第80話 しあわせ


 ※※


 遥くんが東京行きの新幹線の駅のホームへと消えていくのを見た瞬間、私の胸がきゅん、と痛んだ気がした。


 ……嫌な予感がする。


 もちろん、それは、ただちょっとの間でも会えなくなってしまうことによる寂しさがそうさせたのかもしれない。遥くんと念願の恋人同士になってからというもの、私はずっと遥くんに甘えっぱなしだった。


 最近は特にそうで、何かにつけては遥くんに会いに行っては、一緒にご飯を食べたり、部屋でお喋りしたり、あとは、その……たまにキスをせがんだり。


 勉強の邪魔をしちゃいけないと思ってはいる。だけど、今日は甘えちゃダメだと自分に言い聞かせても、半日と我慢できない。


 遥くんは優しく笑って私のことをいつだって受け入れて、いっぱい甘えさせてくれる。遥くんは『俺が三久と一緒にいたいから嬉しいよ』って言ってくれるけど、そうじゃない。


 私のほうがずっと、遥くんがそばにいてくれて嬉しい。恋人になって、安心してちょっとは落ち着くだろうと思ったけど、そんなことはなかった。夜寝る前に声を聞いて安心して、でも、朝起きたら、また遥くんの声を聞きたくなっている。抱き着いて、遥くんの匂いを感じたいと思っている。


 もっと、もっと遥くんのことが欲しいと心が求めてしまう。


「おにちゃん……」


 遥くんの姿が見えなくなって、そろそろ私たちのほうの新幹線の時間が近づいていても、私は後ろ髪を引かれる思いで、ずっと東京行き側のほうを見つめていた。


 遥くんについていきたい、と思った。


 遥くんはこれから一人で東京の実家に戻って、改めてご両親や家族と話をしに行く。今後は東京に戻らず、これから先、ずっと私と一緒に日々を過ごすために。


 ――『家庭の事情に首を突っ込むなって、そう言いたいんですか』


 ――『そういうことです』


 電話口で話した、遥くんの父親である悠仁さんとのいつかのやり取りが思い起こされる。


 家庭の事情に首を突っ込むな――そんなことはもうわかっている。過ごした期間はそう多くないけれど、私は遥くんの幼馴染で、恋人で、時にはちょっとエッチなこともする関係だけど、それでも、私はやっぱり他人でしかない。


 遥くんのことを信じていないわけではない。きっともうこれ以上、私を滝本家の都合や常識に晒したくない、巻き込みたくないと思ったからこそ、遥くんは一人で行ったのだから。


