第七〇食 旭日真昼とお姉さん①


「あっ、お兄さんっ!」

「おー、真昼まひる


 公園で野良猫および金髪の〝お姉さん〟と別れてから急いで帰宅した真昼は、ちょうどうたたねハイツの駐輪場から出てきたゆうを見つけてパタパタと駆け寄っていた。


「買い物帰りか? 悪い、ここんとこずっと行かせてて……」

「いえ、部屋で飲むお水が少なくなってきたのでそのついでに行ってきただけですから。でもお兄さん、今日はちょっと早いですね?」

「ああ、うちの大学の試験、解答用紙さえ提出したら途中退室可だからな。だから久々に俺が料理しようと思って」

「え? 駄目ですよ?」

「いや、なにその『当たり前でしょ?』みたいな感じ」

「だってもうカレーの材料買ってきちゃったんですよ。私ももっと包丁の練習したいですし、助太刀すけだち無用です」

「なにお侍様みたいなこと言ってんだ」


 そんなことを話しながら二階最奥、二〇六号室へ向かう二人。そしててってってーと小走りで扉の前に立った真昼は財布から取り出した合鍵で家森やもり宅のドアを開き、そのままするりと自分だけ中に入って扉を閉め直した。


「えっ……と……?」


 その奇怪な行動に困惑しつつ夕がドアを開いたところで、靴を脱ぎ揃えて玄関に上がった真昼はあたかも最初から中に居たかのような顔をして彼の方を見る。


「あらお兄さん、おかえりなさーいっ!」

「『あら』じゃねえよ。なんの寸劇コントだよこれ」

「そういえばさっき、下で言いそびれちゃったなと思って!」

「律儀だなあ……」

「……」

「……? え、なに?」

「……『おかえりなさいお兄さん』」

「あ、ああそういう……ただいま、真昼」

「ふっふーんっ! よろしいです!」


 満面の笑みで奥へ進む真昼の後ろから、「なにがそんなに嬉しいんだよ」といういつもの苦笑が聞こえてくる。しかしつい数ヶ月前までの三年間、ほとんど毎日誰も居ない部屋に「行ってきます」と「ただいま」を言い続けてきた真昼にとって、誰かとこういったやり取りが出来ることはとても嬉しかった。


「すぐにご飯作りますから、お兄さんは大人しく待っててくださいね」

「はいはい、じゃあありがたく勉強させてもらいますよ……って、ん?」


 部屋に鞄を置いた大学生が、突然すんすんと鼻を利かせ始める。なんだろうと思って見ていると、彼はくるりと真昼の方を向いた。


「真昼……なんか臭くないか?」

「いきなりヒドイ!? えっ、な、なんですか、体臭ってことですか!?」

「いやそうじゃなくて……泥臭いっていうか、獣臭いっていうか……」

「あっ、そ、そういうことですか……だ、だったら最初からそう言ってください。今の言い方はデリカシーなさすぎです」

「そ、そうか?」

「そうですよ。たとえるなら……そう、青葉あおばさんと話してる時みたいな――」

「俺、ちゃんと改めるよ」

「えっ……は、はい。分かってくれたならいいんですけど……」


 よほど蒼生あおいのようにはなりたくないらしい夕が真剣な顔で決意表明をする中、真昼は自分のパーカーの袖のにおいを嗅いだ。


「うっ……! た、たしかに獣臭いですね……さっきまで野良猫ちゃんたちと遊んでたので」

「野良猫?」

「はい。近所の公園に結構たくさんいるんですよ」

「へえ、そうなのか。……現役女子高生が夏休みに一人で公園に行って猫と遊んでたのか……」

「い、いいじゃないですかっ! 可愛いじゃないですか、猫ちゃんっ!」

「そりゃそうだろうけど……真昼、ちゃんと学校に友だちはいるかい……?」

「なんでそんな〝学校で孤立する娘を心配するお父さん〟みたいなこと聞いてくるんですか!? ちょ、ちょっと前にひよりちゃんたちが来たばかりじゃないですか!」

「それもう一ヶ月くらい前のことだろ。夏休み入ってから誰かと遊んだか?」

「……。あ、亜紀ちゃんとは毎晩電話してますけど……」

「それは遊んだ判定になるのか……?」

「い、いいんです! 八月に入ったらたっくさん予定入ってますから!」


 本気で心配そうな顔をする夕を無理やり納得させ、真昼は猫たちのにおいが染み付いてしまったパーカーを脱いで部屋の隅に丸めて置く。そして綺麗に手を洗ってからエプロンを身に着けたところで「あっ、そういえば」と思い出したように口を開いた。


「公園ですごくお話が合うお姉さんに会ったんですよ」

「へえ? どんな人だ?」

「えっと、哺乳類と鳥類が好きで、虫が嫌いで、見る分には水族館が好きなお姉さんです」

「ごめん、全然分からん」

「たぶん大学生くらいの人だと思うんですけど……時間があったらもう少しお話したかったです」

「そうか。……でも知らない人にはついていかないようにな?」

「あははっ、小学生じゃないんですから大丈夫ですよ~!」

「いや、真昼は結構危ういとこあるから言ってるんだけどな?」


 先ほどとは違った意味で心配そうな顔をする夕に「どちらにせよ、きっともう会えないと思いますし」と言って安心させる真昼。……またすぐに〝お姉さん〟に会うことになるとは、このときの彼女はまったく考えていなかった。

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