第94話
ついにこの日が来てしまった。
来ないならば一生来ないでほしかった。
できることならば存在自体を忘れ去りたいと思っていた、忌々しい日が。
きっと世の多くの親御さんと、同居しているいい歳した働いていないおっさんが、同じことを思ってやまないことだろう。
しかしながら人が生きている限り時間は進む。
太陽が昇り月が沈む度に歳月は過ぎていく。
それは誰にも止められない。
そう、時間を止めることなど誰にもできないのだ。
時の流れは、人の成長は、子供の成長は止められないのだ!!
「きょうからちぃはしょーがくしぇー!!」
「……ちぃちゃん!!」
「立派になって!!」
「らんどせーうー!! へるめっおー!! ぼうはんぶーざー!! ぴかぴかすにーかーさん!! かんぺきそうびです!!」
「……親父」
「……あぁ、陽介」
生きててよかった。
俺と親父は手と手を取り合って、我が家の天使ちぃちゃんの小学校入園を寿いだ。この時ばかりは、十年の長きに渡るいさかいも忘れて手を手を取って喜んだ。
同時に、寂しさが胸を打つ。
これから家にちぃちゃんがいない。
その事実が、虚しく俺たち在宅男たちの心に沁みる。
あぁ、これからいったい俺たちは、何を楽しみに毎日を生きればいいのか。
「かわいい、小学生ちぃちゃんはたまらなくかわいいが、ちぃちゃんロスに俺の心が果たして耐えられるのか――!!」
「陽介、お前の技術力で作ることはできないのか――VRちぃちゃんを!!」
「……!! 三百六十度、どこからでも眺めることができるちぃちゃんか!! それは確かに、いやしかし、俺にはモデリングの技術が!!」
「ワシの知り合いに、引きこもりでフィギュアとかいっぱい持ってるし作ってるやつがおる。そいつにモデルを作ってもらえるとしたらどうだ」
「やれるかもしれん!! いや、やろう、親父!! このままだと、ちぃちゃん成分が枯渇した俺たちは、遅かれ速かれ共倒れになること必定!!」
「やらんでよろしい!!」
丸めた新聞紙でべしりと頭を叩かれる。
お袋が、まったくいい歳してなにしてんだいという顔で背後に立っていた。
だってぇ、だってぇ、ちぃちゃんいなくなると寂しいんだもん。
俺と親父、家にいる男子の楽しみがなくなっちゃう。
しょうがないじゃんかぁ、ばかばか。
はい。
ほんと、いい歳してなにしてんだって感じですね。
いつもの朝。
されどもうららかな春の朝。
桜舞い散る玉椿の地にて、ついにちぃちゃんは小学校に今日から通うことになった。ピカピカのランドセルに、ちょっと大人びた格好をしたちぃちゃんは、きゃっきゃとはしゃいでいる。
子供の門出にはいい日だ。
しかしながら、男二人には娘の成長を素直に喜ぶ余裕がない。
これからはじまる、目の前の男との、むさっくるしい虚無時間を思ってしまうと、もうなんというか絶望しかわいてこない。
家、そろそろ出ようかしら。
金出してくんないかな、この目の前のクソ親父が。
「今年の玉椿小学校の新入生はちぃちゃんだけって話だから心配ね」
「えー、ちぃだけなのぉ? おともだちひゃくにんできあいよー?」
「まぁ、あれね、お姉さんたちがいるからその娘たちと仲良くしなさい。大丈夫、みんないい子たちだから」
「あ、玉椿小学校、いまそんな感じなの?」
「若い奴らはみんな出て行ったからな、年に三人入ればいいくらい。確か、去年も一人だったはずだぞ」
日田さんところの子ね。
なんか、これからちぃちゃんの面倒をみてくれるそうだけれど――。
うぅん。
ちょっと心配ではある。
結構ちぃちゃんてば人見知りなところあるからなぁ。
仲良くやれるといいんだけれど。
「……ところで、こんな肝心な日に、ババアはいったいどうしたんだ? さっきから姿が見えないけれど」
「千ちゃんなら、なんか道具を借りに行ってくるって、朝早くからバイクでどっか行っちゃったけれど」
「これから入学式だってのに、何やってんだ千寿は。まったく」
などと噂をしていれば、玉椿の大地に轟音が響き渡る。
スーパーカブにモンスターマシンのエンジンを搭載したそれにまたがって、家に帰ってきたババアは、すかさずクイックターンで駐車する。
