6.五月のさわやかな風の中、屋上でごはん。

「おお~いい景色じゃないかっ」


 屋上へ続く扉を開けた途端、高村は右手の拳を強く握りしめた。両手が空いていたら、きっと両手で感動の表現をしたに違いない。だが左手は、パンとコーヒーに占領されていた。

 数歩進み、180度見渡す。五月のさわやかな風が、彼のやや乱れた長めの髪と、腕まくりをした白衣をさわさわと翻す。


「何でこんないい景色なのに、外で食おうって奴が居ないのかなあ、全く……」

「……あの……金網が無いせいじゃないですか……」


 彼はとっさに、声の聞こえる方を振り向く。だが姿は無い。


「誰!? 誰か居る訳?!」

「……すみません、つい」


 先程出てきた階段室の裏から、ひょいと女生徒が顔を出した。高村は思わず指を突き出す。


「あ、君、見覚えある! 確か図書委員の……」


 いかん、名前が出て来ない、と高村は口を開けたまま、上げた右手の指を何度も何度も上下させた。


「……村雨です。高村先生。村雨乃美江」

「そうそう、村雨さんだ」


 そう、あの図書委員の子だ。あの印象は非常に強かった。


「どうも昨日はすみませんでした。私とろくさくて」


 言いながら、彼女はまたも頭を下げた。


「うーん…… それはまあ…… いいけど」


 苦笑しながら、高村は彼女の方へと近づいて行く。

 彼女が腰を下ろしていたのは、屋上の他の所より一段高く、ややこの季節には、陽当たりが良すぎるかもしれない場所である。

 南向きの風が緩やかに吹き込んでくるせいか、全体的には心地よい空間となっていた。

 よいしょ、と高村は彼女の横に座り込むと、買ってきたパンを次々に放り出す。それを見て村雨は目を丸くした。


「高村先生…… 四つも食べるんですか?」

「そりゃあ、まあ。慣れないことばっかだから、腹も減るし……」


 ぴり、と高村はその中の一つ、チョコリングの袋を破く。

 ふと彼女の方を見ると、膝の上には手作りのカバーを敷いた、可愛らしいお弁当箱があった。その脇には、ステンレスの小さな水筒も置かれている。


「へえ、ちゃんとおべんと作ってるんだ」

「ええ、料理は好きなんです」

「ってことは自分で作るの!? すげえ」


 率直な高村の賞賛に、彼女は顔を赤らめた。


「そんなこと、無いですよ。お弁当の子もたくさん居るし、これだって、あり合わせのものとか、昨夜の残りとか……」


 いやいや、と高村はわざとらしい程に、首を大きく横に振る。


「こう見えてもオレ、大学に入ってから一人暮らし三年やってるけど、マトモに料理なんて作ったことないぜ?」

「だって先生は、男だし」

「男女は関係ないさあ。料理はできるに越したことないし。オレの友人にも、そういうの、すげえ上手い奴が居てさあ」

「彼女ですか?」


 ぷっ、と高村はパックのコーヒーを吹き出しそうになる。慌てて口を拭きながら問い返す。


「彼女?」

「だって…… 先生、結構、六年の間でも、もう結構、人気出てるんですよ?」

「えええっ? 何でオレがっ」


 思わず彼は退く。


「だって、先生格好いいですよ」


「……冗談はよそうね」

「冗談じゃないですってば。細身だし、結構すっきりした顔だし……」

「今ってそういうのが、流行?」


 彼は眉間にやや大げさなまでにシワを寄せた。


「……かどうか知らないですけど、クラスの子が、トイレでそういうこと、言ってたの、耳にして…… そう、今日だって、何かそのだらん、と着た白衣が格好いい、とか…… だから大学で彼女の一人くらい居たっておかしくはないって、皆……」


 うーん、と高村はうなる。それは彼にとって、あまり触れられたくない話題だった。

 彼はぽん、と村雨の肩に手を置いた。ぴく、と彼女の身体がその瞬間震える。

 昨日の本にびっしょりとついた汗。彼女が緊張するタイプであることを高村は思い出した。

 気付かないふりをして、彼はすぐに手を離した。そしてあえて真剣な声で囁く。


「……あのね、君だけに言うけど……」

「は、はい?」

「……実はオレ、女には興味ないんだ……」

「え」


 丸い眼鏡の下の目が、レンズと同じ位に丸くなる。

 数秒。


「……なーんて、ね」


 にやり、と高村は笑った。


「うそうそ。女の子の方が大好き」

「……やーだ」


 ははは、と彼女は苦笑した。


「一瞬、本当かと思ったじゃないですか」

「……何、オレそんなにゲイに見える?」

「あ、そうじゃなくて、あの、先生の言い方が真に迫ってたんですってば。あ、今度はヤキソバパンですね」


 焦りながら慌てて話題を変えようとする彼女に、彼はうん、と返事をする。彼は既に、次の獲物に取りかかっていた。


「購買の一番人気なんですよ、それ」

「あ、そーなんだ」

「私も時々購買は利用するんですけど、ヤキソバパンはさすがに買えたこと、無いんです」


 へえ、と彼はその優秀な戦利品を口にくわえながらうなづく。


「……ってじゃあもしかして、村雨さん、遠いの? クラス」

「いいえ、私、ただ単にとろいんです」


 うーむ、と高村はどうフォローしていいか迷った。確かに図書室での、彼女のあの調子では、昼の購買では確実に潰されてしまうだろう。


「あー…… でもね、村雨さん、あれは気合いよ、気合い」

「気合い?」


 彼女は首を傾げた。そうそう、と高村は指を立てる。


「『おばちゃーん! ヤキソバパンとチョコリングとパピロバターとポテサラサンド!』……ってね。遠くからでも、とにかくこれでもか、とばかりに叫ぶ! それしかない!」

「そ、それは……」


 彼女は苦笑しながらそれはできない、と首と手を横に振る。


「んー、でも、だいたいオレ、それでこうゆうことは、物事通してきたからね」

「そうなんですか?」

「そうなの」


 そうなのだ。まず態度から。それが彼のモットーだった。気持ちは、つい揺らぎそうになるから。


「あ」


 突然、彼女は胸ポケットから端末を出した。


「何、メール? 友達から?」

「あ、まあ……」

「そう言えば、いつも一人で食べてるの?」

「ええ、まあ……」


 そうだろうな、と彼は思う。図書室に居た時の周囲の反応も気になる。そしておそらく、それをこの敏感な少女は気付いている。

 なら、一人で居る方が、気楽なのかもしれない。


「……違う学校の、友達なんです」

「あ、ちゃんと友達は居るんだ」

「居ますよぉ、幾ら何でも」


 くす、と笑いながら、彼女はぱちん、と携帯の蓋を閉めた。

 何となくほっとする自分に、高村は気付いた。

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