとこを、通報された、って感じなのかな。つなぐとそんな感じらしい」
「つなぐと、か……」
BPは眉を寄せた。
「君の相棒も、そういう意味ではひどい部類じゃなかったっけ?」
「ドクトルは奴にも聞いたのか?」
「彼が来たばかりの時、ひどい躁鬱が激しかったから、話を聞いたことがあるらしい。でも君が来てからずいぶん良くなったって言うんだけどね」
「俺は何もしてないぞ?」
「だろうね。でもねBP、居るだけで何か気が楽になる、って相手ってあるじゃない?」
「……」
「おそらく彼には、君がそうなんだろうね」
その割には、することがとんでもない様な気がするのだが、とBPは内心つぶやく。そこから先は、プライヴェイトだ。
彼自身は、格別何かに対して欲望を感じたことが無い。少なくとも、相棒が自分に対している様には、何かを特別欲しいと思ったことが無い。それが元々の性質なのかもしれない。
だからこそ、何故自分があの「誰か」に固執しているのか、よく分からないのだ。
あれが自分の「好きな誰か」だとしたら、何かつじつまも合わなくもないが、だとしたら、何故あの「総統閣下」とそれがだぶるのだろう。
「……ジオ」
「何」
「もし自分の過去が、認めたくない様なものだったら、どうする?」
「認めたくないもの?」
「例えば俺は軍関係だったらしい、だろ?」
「……ああ、そういうことね。でも、僕らは君が向こうでどうだったか知っているじゃない。君が何であったとして」
「そうかなあ?」
「そうだよ。あそこで生きてきた仲間は、それしかない分、そこに居た記憶が全てだから、君がどんな者であったとしても、今そこに居る君が君だと認めると思うよ。僕だってそうだし」
「そうだな。そうあってほしい」
「気弱だな、BP」
くす、とジオは笑った。
鳩が一斉に舞い上がる。列車の到着のベルが鳴ったのだ。
*
こっちだ、と夕刻になってから、マーチ・ラビットとキディは、五人をその街の真ん中にある一軒の店へと連れて行った。
そこはごくごく当たり前な居酒屋に見えた。少なくとも、BPの目にはそう見えた。
白く塗られた壁の上に、見せるかの様に木の梁や柱が顔を見せている。黄色みがかった照明の下では、丸い焼き板のテーブルがあちこちに並び、そこで仕事帰りのブルーカラー達が、一日の疲れをいやしている様な所だった。
「この街には、地上車の生産工場があってな、そこの従業員が結構溜まってたりするんだ」
マーチ・ラビットは普通の声で説明をする。もっとも「普通の大きさの声」はこの喧噪の中では、小声に過ぎない。実際、辺りを見渡すと、同じ様なくすんだ水色のツナギを着て、腕まくりをしている様な男が多い。時々女も居るが、やはり同じ様な格好だった。
「ご注文は?」
とその中では花が咲くような可愛らしい少女ウェイトレスが銀色の丸いトレイを持って訊ねる。キミがいいなあ、などという相棒をBPは丁重に真上から頭をはたく。いてぇーっ!!と相棒がわめいたのは言うまでもない。
「えーと。ビールをとりあえず」
「はい。皆さんジョッキでよろしいんですね?」
マーチ・ラビットはにやり、と笑う。
「ああ。それにタンクもつけてくれないかい?」
途端に、可愛らしい少女ウェイトレスの顔がこわばった。
「少々お待ち下さいませ」
ひらり、と白いエプロンを翻して、彼女は厨房の中へと入っていく。
「かーわいいねえ」
「何を言ってる、何を……」
「あ、妬いてるのー?」
そしてうりうり、とリタリットは相棒の肩を肘でこづく。しかしそうは言いながらも、その目は笑っていない。
「可愛いけど、何か手がね」
「やっぱり思ったか?」
ビッグアイズは更に目を大きく広げる。
「ああいう風にタコができるかねえ? 普通のおじょーちゃんは」
にやにや、とそう言いながらリタリットは少女の入って行った厨房を眺める。やがて少女と入れ替わりに、一人の男が中から出てきた。BPはそれを見た途端、ぞく、と背筋に寒気を感じた。何てえ迫力だ。
見たところ、小柄な一人のウェイター、という印象なのだ。白いシャツに蝶ネクタイを締め、黒いギャルソンのエプロンを付けている。腰も低い。既に中年を越しているだろうか。頭の半分が白い。
そんな男が、ゆったりとした口調で偉丈夫に問いかける。
「タンクを御所望で、お客様」
「そう。できれば氷もつけて。水晶の様に綺麗な」
すると男は、口元に微笑を浮かべ、右の腕をふわりと上げた。
「……かしこまりました。それはちょっとここでは出せませんので、奥へどうぞ」
誘われるままに進んだ奥の部屋には、会議がそこで行われるのではないか、と思われる様な大きなテーブルが置かれていた。
どうぞお座り下さい、と男はいつの間にか二人の男を従えてそのテーブルについていた。椅子の数は、八つ。初めからここにやってくる人数を知っていたかの様に、それは配置されていた。
「ようこそいらっしゃいました、お客様がた。この辺りの反政府組織の仲介役をやっております、ウトホフトと申します」
