第四話 虎の爪の秘密
「で?」
薄暗いうみなり屋の天井裏――あるいは棚の裏から――もしかしたら座敷の床下から、低い女の声が湧いてくる。
姿は見えない。
気配もかすみのようでつかみどころがない。
みぎわより余程、忍びらしい忍びである。
「どうするんだ」
みぎわは、憮然と黙していた。
梅太郎はもう帰った後である。
虎の爪という品は今ここにはありませんが、まあ探してみましょう、とみぎわが請け負ったので納得して、ほくほくとした笑顔で帰って行ったのだ。
「軽々と言うて、お主、我が首を絞める忍びなど洒落にならんぞ」
「忍びじゃないわい。かさご。梅太郎をつけてくれないか。涼森家なんて聞いたことない」
くく。
うみなり屋の中にわだかまる影が笑った。
話す声とは打って変わり、少女のような笑い声で。
「忍びじゃないと言うたわりに、忍びに仕事を頼むかや」
陽はすでに落ち、店の中はすべて闇。
みぎわの灯した小さな火だけがそれを払っている。
何だか今の力関係みたいだなとみぎわは感じた。
みぎわとかさご。
二人まとめて、うみなり屋である。
みぎわが表の顔、かさごは裏の顔。
裏の顔であるかさごの本当の姿を見たことは、みぎわにも無い。
不気味である。
いつ寝首をかかれるかわからん相手と過ごさねばならんというのは。
忍びの思考というのは、時にプッツンする。
プッツンすることで常識を超え、常人を超えるようにできている。
ただその方向性がどこへ向かうのかは個々人の方向性次第だ。
急に味方をいじめたくなるやつもいる。
かさごがそうでないとは限らず、どう考えても忍術の力量はかさごが上手だった。
みぎわは、ただ否やとは言えなかった。
清濁併せ吞む胆力がなくば、忍びの風上にも置けぬ。
「まあ良いさ。商売の良い好機じゃでな」
今度、みぎわの左わきから吹き付けるように言った声は、老婆のそれにしか聞こえない。
反射的に振り向いたみぎわへの嘲笑はカラスの鳴き声となって頭上から聞こえ、それは天井裏に吸い込まれて消えた。
「うん……」
かさごの気配無くなると、みぎわは腕組みをして窓の外を見る。
星が冴え冴えと輝いて数え切れぬほどの白点を夜空に刻んでいた。
だがその星も良く見れば色があり、大小がある。
みぎわは何か心に負い目があるときは、たいがい気づかぬうちに空を見ていた。
「……虎の爪か」
それを何処に仕舞ってあるのかは良く分かっている。
暗闇の中でもひょいと見つけられるだろう
それは石だ。
ただの石だ。
だが、その石は今の時勢を動かす、大きな意味を持つ可能性がある。
「ええ面倒臭いのう」
盗むんじゃなかった。
と、みぎわは勤労意欲を失くして座敷で横になったが、盗んだのが自分の意地の問題だったので、誰も責められんときた。
「質屋、やめようかな。儂には向いてない気がする」
ぶつぶつと文句を言ってみる。
聞かれたところでどうでもいい。
みぎわの程度に商才のある元伊賀衆なら掃いて捨てるほどいるのだ。
もうちっと気やすいところに行けばいい。
して。
「譲るか、譲らんか。それが問題じゃ」
みぎわは瞑目した。
そも、虎の爪とは何か。
手のひらほどの灰色の石である。
そこに、大きく鋭い爪で引き裂いたような切れ込みが三本入っているので「虎の爪」というのだが、もちろん、本当に虎がやったかどうかは分からない。
だが問題はその持ち主にある。
虎の爪を見出し価値を与えたその男の名を、加藤肥後守清正という。
かの武将が名古屋城を建てる折、那古野山という小高い山をごっそりと切り開いた。
どうやらその山は古い古い高貴な者の墓の一部であったらしいが、剽悍な肥後守の人馬は臆することなく、峰の痕跡すら残さぬほどに削ってしまった。
その土で凸凹を埋めたので、今の名古屋の街は平らなのである。
あまりの大胆な作事に、
「音に聞こえし那古野の山をふみやならした肥後の衆」
という歌まで流行ったほどだった。
さて、件の虎の爪なる石は、その那古野山をならすにあたり執り行われた地鎮の儀で、肥後守が手ずから振るわれた最初の鍬に当たったのだという。
鍬を弾いた肥後守は、その障害物を手になされ驚いた様子でこう言った。
「見よ、虎の爪痕が入っておる。さては、この山の障りはすべてこの虎めが平らげるべしとの御仏よりの告げごとでござろう。安んぜよ皆の衆。勝ち戦と決まったも同然じゃ!」
そして肥後守は見事に山を征服し、石を名古屋の某寺に預けて所領へ帰った。
以上がこの石の因縁であるが、みぎわは胡散臭いと思っている。
どうせ織田豊臣の薫陶を受けた肥後守の演出であろう。
そんな都合よく奇跡が転がってきてたまるものか。
幼名の「虎之助」から引き続き、磊落な人柄から大名になっても「虎」と親しみと尊敬を込めて異称される肥後守の、その目の前に虎にまつわる品が姿を見せるなど。
だがそのいわくが付いて以来、虎の爪という石は肥後守の家中においては無二の品となる。
主君が御仏にまで通じる、強く立派な武将であることを示す品であるからだ。
故に。
失くせと徳川家は言った。
内密に、だが伊賀者にも甲賀者にも聞こえるように言った。
豊臣陣営第一の将である加藤肥後守に名古屋の地を爪先にかけて削り取って良いお墨付きを与えた石など、徳川陣営からしてみれば明らかに目障りである。
笑止千万である。
ここは徳川が拓くべき街。
伊賀者甲賀者、それぞれに技を尽くし、誇りにかけて虎の爪を狙う。
その中で幸運をつかんだのはみぎわだった。
我ながら鮮やかだったと思っている。
寺に秘されていた石を奪い取ることが出来たのは、ひとえに忍びから見ても町人に見えるほどにみぎわが平凡だからだろう。
それはそれでちいと悔しいものだが。
虎の爪獲得の功をもって、みぎわにはこのうみなり屋という安住の地が用意された。
甲賀衆はたまに嫌がらせをしてくるが、今のところはごく平穏と言える。
さて、あの梅太郎なる若侍はどこまで知っているのだろう。
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