第3話
一番街、コリヤダ通りに居を構える市内有数の有名店『シルバニ』にて。
市内のあらゆる店の中でも特に
「……」
カウンターの向こうでマスターの熊獣人、エフゲニー・サヴォシンが静かな顔をしてゴフレットを磨いている。
今日この日も、この店は大賑わいだ。そしてそんな中でも、俺の右隣の席は空いていて。
そんな俺の隣の椅子を選んで、静かに引く手が一つあった。
「隣、空いてるかしら?」
「どうぞ」
声をかけてくるボルゾイの犬獣人に、俺は短く返す。このやり取りも慣れたものだ。
そうして、ルージア連邦でも
このリュック、この服装。仕事帰りなのは見ればわかる。それも遠方で仕事を終えてきた
「仕事帰りか。今日は何を持って来たんだ? ゴンチャロワ」
「ふっふっふ、見たい? きっと貴方も気に入るわ」
自分の客の中でも特になじみ深い、自分に情報を買いに来ることの多い女性エージェントに口角を持ち上げれば、アリョーナも笑みを浮かべて俺を見る。
そうして床に置いたリュックサックを取り上げ、中をごそごそと
「じゃーん」
「これは……キャビアじゃないか。しかもヴェデルニコフ産の」
目の前に差し出された青い帯の巻かれた缶を、目を見開いて見つめる俺だ。
ルージア連邦の西方、内海であるエルデ海沿いに位置するヴェルデニコフ首長国は、海産物、特にキャビアの生産で有名な国だ。
エルデ海に生息するチョウザメの卵から作られるキャビアは、世界最高峰とも言われる。連邦内の酒飲みの
そのキャビアの缶詰を俺の前、カウンターの上に二つほど積み上げながら、アリョーナが笑う。
「あっちでの仕事が入ったから、お土産で買ってきたの。あげるわ」
「ありがたい」
そっと目を細めて、缶に手を付ける俺だ。キャビアの土産は純粋にありがたい。ワインを中心に好む酒飲みとして、これほどいいつまみもない。
缶の側面に巻かれたラベルを見ながら、深くため息をつく俺だ。
「しかもよく見たら、イリイチ社の青ラベルか。いいのか、こんな最高級品」
「貴方だからいいのよ。日頃のお礼ってやつ。貴方のおかげで、私もいい思いが出来ているんだしね」
俺の零した言葉に、ニコニコしながら答えるアリョーナだ。
ヴェルデニコフ首長国の首都、ヴェルデニコフに本社を置くイリイチ社は、キャビアを取り扱う会社の中でも特に有名だ。
原材料にするチョウザメの種類でグレードが変わるキャビアは、粒が大きいほど良品とされる。一番卵の粒が大きいベルーガ種のキャビアには青いラベルが使われ、これが最高級品になるのだ。
ヴェルデニコフに直接行って買うにしても、結構な値段がつくはずだ。多分、一缶4,000セレーは下らない。それを二缶も、俺にプレゼントしてくれるというのだから、気前がいいにしても程がある。
だが、まぁ、俺自身アリョーナには億単位で稼がせているから、このくらいの見返りはあってもいいだろう。
「確かにな。ゴンチャロワのような一級エージェントが、俺を頼ってくれるのはありがたい話だ……サヴォシン、いいか?」
俺はプレゼントされた一缶を、カウンター向こうでゴフレットを磨くエフゲニーに差し出した。
アリョーナのように稼げるエージェントの場合、酒に合うつまみを一つ俺にプレゼントして、それをその酒場で出してもらうというのが通例になっている。要するに、酒を奢る代わりにつまみを奢るパターンだ。それも、自分が手ずから選んできたつまみをだ。
自分の手で選んできたつまみを俺に食べさせるんだから、難易度が低いと思うかもしれないが、実はそうではない。その時にいる店、その時に飲んでいる酒、それらの要素も踏まえたうえで俺は出題するから、場面にマッチしないつまみをプレゼントして失敗する、ということも
そんなものだから、馴染みにしている酒場の店主は、俺がプレゼントされたつまみを店に差し出してくることも知っている。エフゲニーはにこりとキャビアの缶を受け取った。
