第2話 女一宮は仲忠を可愛いと思った。

 二人の結婚三日目と昇進の祝宴とが同時に行われることとなった。

 仲忠は靱負ゆげいの君を使いにして、女一宮にこう伝えさせた。


「只今退出しました。昇進の悦なども申し上げたいと思いますが、お出で下さいますか」


 すると一宮からはこう返事があった。


「お悦びは私も嬉しくお祝い申し上げます。只今気分が悪くて……」

「いつもこんな風にばかり仰るつもりなんだろうなあ」


 仲忠はつぶやき、まあいいやとばかりに太政大臣の大饗の所に、左右大臣と一緒に出向いた。



「背の君に、ああおっしゃって宜しいのですか?」


 乳人子が、仲忠への返事を見て驚く。いいのよ、と女一宮は返す。


「だってあの方、誰もがはいはいと言うのなんて、慣れてる様だもの。それで私も同じ様にはいはいと従うなんて嫌ぁよ」

「宮さま……」


 はあ、と乳人子はため息をつく。

 実際、一日目と二日目の寝所の中で、どんなことを二人が話し合ったのかまでは、さすがに乳人子も判らない。

 ただ、仲忠が帰る時に、どうも奇妙な表情であった様な記憶がある。


「宮さま、何か妙なことを仰ったのでは無いですよね」


 乳人子は翌朝、気怠そうな一宮に問いかけた。くすくす、と笑って一宮は何も、と答えた。

 その笑みの中に、乳人子はそれまでの一宮と違う様なものを見た気がした。



 一方、涼の方でもくすくす笑いは存在した。

 だがそれは、今宮ではなく涼の表情の上に生まれたものだった。

 暗がりの中で、最初に逢った今宮は、涼の知っているどの女よりも華奢だった。

 いくら普段姫君らしくなく、どたどたと館中を走り回っているとしても、所詮は十五かそこらの少女なのである。

 それにしても。

 涼は思い出せばくすくすと笑わずにはいられない。

 思った通り、彼女があの「女房」だった。

 最初は普段、姫君用の言葉を耳に囁き込んだ。だがしばらくして、今宮は「やめて」とばかりに彼を突き放した。

 どうしたのか、と問いかけると、彼女は慌てて御免なさい、と言った。


「どうしても、そういう言葉はむずむずするから……」


 ぷっ、と涼は吹き出した。


「ではどういう言葉なら、あなたは楽しんでくれるのかな」

「……え、ええと……」


 どうしようどうしようとばかりに、彼女は起きあがり、あちこちを見渡している様子だった。

 その度に豊かな髪が踊った。

 涼はその髪を手に取った。

 光が少ない中ではさほどには判らない。

 それでも良く知る「姫君」特有の、冷たいつやつやとしたそれとは違う様に思われる。

 むしろ、ふわふわと、暖かい様な。

 髪を探られていることに気付いて彼女は思わず逃げようとする。涼はいやはや、と思いつつ、両手にそれを巻き付ける。


「どうして逃げるの?」

「だって、その――― 綺麗じゃあないし」

「暖かいよ」

「暖かい?」

「あなたは、海を見たことがある?」

「……あるわ」

「ではその近くに住む人々を知っている?」

「知らない」

「そこでは女達も皆、強い陽の光の下、楽しそうに働くんだ。時には海に潜ったりもする」

「嘘」


 こちらを向く気配がする。


「本当」


 そこを捕らえて、引き寄せる。嫌、と少女は微かにもがく。


「興味がある?」

「え」

「海に。浜に」

「外は大好きよ」


 だから、そんなに引き留めないで、とばかりに彼女は首を横に振る。だが男の力は、優しい様で強い。


「でも、姫君はそうそう出ちゃいけないって言われてるから」

「つまらない?」

「……!」


 今宮は彼がかまをかけていることを確信した。

 それまでも薄々気付いてはいたが、彼の言葉は、次第に彼女があの「女房」であることを確信しようとする口調に変わってきていた。


「……からかっているの?」

「いいえ」

「だって、あなた、気付いているんでしょう?」

「何を?」

「私が―――」

「楽しい文を遠くまで送ってくれた女房の君のことはよぉく知っているよ。私は大好きだ」

「だからそれがからかってる、って」

「どうしてあなたがそれで怒るの?」

「言わせるの? 私に」

「言いたい?」

「……」


 どんどん、と彼女は涼の腕を、肩を拳で叩く。


「ずいぶんと元気なお姫さまだ」

「元気で悪かったわね」

「でも私はそういう女性の方が好きなんだ」


 くすくす、と涼は笑う。


「だって……!」


 即座に今宮は切り返す。何、と涼は優しく問い返す。


「涼さま、あなた確か、あて宮にも文を差し上げてたじゃない! 私知ってるわ」

「確かに。あれは礼儀。でもあなた、見抜いたでしょう? 私が本気じゃあないことを」

「……それは」

「私は確かにあて宮に懸想する、という催しに参加した様だけど、―――いや、そう言うと、今の藤壺の御方には失礼だけどね。あの方自身に興味は確かに無かったんだ」

「嘘」

「どうして?」

「あて宮に恋しない殿方は居ないわ」

「そんなことは無いよ。だいたいどうして会ったことも、文を交わしたことも無い女性を好きになれるのか、私はその方が判らない」

「え」

「私は都人の様に、噂だけで恋に落ちることができる様な雅やかなひとじゃあないからね。無骨な田舎者だ。だから、ちゃんと何度も何度も文や言葉を交わしたひとじゃないと、嫌なんだ」


