第2話 紅緋色の名前
凍えるような寒さで目を覚ました。
空から優しい雪が降り注いでいる。
まだ夜中だ。
星がはっきりと見える。
月も普段より遥かに大きく見える。
僕は寝ころんだままの状態から上半身を起こし、周りを見る。
木々が沢山あり、林の中のようだ。
動悸が早くなる。
僕は林の中にいたか。
慌てて立ち上がり、後ろを振り向くと、朱色の鳥居がある。
少し安心して、鳥居を潜ると、息を飲んだ。
暗闇の向こうで青い光が動いている。
その青い光の中を巫女のような服を着た少女が舞っている。
いや、その少女の動きに合わせて青い光が動いている。
雪の降る夜で、その青い光に包まれた少女は遠くにいる。
どんな顔なのか、何を持っているのかも見えない。
が、その動きはとても美しく、人はこんなに滑らかに身体を動かせるのかと感じていた。
寒さも忘れ、その少女を見取れていた。
ザバーーンという大きな音、津波のような音が鳴り響いて我に返った。
少女が動きを止めたかと思うと、少女を包んでいた青白い光が大きく広がった。
少女の正面には海が広がり、5メートルはあるであろう巨大なアザラシ1頭と対峙している。
アザラシには鋭く長いキバのようなものがついている。
アザラシではなく、アシカかトドかもしれない。
いや、セイウチか。
キバがついているからセイウチだ。
熊好きな僕は、その好物をかつて調べたことがある。
その時に、アザラシ類が出て来たので少しはわかる。
だが、5メートルの大きさは、でかすぎるのではないかと思う。
その少女と1匹の右には、何かに群がっている2メートルほどのアザラシの群れがいる。
状況に目をやり、少女を凝視する。
両手にはナイフのような刃物を持っている。
長い髪を一つにまとめている。
なぜ遠めから顔も見えないのに、少女と思ったのかわからない。
それに耳が頭の横ではなく、頭の上についているように見える。
危険だとわかりつつも、それを確かめるべく音を立てないように近づく。
10メートルほど距離をとって木の後ろに身を屈める。
そして寒い。
日本の冬はこんなに寒かったか。
カナダで氷点下を下回っている中、外出した時のように寒い。
巨大なセイウチが、唸る。
するとセイウチの口から、氷のツララが無数に少女に向かって飛んで行った。
本当に口から出たのか。
夜とはいえ、少女から青白い光が出ていて見える。
見えるからこそ、目の前の光景が信じられない。
少女は踊るように両手の刃物で、無数に放たれる固形物を目にもとまらぬ速さで全て弾く。
10秒ほどずっと弾き続けている。
少女はその間に、ぶつぶつと何かを唱えているように聞こえたが、セイウチから発せられるゴォーーという音と、ツララを弾く音にかき消されて定かではない。
ギャゥウウーという叫び声がするや否や。
空中から発生したトゲのような巨大な複数のツララにセイウチは身体のあちこちを複数の角度から貫かれた。
ツララで固定され倒れこむことはなかったが、セイウチはぐったりとしていて、遠目からでも死んだのがわかる。
僕は思わず息を飲む。
屈んでいる僕の背中に何かが触れた。
ゆっくりと後ろを向く。
1メートルほどのセイウチだ。
キバは30センチ定規と同じくらい長い。
少女の戦闘に気を取られていて気が付かなかった。
動悸が早くなる。
キバは見たまま危険極まりないし、口からツララを出す生き物がいる。
もはやセイウチと呼ぶより魔物と呼んだ方がいいかもしれない。
僕はゆっくり立ち上がり、刺激しないようにゆっくりと動いた。
少しずつ離れる。
このセイウチは僕についてくる気配がない。
助かったと頭をよぎる。
だが、遅かった。
背中に1匹ではなく、すでに囲まれていた。
敵がい心がないこと祈るだけだ。
ここまで多いと、襲われたらそれで終わりだ。
武器になるようなものは持っていない。
ポケットを確認すると、スマホと財布は入っていた。
スマホの画面を開くと圏外だ。
時間は夜中の2時である。
写真を撮るか。
と危機なのに妙に、余裕がある考えが頭をよぎった。
気が付かなかったが、僕の手が赤い光でほんのりと光っている。
この光のせいで目立っているのかもしれない。
光よ。
消えろ。
念じるが消えない。
スマホをしまって、右手に力を入れる。
