真顔で笑いながら泣く人
数学の授業が進むに連れ、やはり杏子の理解は追いつかなくなっていった。
大脳の中で公式という水分を蓄えておくはずの記憶領域がもし森のようなものだとしたら、杏子のそれは木を伐採し枯葉剤を巻いたのちにナイロンの人工芝を植え込んだゴルフ場ともいえるようなものであるから、仕方がないと言えば仕方がない。
ある日、数学の授業で再び置いてけぼりをくらった杏子は、やはり空想の世界に逃げ込んでいた。そして、そこを教師の坂口に詰められ、案の定禅問答を繰り返し、かつてと同じように職員室へ呼び出されたのだった。
「お前本当にな、後一回の赤点でアウトなんだからな?」
「そうなんですよねぇ……」
「いや、もっと自分を追い込めよ! 後悔してもしかたないんだから、今頑張れ!」
「そうですよねえ……。そうなんですけどねえ……」
全く覇気の感じられない受け答えを、別の用事で入室していたあやめは首を傾げながら聞いていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「センパイ、進級大丈夫なんですか?」
放課後、部室で杏子の顔を見るやいなや、あやめは真剣な顔で問いただした。
「あ、うん。多分だいじょぶ」
「大丈夫だったら呼び出されないでしょう。先生に詰められてる時もなんか自信なさげでしたし、本当に悲しいですよ、私は。センパイが同学年になったら。ここまで頑張ったんだから諦めないでくださいよ」
他に誰もいないせいか、いつになく感情的になっている。
「……多分大丈夫なんだよ……。時間はあるから何回でもチャレンジできるし……」
「何言ってるんですか、一ヶ月もすれば期末ですよ!? 時間なんてないです」
「少しだけ話を聞いてもらえる?」
杏子は声量を落とし、あやめの耳に向かってささやいた。
「実は私は同じ時間を繰り返してるの」
「は?」
「ループしてるの。何回か」
あやめは一歩退きつつ笑顔を作る。
「?かすで味意ういうこ」
「い、いや、違くて」
「ループですか、そんなに珍しいもんじゃないですよ。中2の頃なら多くの子が使えます」
「じゃなくて。やり直せるの、意識を残して」
ははは、と乾いた笑いをこぼしながらあやめは更に後ずさる。背後はもう壁だ。
だよね、と頷きながら杏子は窓際へ向かい、サボテンの鉢植えを手にとった。そして、それを頭上に掲げ床へ叩きつけた。ガシャンというものものしい音を残して鉢は割れる。
恐怖で固まるあやめに向かって笑顔を向けた杏子は、机の上で台上前転を決めた。
「?」
あやめは首をひねった。床に鉢植えの破片がなかったのだ。いやそもそも破片とはなんだったか。杏子はあやめに声をかける。
「どうかな」
「えっと」
「鉢植えを割る少し前に戻ったんだけど、覚えてるかな」
「えっと、覚えて……? なんかセンパイが数学に追い詰められてヒステリーを起こしたような……記憶? イメージ? なんかそういったものはあるような?」
「ヒステリーを起こしたわけじゃないけど、そう。認識してれば繰り返していることがわかるかな……と……」
「いや、わかんないですけど」
じゃあもう一度と言い残し、杏子は昭和の不良よろしく鉢植えを次から次へと窓ガラスへ投げつけた。窓の外からけたたましい悲鳴が聴こえる。
「ちょっと、センパイ!」
「よっと」
再び杏子の体が卓上でくるりと回った。窓も鉢植えもそこにある。あやめは考えた。何事もないが、センパイが窓ガラスが鉢植えが外ではキャーッて、バリーンって、ガッシャーンって。
「あ、あれれ? ガラス? 割れて?」
「混乱するよねえ。そうだよねえ」
「私は何に混乱していたんでしたっけ?」
杏子は再び小声に戻して話し始める。
「あのね、えっとね、私がね、時間を戻したの」
「そうなんですね。時間を戻したんですね。なるほどです」
あやめは驚きの素直さで話を受け入れた。
「あんまり驚いてない?」
「いえ、今は考えるのをやめただけです。時間は戻りました。はい」
「あやめちゃんのそういうとこ好き。で、何を説明したいかというと」
「数学の復習を何度もしていたということですか」
「ま、まあそうなるね」
「だから先生にあれだけ言われても、あんなのんびりしてたんですか」
「自信はないけど、何回も何回もチャレンジすれば、なんとかなるかなって」
あやめはうつむいて深い深いため息をついたのち、口の端を痙攣させながら笑った。
「ふ、ふふふ。そうですか。数学のために。ふふふ、時間を、ふふふふ。巻き戻して、ふふふふ。いる」
そして時間をかけてゆっくりと真顔に戻り、杏子の目を見つめて言った。
「バカですね。金メダル級のバカです」
「ヒドい!」
「いや、ひどくないですよ。だって、ループものの小説とかアニメとか沢山ありますけど、そんな」
再び横隔膜が痙攣を開始する。
「ふふ、ふざけた理由で。誰かをふふふ、救うとかじゃなくて、ふふふ。バカですねえ」
「トライアンドエラー……。私は数学で落第し続ける……」
「殿堂入りのバカですね! ふふふ、お気軽に時間を。バカだなあ。そうですか、戻してふふふ」
あやめは真顔のまま笑い続け、遂には涙を流し始めた。
「あやめちゃん大丈夫? 肉体と精神の動きがバラッバラになってるけど」
「だいじょばないです。限界です」
「今の状態をフロイトあたりが見たら舌なめずりを隠せないと思うよ?」
「誰のせいでこうなったと思ってるんですか!」
固まりきった表情のまま、あやめは足を踏み鳴らして抗議した。
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