「いいとも。代わりに俺にも一口味見をさせろよ」
「構わないとも。お前も味わってくれ、イリイチのキャビアなど、そうそう食えるもんでもないからな」
にこやかに笑いながら、俺はエフゲニーに指を向けた。ここの店主とももう長い付き合いだ。勝手も酒の好みも分かっている。俺がカウンターに腰かければ、まずメニューに
と、傍らでアリョーナが手を上げていた。
「あ、マスターマスター、注文いいかしら? また一杯ルスラーンに奢らなきゃ」
「はいよ。今日もかい」
缶を置きながら、すぐにエフゲニーが反応する。このやり取りも、ここで何回やったことだろう。
アリョーナ相手でなくても、結構な客をこの店で迎えてきた。俺の裏家業が情報屋であることなど、エフゲニーはよくよく分かっている。なんならエフゲニーから情報を仕入れることもあるのだから。
カウンターに肘をつきながら、俺は隣で瞳を輝かせるアリョーナに声をかけた。
「俺は一体、何杯お前に奢ってもらっているだろうな」
「そりゃあ、貴方が私にくれたネタの分だけよ。あぁでも、今年のエドゥアルド・メッセーのプレゼントを渡した時は、逆に奢ってもらっているっけ?」
ぺろりと舌なめずりをしながら、アリョーナがほほ笑む。
一級エージェントともなると、拠点にする町どころかルージア連邦全体に仕事のタネが転がっている。ともすれば連邦国外からお呼びがかかることもあるくらいだ。
アリョーナ自身、つい先日にはヤパーナ帝国での仕事を完遂してきたと聞く。その前には俺からのタレコミで、市内きっての
そんな凄腕エージェントの隣で、俺はついと天井に目を向ける。
「まあな、お前が持ってくるものは大概上質なものだし、お前の仕事は上等なものだ……ふむ」
これだけ俺に利益をもたらし、これだけ実力のあるエージェントだ。少し困難な課題を出してもいいだろう。
そう考えて、俺はぴっと指先をアリョーナに向けた。
「よし、ゴンチャロワ。今回は少し
「へぇ?」
俺の言葉に、彼女は面白そうな目をして笑った。その視線を受けて、手元にあったもう一缶のキャビアを持ち上げる。
「このキャビアを『ブリニ』に乗せて食べるとしたら、お前はどんなワインを飲む?」
俺の出題に、彼女だけではない、傍らで酒の準備をしていたエフゲニーも目を見開いた。
蕎麦の実を
しかし、焼いてから時間の経ったブリニはべしょっとして美味しくない。焼き立てが美味しい料理だから、酒場で調理して出してもらうのは難しい料理でもある。わざわざ生地をこねて、フライパンで焼いて、具材を乗せて出す、というのは手間だから嫌われるのだ。
「ブリニ? また、酒場に似つかわしくないものを要求してくるわね」
「おいおいルスラーン、今からここでブリニを作れというのかい?」
「さすがにここでそこまでは要求しないさ。通常通り、黒パンに乗せてくれればいい」
眉根を寄せるエフゲニーに、俺は即座に目線と手を返す。さすがにここで、ブリニを作れとまでは言えない。作るんなら自分の家で作るとも。
俺の言葉を受けて、黒パンを薄くスライスし始めたエフゲニー。その姿を見て傍らの彼女は、ふっとため息をついた。
「意地悪な人。貴方、『シルバニ』の厨房がブリニを作る余裕がないことを分かっていて、その出題をしたでしょう」
「当然。だから難易度を上げようと言ったんだ。
お前の記憶の中にある味、香り、風味、触感、それらを踏まえたうえで、この店にあるどのワインが
アリョーナの言葉に、なんでもないように言葉を返す。
これだけのエージェントが相手なら、俺だって出題内容を難しいものにしなくては釣り合わない。相手はそれだけの実力を備えているのだから。
ともあれ、俺の言葉を受け取ったアリョーナが、その長く細い口吻を天井へと向ける。
「ブリニ……そうね、香ばしい香りのあるものだし、甘みは無いし……辛口ならどんな白ワインでも合わせられるとは思うけれど」