 つまり、と彼は付け足す。


「私はあなただから、宣旨に従ったんだけど。あなたはどう?」


 きゃあ、と今宮は思わず声を上げる。両手で自分の頬を包む。


「駄目駄目駄目駄目、そんな、その、あの」

「そう言われても、もう駄目」


 くすくす、と笑って、涼はとうとうこの夜改めて彼女を捕まえた。


   *


 この二つの婚礼には、皆が祝福した。

 左右大臣どちらもが彼らのために大饗を行ったが、その儀式はいかにも堂々として、立派なものだった。

 さて、新右大臣の正頼の婿君となった彼らであるが。

 新中納言となった仲忠は、左衛門督と検非違使別当を兼任し、女一宮の住む中の大殿に住むことになった。

 この中の大殿は、かつてあて宮が住んでいた場所である。そこで帝や正頼の特別な配慮でもって、彼ら夫婦は豊かに、何不自由なく暮らすことができた。

 一方、もう一人の新中納言である涼は、右衛門督を兼任する。

 彼は正頼邸の中では、他の町の大殿に居場所を設えた。

 そこに金銀瑠璃、綾錦などを飾り、教典に言うところの七つの宝を山と積み、上から下までの仕人をこれでもかとばかりに飾り立て、非常に豪奢な暮らしをすることとなった。


   *


 さてその結婚生活もしばらくした頃、あて宮から女一宮へ、一通の消息文があった。


「お久しぶりでございます。結婚やらそれに伴うことで騒がしくお思いでしょうから、静かになってから、と思っているうちに、とうとう今日になってしまいました。

 ―――筑波山の嶺にまでかかっている白雲をあなたが知らずにいらっしゃるとはどうしたことでしょう。/とにかく噂のある仲忠どのにはご注意を―――

 私も被害者の一人で、いつでしたか、夕暮れにひどい目に会ったことを思い出しましたわ」


 一宮はその文を見て思い切り笑った。その声を聞いて、慌てて近くで書籍をひもといていた仲忠が問いかける。


「何がそんなに可笑しいの?」

「い、いえ別に……」


 ぷぷぷ、と一宮はなかなか笑いを堪えきれない。

 仲忠はその文に謎があるのだな、とばかりに、彼女に近づいた。


「何が書いてあるの? 見せて欲しいな」

「何でも無いわよ」


 ぴしゃん、とはねつける。

 一宮は婚礼以来、彼に対してはそういう態度を崩さない。始めが肝心だ、と婚礼直前から意識していたのだ。

 見せて、駄目の応酬が二人の間にしばらく続く。周囲の女房達は、二人の無邪気な様にも見える戯れに、ふっと笑みを漏らす。


「お願いします。見せて下さいな」


 仲忠はとうとう両手を擦りあわせ、拝む様な仕草で頼み込む。


「そんなに言うならどうぞ」


 ふふ、と笑って一宮は文を渡す。仲忠は開く。


「……」

「仲忠さま、どぉ?」


 くすくす、と一宮は笑う。


「僕がそういうことはしなかったことを、あなた達は知っているというのに…」

「あら、そんなこと、判らないわ。とかくこの世は、女がどうこう言っても、男の方の言い募ることには負けてしまうのですから」