消えろ。
すると手の赤い光がますます大きくなった。
しかし腕周りの光はさきほどよりも少し弱くなった気がする。
とにかく、消すことは難しそうだ。
それよりも今は、決めるべきことがある。
どちらに逃げるか。
少女の方は、見るからに海岸で、そちらからセイウチのような魔物が増えてきたと考えるべき。
少女はセイウチを倒せるが、僕を助ける保証がない。
逆に林のほうには道がある。
人がいる方に繋がっているだろうし、セイウチたちの群れから離れられる可能性が高い。
問題は、圏外であり、青い光も赤い光も巨大なセイウチも見たことがない。
ここは日本なのだろうか。
もし、僕が気を失った場所と大きく違うのであれば、人に会えても危険なのではないか。
むしろ、この襲われている状況を青い光の少女に助けてもらう方が、状況が相手に伝わりやすいかもしれない。
だが、夜中に両手にナイフを持っている少女だ。
突然、鈍い音がした。
僕の身体は、吹っ飛んでいた。
何が何だかわからない。
考え事に集中しすぎていて真横からセイウチに突進されたことに気が付かなかったようだ。
僕は木に叩きつけられて止まった。
5メートルくらい吹っ飛んで、痛いだけですんでいる。
これは赤い光のおかげなのか。
考えていても仕方がない。
僕は少女の方に全力で走ることにした。
道を多少塞がれても、力を込めて足に光を集中させ蹴飛ばす。
腹を括る。
やるからには迷いをすて、隙を見せない。
ええい、ままよ!!
正面には1匹のセイウチがいて、その後ろには10匹くらいの群れがいる。
まずはこのセイウチを蹴る。
僕は全力でそのセイウチの横に回り込むよう走った。
走るスピードは、今までと変わらないか、少し早いような気もする。
この1匹に構う必要もないが、蹴ってみて効果があるか確かめる。
後ろの群れとの接触は避けられないからだ。
セイウチの左側面に回り込み、右足に力を込める。
足を一瞬見ると、やはり赤い光がズボンから透けている。
腹を目掛けて、思いっきり蹴る。
蹴る瞬間、痛みはなかった。
セイウチは、キュウという鳴き声を上げて半回転して倒れこんだ。
効果があった。
ダメージはわからないが、怯ませるだけの威力はある。
セイウチのタックルもこちらが吹っ飛ぶ程度なので、鋭いキバと口から放たれる魔法のようなツララに注意していたら、少女のところまで逃げ切れる。
僕は息切れしながらも笑顔になっていた。
安堵ではなく、興奮からである。
そのまま勢いをつけて、集団の方へ走る。
全てのセイウチの口に注意を払う。
他のセイウチとの距離が一番離れているであろうセイウチ目掛けて走る。
セイウチたちは、僕を認識したのか、一斉に口を開き、口の中に尖ったツララのようなものを作り始める。
これは、危ない。
僕は震えた。
が、走るほかない。
全身に力を込めて、赤い光を全身に纏わせれば、もしかしたら防げるか!?とゲームのような発想に一瞬至った。
が、防げなかったら、ツララが全身に刺さって終わりだ。
やはり走る。
予定通り一匹の側面に回り込もうと、直線走りから横に動いた瞬間、正面のセイウチの口から鋭利なツララが飛んできた。
たまたま横に動いていたので、そのまま避けることができた。
運が良い。
躊躇っていたら当たっていたかもしれない。
また蹴ろうと横腹に近づいたが、ツララを発射したせいか、動きが止まっていたので、無視して走り抜けた。
僕を囲んでいたセイウチの集団を抜けた。
間一髪だった。
「すみません」走りながら僕は、大声で少女に向かって言った。
青い光の少女は、さきほどの巨大なセイウチの腹の辺りで何かをやっている。
聞こえていないのか。
「すみませーん」僕は走りながら、大声で再度叫んだ。
少女は吊るされたセイウチの方を向いたままだ。
「すみませーん!」息が上がっていたが、全力で言う。
結局、僕は少女の肩を軽く叩いた。
少女が振り向いた。
少女はセイウチの腸を解体し、食べている最中であった。
口周りは、少し血で覆われていた。
手は、何か得体のしれない物を握っていて血まみれだった。
僕は思わず後ろに飛びのく。
少女は口に含んでいたものを飲み込むと、
「কি হচ্ছে?」と言った。
キホッツエ??