「だろう? 俺もそうだと思う。だからこそ、ゴンチャロワがどういうワインをセレクトするのか、俺は知りたい」
零された言葉に、頷きながら手元のゴフレットを干す。アリョーナの言うとおり、ブリニは甘みがない。砂糖を使わずに作るためだ。蕎麦粉自体に香りがあるから、その香りも勘案して乗せる具材と酒を考える必要がある。
しばし思案したアリョーナが、カウンターの向こうでキャビア乗せ黒パンを皿に盛り付けるエフゲニーに声をかけた。
「そうね……マスター、今日のおすすめの白ワインを教えてもらえる?」
「ん? おすすめか。そうだな……」
声をかけられたエフゲニーが、調理の手を止める。
そのまま後方に振り返り、冷蔵庫の扉を開けると、中から数本のワインボトルを取り出してカウンターに置いた。
いずれも白ワインだが、原産国も、銘柄も、品種も様々だ。ある程度国同士での流通が発達しているこの世界であるとはいえ、ここまであちこちの国のワインを揃える酒場は、そうないだろう。
「シーリの『マヌエル・ガラテ』チャルドネ、アマリヤンの『ファイアストーン』セヴィニョン、グルージャの『テトリ・クヴァヴィリ』ルカティ、イッターラの『デ・ヴェッリ』トレビエーノ。この四種類だな」
「あら、イッターラのワインが
並べられた四本のうち、一番右端のものに目を留めたアリョーナが目を見張った。俺の手元のゴフレットに、今まさに注がれているイッターラ帝国の『デ・ヴェッリ』。それを飲み干しながら、俺は言う。
「今飲んでいる。美味いぞ、あの地域にしか育たないブドウを使っているらしい」
「へぇ、いいわね……テイスティングさせてもらえるかしら?」
俺の言葉に興味を覚えたのだろう、アリョーナがぺろりと舌をなめずる。
この酒場は、ワインのテイスティングをさせてくれるのがいいところだ。飲む前に僅かにゴフレットに注いで、味を確かめさせてから、規定量を注ぐ。ここまで本格的にやってくれる酒場を、俺は一番街の店では数えるほどしか知らない。
しかして、新しく出されたゴフレットの中に『デ・ヴェッリ』がほんの僅かだけ注がれ、アリョーナの前へと出される。
「はい、おまたせ」
「ありがとう。ん……あら、華やかで軽やかだわ」
「だろう? 辛さの中に花のような甘みも感じる。面白いワインだ」
アリョーナのワイン
イッターラのワインは、
空になったゴフレットをくるくると回しながら、アリョーナは口を開く。
「そうね、面白い……ただ、これにキャビアは、どうかしら?」
「同感だ。
俺の言葉に、彼女も頷いて。
そこから『ファイアストーン』、『マヌエル・ガラテ』、『テトリ・クヴァヴィリ』とテイスティングを重ねて行って、それらすべてを味わってから、アリョーナは力強く頷いた。
「オーケー、分かったわ。『マヌエル・ガラテ』を、私とルスラーンに一杯ずつ。二杯とも私につけてちょうだい」
「あいよ」
彼女の確信に満ちた声に、エフゲニーもすぐさま動く。俺と彼女の前にあるゴフレットを引き寄せては、『マヌエル・ガラテ』の栓を抜いた。
アリョーナの選択に、俺は小さく目を見張った。意外に映ったからだ。
「ほう? 意外だな、お前のことだから『テトリ・クヴァヴィリ』にするかと思ったが」
「まぁね、グルージャ公国はルージア連邦の傍にある国だから。最後まで迷ったわ」
俺の言葉に、彼女も頷きを返して。
ユール大陸の中央部に位置するグルージャ公国は、ルージア連邦に接するために気候風土も近い。食文化にも共通点があるから、ワインの好みも似通っている。
一般的な観点からすれば、キャビアと合わせるなら『テトリ・クヴァヴィリ』を選択しただろう。しかしそうしなかった。それについて、彼女は強い確信があるようだった。
「でもね、そうじゃないの。今回みたいに黒パンでキャビアを食べるなら『テトリ・クヴァヴィリ』が最良だと思うわ、