「我々は……」
「よう存じております。皆様がたが脱出した折りの出来事に関しては、我々の中でもずいぶんと話題となりましたことです」
思わず彼らはその言葉に肩を引く。どうもこちらの方が分が悪いのだ、とBPは反射的に思う。
「然るに、皆様がたのこちらに対するご要望というものも、ある程度は推測が立ちます」
「……それでは、協力体制を取ってくれると?」
「それはこちらも同じでございましょう。皆様がたの中には、非常に様々なご経験をお持ちの方も多いはず。そちらが我々にご協力を進んでしていただければ、その分こちらからも、それ相応の援助をさせていただこうと思う次第」
「目的が同じであるなら、それなりの協力はしましょう」
ヘッドは奇妙なほどの威圧感のあるこのウトホフトと名乗る男に対し、平然と答える。BPはそういうところが、この自分達のリーダーは貴重だ、と思うのだ。何なのだろう、この悠然たる態度は。
「しかし、我々はあくまで、独立した個人がただ集まっただけ、という集団に過ぎませんから、結局は参加する個人の意志が問題となりますが」
「個人の意志、とおっしゃる」
男はふっと笑う。
「まあそれも宜しいでしょうな。まあ少なくとも、悲願叶った暁に、不要になったから消してしまおう、などとは我々は思いませんが」
そしてちら、とリタリットの方を見る。リタリットは口を露骨に歪めた。
「個人個人の参加を呼びかけていただければ、我々は皆様がたを我々の連絡網で結ばれた各地の組織で歓迎致しましょう。……しかし」
「しかし?」
ヘッドは即座に問い返す。
「そこの、あなた」
BPははっとして顔を上げた。声が、自分の方を向いている。声だけではない。ウトホフトの視線が、自分の方を向いているのだ。
「あなたは、いけない」
「何だって?」
キディが思わず立ち上がってきた。
「このひとは、ウチでも指折りの闘士なんだぜえ!」
闘士と言われては気恥ずかしいものがあるが。しかし確かに彼がこの脱走集団の中では、指折りの使い手であることは事実だった。
「それは判る。それは我々もよおく判っているのです」
「だったら何故」
マーチ・ラビットも口をはさむ。元々この男は最初にBPと対戦している。入所したばかりのぼうっとした頭のままなのに、よりによって自分を負かした相手が、この様に言われることにはひどく不満の様だった。
「そこの方。あなたが非常に強いことはよおく我々は判っているのです。しかし、それだけでは、あなたという人物に関しては、我々はなかなか難しいものがあるのです」
「だから何だって言うんだよ!」
ばん、とリタリットはテーブルを叩いて立ち上がった。よせ、とBPはその服の裾を引っ張る。
「ウトホフトさん」
そして顔を上げ、彼は問いかけた。
「俺はそんなに強烈に反骨精神を持っているという訳ではないが、仲間と一緒に戦っていきたい、という気持ちはある…… だから、聞きたい。何故俺は、まずいんだ?」
「言わない方がいいこともありますが」
「それは、俺が誰か、ということを、あんた達は知っているということなのか?」
「はい」
あっさりと、ウトホフトはうなづいた。
「しかしそれを知ってあなたはどうなりましょう? 知りたいのですか?」
「知りたい」
「知らないほうがいいこともあるのですよ?」
男は、そのまま右斜め後ろに立つ若者に合図をした。すると同じ様にギャルソンのエプロンを掛けていた若者は、それをまずするりと取り、また、その下のシャツをも取り去った。
あ、とキディは声を立てる。ち、とビッグアイズは舌打ちをした。そこには、肩から斜めに走る大きな傷跡があった。
「彼は、七年前に、ウシュバニールの反乱軍で少年兵として、参加していました」
ウシュバニールは、西の辺境だ、と彼の知識は告げる。一年のうち、雨の降る日がひどく少ない、乾いた土地。
「彼は当時、ある程度まで、自軍が勝利する可能性があった、と信じていました。実際その可能性はありました…… 二人の男が、彼らの目前の敵である、辺境武装地帯の警備隊の中に配属された時まで」
「……」
BPはひどくその言葉の調子の中に、嫌なものを感じていた。悪意ではない。悪意ではないのだが。
「はっきり言って、彼らの軍は、その配属されたばかりの二人に壊滅させられた、と言っても良かったそうです。彼もまた、ひどい手傷を負いましたが、運良く近くの民家に保護されたらしいです」
そう言って、ウトホフトは、若者にもういい、と服を元に戻させた。
「それが、我々の仲間と何の関係があるのですか」
ヘッドはあくまで冷静に、問いかけた。それは答えの判っている問いだった。彼自身、次に来る言葉を、簡単に予想ができた。
「つまり、我々の仲間、BPは、その一人だ、と言われるのですね?」
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