と言ったか。
聞きなれない言葉だ。
思わず固唾を飲む。
「আপনি এখানে কি করছেন?」と言い、首を少し横に傾けた。
アぺニアコニチコアン?
あぺにえこにちゅあん??
あぺにへこにかちゅぇあん??
????
ダメだ。
だいたいこんな発音だったが、聞いたことがない言語だ。
言葉も問題だが、他にも突っ込むべき点は多い。
巨大な魔物の腸を生で食べている。
そして、顔だ。
耳は横になく、頭の上に生えている。
ウサギやクマや犬のようにだ。
しかもぴくぴく動いている。
髪の色は青い光のせいで定かではないが、銀髪のように見える。
目は丸く黒の瞳が大きい。
明らかに美少女である。
だが、僕の知っている人間ではなさそうだ。
地面には、さきほどの戦闘で使ったであろう刃渡り30センチほどのナイフが2本刺さっている。
この場をすぐに走り去るべきか。
ただこの少女は僕に襲い掛かってくる様子は今のところない。
それに何より、この子の顔から目が離せない。
雪が舞っている中、青白い光が照らしている美しい少女の顔。
対照的な口元の赤は、自然と唇に目が行く。
魔物の血だと知らなければ、いくらでも見ていられる。
「অগ্নি বৈশিষ্ট্য অস্বাভাবিক।」と熊耳の少女が言うと、にっこりとほほ笑んだ。
オグニバイシュシタアスベッックハビカ??
ダメだ。
わからない。
「日本語話せませんか?」僕は聞く。
少女は、笑顔で頷く。
通じていない。
けど意思疎通の意思はあるようだ。
「Can you speak English?」続けて英語を使う。
同じく、少女は笑顔で頷くだけだ。
これも通じていない。
「한국어를 할 수 있습니까?」
(韓国語を話せますか)
「Können Sie Deutsch sprechen?」
(ドイツ語を話せますか)
「Ban co noi tieng Viet?」
(ベトナム語を話せますか)
「Vous parlez français?」
(フランス語を話せますか)
など、手当たり次第に聞いてみるがどれも通じない。
少女は両手にナイフを持ち、こちらに向けてきた。
血の気が引いた。
何かを弾く音が聞こえた。
後ろを振り向くと、さきほどのセイウチの群れが近づいてきていた。
どうやらツララを発射したようだ。
いつの間にか少女は、僕とセイウチの群れの間に立っていた。
少女は飛び交うツララを次々と弾く。
頼もしい。
だが、少女は、
「আমাকে পিছনে অনুসরণ করুন」と叫んだ。
アマケピチャンネアニュサラナカルナと聞こえた。
言っている意味は分からない。
しかし、表情を見るにあまり余裕がない。
何かを訴えている。
さっきは巨大なセイウチでも倒していたのに。
さっきと違う点とは。
そうか僕が邪魔なのか。
僕は少女の背中に掌を当てて、少し押した。
少女は正面を向いたままだが、ゆっくりと歩を進める。
僕は背中に手を触れたまま一緒に歩いた。
背後にいるという意思表示だ。
少女の青い光が大きくなる。
さきほど僕に話しかけてきた声よりも高い声で、独り言のように何かを唱え始めた。
20秒ほど何かを呟いていただろうか。
氷の槍が空中に、現れセイウチ1匹につき1本一直線に進んでいく。
氷の槍は、セイウチの口を貫いた。
1匹残らず死んだように見える。
少女は振り返ると、笑顔で僕の頭を撫でた。
顔は正面にある。
身長は僕と同じくらいか。
僕の手を取り、少女は巨大なセイウチの死体まで戻る。
ナイフを手に持ち腸をまた漁ると、少女は笑顔で、肉を僕に手渡した。
思わず苦笑をしてしまう。
すると少女はもう一切れ、切り取り、僕の前で笑顔で食べた。