 駅のアナウンスが、次の発車の時刻を知らせる。指定席だから、そろそろ私も乗り込まないといけない。


 それに今から追いかけたって、遥くんの乗った東京行きの新幹線はもう出発してしまった。


 間に合いようがない。だからもう、私は信じるしかない。


 しかし、そう何度も自分に言い聞かせても、胸に起こった不安が消えてくれることはなかった。


 嫌な予感がする。このまま追いかけなかったら、私はきっと後悔する。もしかしたら、これで二度と遥くんと顔を合わせることができなくなるかもしれないと。


「……三久、追いかけたい?」


「――え?」


 どうすることも出来ずその場に立ち尽くしていると、お母さんが私にそう言ってきた。


「行きたくてたまらないんでしょう? 東京に。遥くんの実家に、彼を助けに行きたいんでしょう? 顔に書いてあるわよ。ねえ、あなた?」


「……まあね」


 今までこんな気持ちになるのなんて初めてだから、お父さんやお母さんにはバレバレだろう。


「そうだけど……でも、私は部外者だし、関係ないし」


「そうね。いくら私たちが遥くんの家のお隣さんだって言っても、それはミサヱおばあちゃんとだからね。東京の彼のご実家とは、何の関係もない」


 お母さんの言う通り。今の私が追いかけたところで、遥くんと春風ちゃんの邪魔にしかならない。


 行ったって、結局は門前払いされるだけ。


「じゃあ、それを踏まえてもう一度訊くわ。――三久、東京に行きたい?」


「……!」


 それまでずっとニコニコとしていたお母さんの表情が、真剣なものに変わっていた。


 お母さんは私に東京行きを諦めさせるためにそう問いかけたわけじゃない。


 部外者でも、迷惑だと思われても、それでも遥くんを追いかける『覚悟』があるのかと訊いているのだ。


「……お母さんは、いいの?」


「いいわけないでしょ。目の前でよそ様の家に迷惑をかけようとしている我が子がいるなら、それを阻止するのが親の役目なんだから」


「お母さんの言う通りだよ。今からチケットを取り直すのも面倒だし、お金もかかるしね。それに何より、遥くんのご実家って面倒そうだから。本音を言えば関わり合いを持ちたくない」


 お父さんの言う通りで、それは私だって思っている。春風ちゃんは悪い子じゃないことだけはわかっているけど、悠仁さんを含めて、残りの人たちは、遥くんの話を聞くだけでも面倒そうな人たちであることは容易に想像できる。


「……でもね、それじゃあ誰かを助けることもできないんだよ。遥くんは今、『滝本家』ていう沼から抜け出したくて必死にもがいている。抜け出して、三久のいるところに戻ってくるために」


 そして、遥くんは私たちの目の前で、たった一人で今も頑張っている。


 苦しんでいる遥くんを助けてあげたい。私はそれが出来る距離にいて、いつでも手を差し伸べて、もがいている遥くんを沼から引っ張り上げることができる。


 でも、最後のところで見えない壁が存在している。それが、所謂『家庭の事情』というやつだ。


 遥くんを自分たちの沼に飲み込むために、滝本家の人たちが何度も何度も振りかざしてきた、魔法みたいな、呪いみたいな言葉。


 それをはねのける術は、もちろんある。覚悟すれば簡単だが、覚悟するまでがなかなか難しい。


「三久、僕からも聞くけど、それでも遥くんを助けたい? 滝本家あちらさんの出方次第では、早谷家ウチにも、もちろんミサヱおばあちゃんにだって飛び火するぐらい面倒なことになるかもしれない。それでも、お前は好きな人を助けたい?」


「――助けたい」


 私は力強く頷いた。


 家族に迷惑をかけてでも、私は頑張っている遥くんに手を差し伸べてあげたい。


 初めて会った、あの夏の頃からずっと変わらない。


 私の大好きな『おにちゃん』の手を引くのは、いつだって私の役目なんだから。


「……そう。あなたの気持ちはよくわかった。じゃあ、仕方ないわね」


「! じゃあ――」


「うん。親として娘のわがままを許すのもどうかとも思うけど、子供たちがそう願うんだったら、腹をくくって送り出してやるのも親の務めだから。……もし何かあっても、責任は僕たちが取る。だから、三久は思いっきりやっておいで」


 そう言って、お父さんは私に何枚かの一万円札を握らせて、その後、すぐに駅員さんのもとへ。一人分の東京行きの切符を手配するためだ。


 東京行きの新幹線は本数も多いから、次に乗れば、遥くんが東京の実家に戻る前に合流できるかもしれない。春風ちゃんあたりに連絡して頼み込めば、なんとかしてくれるだろう。


「……お母さんも、ありがとう。私、行ってくるね」


「ええ。でも、私たちにここまで覚悟させたんだから、絶対に遥くんと――未来のあなたの旦那さんと一緒に、幸せになってここに帰ってきなさい。わかった?」


 遥くんが家族じゃないというのなら、家族にしてしまえばいい。


 単純だけどとても難しい――でも、これが私たちに出来る、『家庭の事情』という魔法をはねのける唯一の術。


「うん。お父さんもお母さんも見守ってて……私、頑張るから」


 お父さんが持ってきてくれた新しい切符をスカートのポケットに突っ込んで、私は東京行きのホームへと駆けだした。


 待ってて、おにちゃん。今、私が助けにいくからね。

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