そして、荷台に括りつけたカバンを持って、そこから飛び降りた。
すまん遅くなったと謝ってカバンの中をまさぐる。
出てきたのはそう――。
「一眼!!」
「レフ!!」
この女、ガチである。
ガチのガチガチで、娘の晴れの舞台に挑む気満々である。
もはやドン引きの俺と親父をさておいて、彼女は家の庭に腹ばいになると、借りた一眼レフを愛娘に向けてロックオンするのだった。
「ちぃ!! 目線お願いします!!」
「あぃ!!」
娘に向かって言う言葉じゃない。
そして、それにノリノリで応える娘も娘だ。
この母娘――おそろしい奴らだ。
「まったくもう、ほんと千寿ってばちぃちゃんのことになるとマジになっちゃうんだから。一眼レフ借りてくると、愛が重すぎるって感じよね。ほんと、こういうのって別に携帯のカメラで十分だと思うんだけれど」
「そういう美香さんは、今日はなんで朝からしれっと俺んちに居るんですか?」
しれっと俺の隣には、スマホを高速タップする姉の親友がいた。
あんたほんと、最近ちょっと仕事してなさすぎじゃない。
「幼馴染の可愛い娘の小学校入学を祝わない女なんていないわよ!! 馬鹿なこと言わないでようちゃん!!」
「バカなこと言ってんのはあんたですよ!!」
◇ ◇ ◇ ◇
「と、まぁ、そんなことがあって。もう今日は朝からわっちゃわっちゃよ」
「……おつかれさまだな陽介」
そういう廸子もまたちょっとお疲れ気味。
今日はババアと揃って遅出。
昼をちょっと回ってからの出勤であった。
理由はもちろん同じ。
九十九ちゃんが今日から中学校だからだ。
「うちも爺ちゃんがはりきっちゃって大変だったよ。もうね、古いカメラ持ってきて、バシャバシャーって。九十九ちゃんちょっと引いてた」
「末の妹だからなぁ。なんだかんだ言って可愛いんだろうな」
「そうそう、あとで兄妹皆に写真送るから、陽介にパソコンの使い方聞いといてくれって頼まれたんだ。また頼むわ」
「えー、めんどくせーなー」
それくらい自分でやれやといいたい所だが、やらせたらやらせたでまた町に妙な厄介事を運んできそうである。
それでなくても、なんでお前来なかったんだとドヤされること間違いない。
触らぬ神に祟りなし。
口では嫌がりつつ、いくしかねえなと俺は腹をくくった。
しかしまぁ入学シーズンか。
「いつの間にか、みんな少しずつ大人になっていくんだなぁ」
「まぁ、そりゃなぁ」
「あっという間に、ちぃちゃんも中学生になって、高校生になって。そして、この街を出ていくことになるんだろうな」
「それは分かんないぞ。千寿さんの手伝いをするって、マミミーマートで働き始めるかもしれない。他にも、町でできる仕事を見つけるかもしれない」
町でできる仕事なんて限られているけれどな。
まぁけど、そうなってくれるといいな。
そのくらいは思ってしまう。
子離れならぬ姪離れができなさ過ぎか。
どうなるんだろうね。
未来のことは分からないからな。
本当に。
ただ、彼女たちが大人になっていく、それは間違いのないことだ。
そして俺たち大人の時間もまた、彼女たちと変わらず進んでいくのだ。
「……俺たちも、そろそろいろいろ進んだ方がいいのかもしれないな」
「……え?」
「今まで、この生ぬるい関係性に慣れてというか、甘えてきたけれど、そろそろそこから抜け出す時が、卒業する時が来たのかもしれない」
頬を赤らめる廸子。
なに言っているんだよと慌てて視線を逸らした彼女にずいと俺は近づく。
カウンター越し、追い詰めるように彼女に近づいて、俺は――。
「今まではセクハラと言っても、エグイ表現はちょっと避けてきたんだけれど、そういうのもちょっとこれからは織り交ぜていこうと思うんだ。いいかな、廸子?」
「……いいわけ、ないだろー!! バカァ!!」
追い詰めた先で逆にカウンターを決められてノックアウトされるのだった。
ダメか。
そろそろこう、穏便なセクハラネタも限界なんだけれど。
まぁ、おこちゃま廸子だからな。
もうちょっと、俺も頑張って、ネタの方は調整するか。
やれやれ、まだまだ手のかかる幼馴染だぜ。
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