おいしいよと言わんばかりの仕草だ。
いや、『食べろ』というのは理解できていたが、血も滴っているし、食べる勇気が足りない。
しかし言葉が通じないときは、おいしいものを共有するというのが仲良くなる手段の一つだ。
氷点下だと菌が繁殖しにくいから生肉も食べられると聞いたことがある。
ぐ、しかし火で炙りたい。
血がついてなければ、肉自体は光沢があり、おいしそうではある。
肉を握りしめながら、葛藤していたら、急に手から火が出た。
熱い。
思わず肉を落とした。
肉が少し焦げている。
火は消えた。
あれ、まさか。
掌から数センチ上に火の玉が出るイメージを作り、燃えろと念じた。
燃えない。
肉をもう一度拾う。
左手で肉を持ち右手は広げて、肉の下から右手の炎で燃やすイメージだ。
燃えない。
ぐ、このままではお腹を壊す。
それだけは避けたい。
肉がおいしそうに燃えているイメージをつくる。
火が出た。
今度は、ほんのりと熱さを感じる程度だ。
肉を炙ることができた。
少女は、その様子を黙って眺めていた。
生肉を口の中に頬張りながら。
僕は、炙った肉を食べる。
ゴムのように弾力があるが、硬くはない。
旨い。
「おいしい」と笑顔で言う。
右手の親指を立てて、イイねのサインを使う。
通じるか全くわからないが。
少女は頷いて、生肉を飲み込むと、
「মজা」(モジャ)と言った。
僕はマネして、「モジャ」と言う。
もちろん笑顔でだ。
恐らく、おいしいという意味だろう。
すると少女は、また生肉を切り取って、僕の近くに歩いてきた。
今度は、直接口の中に生肉を突っ込んできた。
口の中で、滑らかな肉の感触が広がる。
恐る恐る噛む。
お、おいしい。
表情が明るくなる。
「মজা」(モジャ)と少女は言い、親指を立てる。
僕は、お腹を壊さないかが心配になっていたが、そんなことよりも、
おかしくなって、笑ってしまう。
「モジャ」と僕は言った。
二人で顔を見合わせて笑う。
僕は自分自身を指さしながら、
「カツユキ」とゆっくりと言う。
少女は、僕を指さしながら、
「カチュユキ」と真似していった。
通じた。
「tu」の発音ができないみたいだが、名前だということは通じたようだ。
僕は、少女を指さして、
「君は?」と言った。
少女は自分自身を指さしながら
「ক্লেয়ার(クレア)」と言う。
僕は、真似して、
「クレア」と呼んだ。
少女は笑顔になった。
そしてクレアは、座り込み、ナイフで雪に字を書いた。
『ক্লেয়ার』と書かれている。
やはり見覚えのない文字だ。
アラビア語に少し似ているか。
クレアは左から順に文字を指さす。
1文字目でクと言い、2文字目でレと言い、3文字目でアと言う。
僕は真似して左から順に指を指し、クとレとアと言う。
クレアは笑顔になった。
せっかくなので字を覚えようとしたが、雪ですぐに埋まりそうだ。
僕は、字を再度なぞろうと指を出して何気なく指を文字に沿わせた。
すると、指先から火が出ていた。
雪は溶けるが、火は文字の形で留まっていて消える気配がない。
火の文字は幻想的だ。
赤色というより、深紅色か。
真っ赤に輝いている。
紅緋色の文字だ。
クレアは驚いた顔をしている。
僕も驚いた顔になっているのに気付いたクレアは、大笑いした。
雪が舞い散る闇夜に、僕らは見つめあって笑った。
紅緋色の名前が輝いている。
※週1回くらいの更新が限度かもしれません。
※সপ্তাহে একবার সম্পর্কে সীমিত হতে পারে আপডেট করুন।
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