「怒っているの?」

「いーえ」


 怒っている訳ではない。一宮は仲忠があて宮には恋してはいなかったことを気付いている。今までの文やら、入内後の対応を見ても判りやすい。


「怒らないで」

「はいはい。でもちょっとどいて下さいな。あて宮に御返事をしなくちゃ」


 するとしょぼん、として仲忠は再び書物に目をやる。

 一宮は文を書く準備をさせる。その間も、仲忠はちらちらと一宮の方を気にしている。可愛い、と彼女は思った。

 そう、可愛いのだ。

 幾つも年上の男を相手にして言うのも何だが、一宮は婚礼以来、仲忠が可愛くて仕方がない。

 彼女は元々、人々が賞賛する綺羅綺羅しい彼に惹かれた訳ではない。また機会が無かったので、噂される素晴らしい彼の琴を聞いた訳でもない。

 確かにきっかけは綺羅綺羅しかったが、何と言っても彼女は女一宮である。皇女である。自分に釣り合う男、というものを、興味無い素振りの中でも、無意識に推し量っていた。

 するといつの間にか、身分やら出世やら、そういう点がどうでもよくなってきた。


 そんな折りに、時々仲忠が疲れた様に休んでいる姿を見た。

 その時の目が。

 何に対しても興味が無い様な、虚ろな目が。

 凄く嫌だった。

 どうしてそんな目ができるの、と思った。

 何もかも恵まれている様に見えるのに。どうしてそんな、疲れた様な。

 だが誰かが呼ぶと、すぐににこやかな顔で戻って行く。貼り付けた様な笑顔だ、と彼女は思った。

 貴族は確かにそういう表情を得意とするが、それにしては、格差が大きすぎた。


 それから何かあると、彼の動作が目に入る様になった。

 孫王の君と交渉があることも彼女は知っていた。だから婚礼前に彼女をこっそり呼び寄せた。

 乳人子は何故その様なことを、驚いたが、聞きたかったのだ。彼のその瞳の理由を。



「そう御覧になったのですか……」


 孫王の君は一宮の前で、目を伏せた。そして一宮に向かって、深々と頭を下げた。


「一宮さま、申し上げて宜しいでしょうか」

「言って。孫王の思ったことを、どれだけでもいいから言って」


 はい、と孫王の君はうなづく。


「仲忠さまは、決して器用ではございません」

「そうなの?」

「その証拠と言っては何ですが、あの方は私以外には、女房達とも格別関係をお持ちではありません。あの方は、―――女というものを、何処か怖がっておられます」

「怖がって? でも孫王――― 孫王は違ったの?」


 宮さま、と乳人子は軽く制する。孫王の君は苦笑する。


「私はあのかたの、幼なじみなのです」

「幼なじみ?」


 それは初耳だった。乳人子も知らない、とばかりに首を横に振る。


「それも、ずっと忘れておりました」

「忘れて」

「私は悪い女です。馬鹿な女です。私があの方に、宮さまとのご結婚が決まったなら、もうお付き合いは止めようと言い出した時、あの方の口から明かされました。私が気付いていなかったから」