貴方の出題はブリニに乗せたキャビアでしょう。だとしたら塩気も魚臭さも吸収されて抑えられるわ。それなら、もっと幅が広がるはず。
『ファイアストーン』よりもこっちだと思ったわ。ここで一気に地方を飛ばして、シーリのワインで合わせるのも、面白いと思わない?」
アリョーナの言葉に、俺はなんだか嬉しさがこみあげてきた。
いやはや、ここまで言ってくれるとは。ワインを、酒を愛するものとして、ここまで話してくれる人間が出来上がることに、俺がそれを促したという事実に、喜びが抑えられない。
「……ふっ」
「やれやれ、アリョーナもだいぶ、ワインの何たるかが分かってきたな。ルスラーン、うかうかしているとお前も足元すくわれるぞ?」
笑みをこぼす俺に、エフゲニーがゴフレットをすっと差し出しながら
その差し出された器を手にしながら、俺は笑う。心から笑う。
「いいんだよサヴォシン、すくわれたって。俺は別に、こいつの上に立ってマウントを取ることが目的じゃない。
「まぁ、私もなんだかんだ、貴方からいろんな問題を出されてきたものね」
アリョーナも俺の言葉に頷いては、ゴフレットの脚に手をかけた。早速飲む
「なるほどね。キャビアはどうする、一緒に出すかい?」
「そうだな、出してくれ。一応合わせておきたい」
こくりと頷けば、俺たち二人の前にキャビアを乗せた黒パンの盛られた皿がすぐに出てきて。準備は済んでいたのだろう、ありがたい限りだ。
さて、ここまで整ったなら、後は飲むだけ。俺の持つゴフレットと彼女の持つゴフレットが、そっと近づく。
「じゃあ」
「ええ」
そうして杯を寄せて、口元に寄せてくいと飲んで。飲み込んでから、皿の上の黒パンに手を持って行って。
大口を開けて頬張れば、キャビアの塩気と魚臭さ、黒パンの甘み、香りが口の中に広がってくる。これがブリニを土台にしていれば、もっと丸くまとまっていたのだろうが、これはこれでありだと思う。本当に、『テトリ・クヴァヴィリ』を合わせたくなる味だ。
「ふむ……」
「あっ、黒パンでもだいぶいけるわね」
言葉少なに話し合う俺と彼女。そのまま静かに酒とつまみを口に含んでいって、しばし。
ゴフレットの中のワインが半分を過ぎたところで、俺はぽつりと言葉をこぼした。
「……ゴンチャロワ」
「なぁに?」
カウンター下に置いたカバンから手帳を取り出す俺に、アリョーナは
それに対して、俺はおずおずと、恥じ入るように目を向けつつ、手帳のページをめくった。
「その……あれだ。でかいネタと言ったら、それこそ酪協の中抜き疑惑の案件くらいしかないんだが……釣り合うか?」
その発言に、小さく目を見開くと。
ふっと笑ってからアリョーナは俺の肩をたたいた。ぱしんという音と共に、俺の身体が揺れる。
「なーに言ってんのよルスラーン、貴方の情報には万に一つの外れもないんでしょう? 儲けの額がどうであれ、儲けさせてもらうわよ。それが私の実績にもなるんだしね」
その言葉に、小さく目を見開いた俺だ。
確かに、小さな情報から大きな事件につながるケースは多い。これまでもそういう情報は、一級エージェントに手渡してきた。アリョーナに対してもそうだ。
だが、そういうものばかりではない。小粒な案件を実力のあるエージェントに案内したケースだって多いわけで。
しかし、彼女はそれを良しとした。受け入れてくれた。そしてこれからもそうだという。
どうやら、少し俺は気負いすぎていたらしい。ふっと笑って、少し前に書き溜めていた手帳を取り出す。
「……分かった。そうだな、もの自体は小粒だが、おそらく奥が深いだろう情報は、これだ」
そうして始まる商談。情報のやり取り。
ここからまた、一つの事件が白日の下に晒されて、一つの悪が法の下に裁かれるのだろう。
俺はそれが、毎度毎度、楽しくて仕方がないのだ。
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