死なないくらげ

タク・ミチガミ

『くらげ』

 くらげが浮いていた。

 青白く幻想的に照らされた水槽の中、まるで重力なんて存在しないかのように。


 初めてのキスはこの場所だ。

 少年は心に決めていた。


 水族館。

 半透明なゼリー状の生命体達は一種独特の悲壮感を漂わせている。活発に動き回るでもなく、作業に没頭するでもない。ただなんとなく浮いている。目的もなく、情熱もなく。

 少年は思う。



 ――死んでるみたいだ。



「わたし、水族館に行きたい」


 少女がそう言ったのは三日前のこと。地元のハンバーガー屋で、二人してアイスコーヒーを飲んでいる時だった。少女と顔を突き合わせて会話をすること自体、少年にとってはいまだ非日常的な体験だった。長い間憧れ、話しかけることすら出来ずに遠くから眺めていた少女が目の前にいるなんて。なんだか信じられない。


 その日から今日までの時間が、少年にはやたらと長く感じられた。

 通学中も授業中も食事中も、彼の頭は今日のことでいっぱいだった。少女と遠出したことはこれまでに一度もない。それがいきなり、水族館でのデートだ。

 デートって、一体どう立ち振る舞えばいいものなんだろうか。何を喋って、何をすればいいのか。不安を抱えた少年は、頭の中で何度も今日のリハーサルを繰り返した。


 そして少年は決めた。水族館で彼女とキスをする、と。

 くらげの水槽のところにしよう。そこは少年にとって思い出深い場所だった。キスをするなら、あそこしかない。


 少女とのキスを思い描く。

 少年の胸は焦げ付いた。


 人生で初めてのキス。

 少女にとってもこれが初めての経験となるのかどうか、少年には分からない。でも、そうであってほしかった。



「ねえ、くらげに刺されたことある?」少年の耳元で、少女が小さな声で訊いた。周りには彼らの他、誰もいない。


 少年の心情などつゆ知らず、くらげは相変わらずのんびりと浮遊している。


 少年は水槽から少女に視線を移した。

 水槽の照明が少女の顔も照らしている。少女の顔の上で、薄い青色が揺らめく。

 元々真っ白な肌をした少女が、今はなんだか青ざめているように見える。死んでるみたいだ、と少年はまた同じようなことを思う。

 死体。それも息を呑むほど美しい、死体。


「いや……」少年はゆったりとした仕草で首を横に振った。


 夢の中に入り込んでしまったような心地だった。

 薄暗い空間に青く光る水槽、浮かぶくらげ、美しい少女がすぐ隣にいて自分の顔を覗き込んでいる。これが夢でなかったら何だっていうんだ。


 少女は目を丸くして少年の言葉を待っている。


 白いブラウスに、えんじ色のワンピース。黒く長い髪は柔らかなウェーブを描いて肩に落ち、前髪は眉の上で一直線に切り揃えられている。幼さの残る顔の輪郭、吊り上がった目。なぜかその目は少年に老人のそれを思い起こさせる。遠慮がちに小さな鼻。湿った、大人っぽい唇。彼女の顔立ちはアンバランスで、そして完璧だった。


 少女に見つめられ、少年は魔法にでもかかったように固まってしまう。


「くらげに刺されたことは一度も――」やっとのことで少年は口を開くが、少女の取った唐突な行動に彼の言葉は途切れる。


 少女は上半身を傾け、青白い顔を少年に近づけた。彼女の髪が揺れ、少年の熱を帯びた頬に触れる。

 鼻と鼻が触れてしまうくらいの距離に彼女の顔がある。少年の息が震える。

 少女の目は大きく見開かれている。まるで少年を挑発するかのように。


 少女は彼に、キスを迫っていた。


 少年はここに至って、頭の中で何度も繰り返してきたキスのシミュレーションが全くの見当違いだったことを知った。

 やっぱり現実は映画やなんかとは全然違う。

 そして匂い。こればかりは想定外もいいところだった。彼女の匂いは形容する言葉が見つからないほど素敵に甘く、彼の理性は吹っ飛んでしまいそうになる。


 少年は極度の緊張と陶酔の中にいた。

 唇がまるで自分のものではないかのような感覚。全身は沸騰しそうになっている。

 ぴくりとも動けない。


 だがいつまでもぐだぐだしているわけにもいかなかった。

 いつ少女が根性無しの自分を見限ってしまうか分からない。


 少年は意を決する。


 彼は薄く目を閉じた。

 ゆっくりと少女に顔を近づける。彼女の鼻息を感じる。少年は息を止める。いよいよだ。心臓が爆弾みたいだ。彼女の唇はすぐそこにある。ついにその時がくる。目をきつく閉じる。上唇に何かが触れる。柔らかい何か。少女の唇に違いない。感覚がマヒする。すると少女が

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