「どういう……」

「宮さまのお耳に入れていい類の話ではございません。ただ、私は当時まだ、上野宮かんづけのみやの父の元におりました。小さな頃のあの方に私は、少しだけ援助をしたことがある―――それだけのことです」


 あとは察してくれ、とばかりに孫王の君は言葉を濁した。



「僕はずっとあなたが好きだった、孫王の君」


 仲忠は最後の夜、確かにそう言った。


「あなたしか、あの僕に、何の見返りも無く優しくしてくれたひとはなかった。あんなぼろぼろの格好の、汚い子供の僕を抱きしめてくれるひとは居なかったんだ」


 そう言って仲忠は、孫王の君をぎゅうぎゅうと苦しくなる程に抱きしめた。


「だけどあなたまで、僕を見捨てるんだ」

「お見捨てなどしません」

「だって僕から逃げようとしているじゃないいか」

「私もあなた様のことはとてもお慕いしております。けど」


 けど? と仲忠はすがる様な目で、彼女を見た。

 そして絞り出す様な声でこう言った。


「……僕を捨てないで」


 母上の様に、と聞こえるか聞こえないか位の声で言った気がした。



「あの方は、私に自分だけ、というものを求めていらっしゃったのです」

「それはできなかったの?」

「私はあて宮さまにお仕えする身です」


 一宮は眉を寄せる。


「それと一体」

「あて宮さまもまた、仲忠さまと良く似てらっしゃいます」

「あて宮が?」

「お二人とも、本当のお気持ちを言える相手が殆どいらっしゃらない」

「兵衛は―――」


 あて宮の乳人子が兵衛である。


「兵衛さんはいい方です。でも優しいひとです。そして宮中は、後宮は怖い所です。時々兵衛さん自身が、疲れ果ててしまう程に」

「そんな」

「それに仲忠さまは、男の方ですから、男のお友達であったり…… 何かと気晴らしなさる術もあるでしょうが、藤壺の御方はそうは」

「だってあて宮は、東宮さまに、誰よりも愛されているじゃない!」


 思わず一宮は身体を乗り出す。


「そう見えるわ、もう露骨にそう見えるじゃないの! 誰よりも足繁く呼ばれているって聞くわ。退出をすぐに許さない程だ、とか退出してもすぐに帰るように、って文が毎日何通も来てたじゃない」


 それは一宮も知っている。祖父正頼は、東宮さまのご寵愛が深いおかげだ、とどれだけ嬉しがっていたことだろう。


「その辺りは、私ごときには伺い知れません。あて宮さまが、東宮さまをどうお思いになっていらっしゃるか――― ただ、もしそうであったとしても、……」


 孫王の君は言葉を切る。何かを探す様に、視線は宙を彷徨う。


「私は、女房です。誰かの一人の妻であるより、あて宮さまの女房で居たいと思うのです」

「仲忠さまを捨ててでも」

「はい」


 きっぱりとした声だった。


「あの方には、私の様な立場の弱い者がすがりながら支える様なものでは駄目なのです。私では、あの方をどんどん駄目にしてしまうだけです。でも宮さま」


 顔を上げる。


「仲忠さまは、自分をきつくきつく縛ってくれる様な方が欲しいのです」

「殿方は自由でいたがるというけど」


 いいえ、と孫王の君はきっぱりと言い放つ。


「仲忠さまは、違います」


 一宮は、最初の夜から、何となく孫王の君の言うことが判った様な気がした。

 あれほど余裕のある公達に見えたのに、自分におそるおそる触れてきた。

 怖がるのは、恥ずかしがるのは自分のはずなのに、何故かそれどころでは無くなってしまった。

 そして、彼女はその時初めて、仲忠を可愛いと思ったのだ。

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