愛の道頓堀逃避行
『物陰に潜んだあたしたちを追って、奴らの足音が近づいてくる。彼はあたしの手を強く握って言った。
「このままではどこにも逃げられない。僕が陽動する間に」
「いややん。そんなん死ぬに決まっとるやんか」
「僕を信じて! 必ず迎えに行くから」
「ほんまやな」
青白く細い指が、あたしの髪をかきわける。やがて指はおでこに、耳に、頬に、そして唇へと近づいてくる。目を閉じて口づけを待つ。彼の息遣いが激しくなってくるのを感じる。彼の口があたしの口と重なった。
何秒経っただろうか。やがて彼の舌があたしの口を割り、ゆっくりと中を這いずり回る。
「ええやん、ええやん」
彼の手が』
「どうよ。私の新作は」
声をかけられた杏子は『愛の道頓堀逃避行』から顔を上げ、日差しに輝く稲穂の金髪に見惚れながら
「まだ読んでる途中やねんか」
と言った。
「伝染したな」
「なんで主人公が関西弁なの?」
「せやな。そこやねん」
待ってましたと言わんばかりに稲穂は解説を始める。
「最近の流行りに乗って、掛け合わせてみた。例えば美少年かけるイケオジとか、イケメン執事かける男の子とか、ヤンキー男子とオタク系男子とか、オリンピッ」
「だから、東と西をかけたの?」
際限がなさそうかつ危なそうだったので、話を途中で遮った。
「うん。彼の東京タワーがあたしの道頓堀に」
「ストップ。18禁は許しません」
「いや、東の名所かける西の名所だぜ? 333メートルの東京タワーがビクンビクン震えながら1キロ越える長さに増設されて」
「せめて高さと言って。そんなものTakku Bokku名義で発表したら、私がしぐれちゃんに吊るされる」
特に発展性のない会話に滑り込むように、波濤とあやめが部室の扉を開けた。
「どうしたんですか、先輩方。勉強するんじゃなかったんですか?」
「それがね、稲穂がエロ小説を書いてきたからどうしようかって」
「読ませて、僕に」
唯一の男子が喰い付く。
「実はこないだ、高浜さんが発情しているのを見てから、リアリティのあるエロいものを書きたいと思ってたんだ。あの盛り方は衝撃的だった。官能小説家に特化したその才能から学ぶ所を学びたい」
「水里、お前アレか。女子に囲まれても平気で眠れるタイプかと思ってたけど、むしろ積極的に見せる性癖があるのか。今はいいけど卒業したら公然わいせつ罪で真っ先に有名になるだろうな」
波濤と稲穂がやりあっているのを無視して、あやめは窓辺に歩み寄り植木鉢に水を与えた。サボテンがかわいらしい桃色の蕾を膨らませ始めている。
「センパイ、見てください。ほら、蕾が」
顔を植木鉢に近づけ、杏子は目を細めた。
「多分、この花が咲く頃にはテストの結果も出てると思うんですよ」
「そうだねえ」
声を落とし、疑問をぶつける。
「もし時間を戻したら、この蕾ってなくなっちゃうんですか?」
「う〜ん、どうなんだろうねえ……」
なくなってしまう可能性があるのならば、そんなことはしたくない。自分ひとりの身勝手で生命のサイクルをなかったことにするなど、許されるとは思えない。そんな業を背負ってしまったら、死ぬまで後悔する気もする。無自覚だろうがなんだろうが、それは問題じゃない。
意思が通じないから排除してしまう、そんな考えは絶対に持ちたくない。
うまく言葉にできなかったが、杏子はそのようなことをあやめに話した。
「私もそう思います。だからセンパイ、頑張ってください。応援してます、ファイトですガッツです、気持ちがあればなんとかなりますよ!」
「あやめちゃんはいい子だね……。追い込むね……」
「私もセンパイに教えられるように、2年の数学を一通り勉強しました。わからないところもありましたので、センパイの目線も理解できると思います」
レベルを目線と言い換えることにより、センパイのプライドを踏みにじらないよう注意を払う。回転の早いあやめならではの小技である。
「よし、頑張ろう! 不肖大須賀杏子、恥ずかしながら種田、水里両先生の力をお借りします!」
「その意気です! まずは照れてないふりしていやらしい言葉をぶつけあっている思春期の男女を静かにしてきますね。勉強の邪魔です」
あ、それなら私がと言って杏子は足早に移動し、騒いでいる二人の喉元に向けて左右の手で手刀を放った。
断末魔ひとつ上げて頭を垂れた二人を見下ろし、杏子は決意を語る。
「水里君、数学を教えてください。今回が最後の山場なの。稲穂の小説の続きはテスト終わってから」
咳き込みながら頷き、二人は了解の意を示した。よし、と腕を組み唇を強く結ぶ杏子の肩を背後からあやめがちょんちょんと叩く。
「そういえばこんなの買っちゃいました。テスト後にやってみません?」
あやめのスマートフォンの画面には、おもちゃのうそ発見器が表示されていた。
「ジョークグッズですけど」
窓辺のサボテンの方へ視線を向けながら、あやめは白い歯を見せた。
「ジョークみたいな状況ですから」
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