女神に贈る竜の宝珠

瀬生莉都

壱 魔物と戦う娘

 ここは竜の末裔の治める国。

 つい先日、二人の王子のうち兄王子が父王より王位を継承し、妃を娶ったと言祝ぎがあった国。

 先祖よりも強い力を持つ兄弟に護られたこの国はさらに繁栄するだろうと誰もが信じている。

 そんな国の、お話。






 広い広い森の中、ほんの少しだけ開けた場所。

 そこの岩場に身をひそめ、あたりに耳を澄ませる娘が一人。


 



 風が、鳴る。

 徐々に近付いてくる獣の咆哮に耳を澄ませ、里珠りしゅはゆっくりと呼吸を整えて岩場に立ち上がった。迫り来る地響きに距離を測りながら、使い込んだ長槍を構える。

 木々がへし折れる盛大な音がして、里珠の見下ろす右手から巨大な影が目の前の開けた空間に飛び出してきた。

(今!)

 同時に足場を蹴り、里珠は勢い良く空中へと飛び出す。放物線を描いた落下先は、目の前を駆け抜けようとする巨大な犬のような獣の頭上。

「はあああっ!」

 掛け声と共に、長槍を突き下ろした。

 最初からの狙い通り、頸に全体重をかけた一撃。

 一瞬の空白の後、耳をつんざくような咆哮を上げ、獣は速度を増して木々の中へ突っ込んでいく。

「まだ止まらない!?」

 里珠は慌てて獣の背にしがみついた。でたらめに木々の間を走り抜ける獣が吹き飛ばす枝の一部が頭上を飛んでいく。

 がくりと獣の体が前に崩れた。どうやら獣が力を増したのも一瞬で、徐々に足元はおぼつかなくなっているようだ。それでも力尽きる前に村へたどりついてしまう可能性もある。

 どのくらい耐えたものだろう、激しく揺れる獣の身体の上を何とか移動し、里珠は腰に手挟んでいた長刀を翻すと獣の額と思われる部分の中央へ突き立てた。

 瞬間、獣は大きく身を捩る。空中に弾き飛ばされそうになり、里珠は必死になって長刀の柄につかまった。躍り上がる身体を容赦なく伸びた枝葉が叩く。

 手放すわけにはいかない。もしここから落ちてこの獣の足蹴にでもされたら、どんなことになるのか――。



 突然視界が開け、あたりから木々の気配が消える。

(まずい、集落に出たの!?)

 しかし振り落とされないようにつかまっているのが精一杯で、里珠は顔を上げることができなかった。

 森の外に出てしまったのなら、少し駆ければすぐに集落がある。まだ勢いは収まらない、最期のあがきとして人や家畜を襲ってはたまらない、畑に入り込まれるのも困る。なんとかしてここで止めなければならない。

 里珠は長刀の柄を握る手にぐっと力を込めた。

 槍で頸を刺した。長刀では額でなく目を狙うべきだったのかもしれない。この巨大な獣は、気味の悪いことに一つ目なのだ――魔物と呼ばれる生き物である。

(なんとか……もう一度!)

 魔物の体にしがみついたまま、里珠は強引に顔を上げた。



 そのとき。

 空気を高く鳴らして、獣のたった一つの目玉に矢が突き刺さった。

 咆哮が耳をつんざく。最も弱いところを突かれたらしい魔物はそこが限界だったのだろう、糸が切れるように、そのまま地面に崩れ落ちる。

 勢いに任せて長刀を抜こうとしていた里珠は慌てて衝撃に備えた。

 獣の巨体が倒れる振動に耐えた後は舞い上がる土煙に襲われる。涙目で咳き込みながらも魔物からは目を離さない。

 足元の巨体は、ぴくりとも動かなくなった。

「……なんとか、かな……」

 完全に討ったと判断し、ぽつりと呟く。

 ようやく立ち上がって、里珠は自分の姿を確認した。

 すっかりボロボロだった。衣服は埃からなにからで薄汚れあちこちに裂けた跡があるし、腕や足は木々に突っ込んだせいで言うまでもない。まとめていた腰までの黒髪もいつの間にかほどけてしまいぼさぼさだし、これではきっと顔も傷や汚れでひどいことになっているに違いない。おまけに口の中まで砂だらけである。

(最近の魔物は、本当に強くなってきた)

 最初は一人でもなんとかなったのに、最近は出会う度に巨大化しているのだ。頑丈になって一撃では仕留められなくなった上に、ごくまれに炎や毒の混じった唾液を吐く魔物にも会ったことがある。

 そろそろ、限界なのだろうか。

 現に今も自分の力だけで魔物を倒したのではない。どこからか飛んできたあの矢、あれがなければ勝てなかったかもしれない。

 一体どこから――。

 はっと我に返って里珠は慌ててあたりを見回した。






 一瞬、頭上の陽が陰り、風と共に横に大きな影が降ってきた――絵物語で見たことがある、飛竜だ。その背に体格の良い男性が乗っている。

「いや、見事な腕前だった」

 初めて見る本物の飛竜に唖然としている里珠をよそに、青年は朗らかに声をかけてきた。何かとても面白そうなものを見つけたような表情をしている。

 誰だろう、と里珠は思ってしまった。ここは竜の末裔の治める国、竜がいておかしいことは何もないが、飛竜に乗れるのはその竜の一族でもごく限られた者だけであるという。こんな国境付近の僻地で見かけることなどまずないのに、何故こんなところに?

「ここでこのような戦士に出会えるとは思わなかったな」

 青年の手に弓が握られていることに気づき、里珠は彼に助けられたのだということを知る。

「あなたが助けてくださったんですね。ありがとうございます」

 里珠は慌てて礼をした。黙って眺めてしまったのはぶしつけだった。彼がいなければまず間違いなく自分は敗北していただろう。

「いや、ひとつ間違えば逆に危ないことだったかもしれない。長刀を振るおうとしていただろう」

 間合いがずれていたらその矢が当たっていたかもしれない――そう言う青年に里珠は頭を振った。

「いいえ、おかげで無事魔物を討てました」

「そうか。それならよかった」

 鷹揚に答えた青年はにっこりと笑う。その笑顔からは人懐こいような印象を受けた。体格からたぶん武人なのだろうと判断する。先ほどの矢も完全に目玉の中央を射抜いていた、相当な弓の使い手だ。間合いがずれていたらと言っていたが、里珠が動けそうにないことも見越してあの矢を射たに違いないのだ。

 青年は軽やかな動きで飛竜の背から降りた。隣に立たれると、背も高いことがわかる。里珠の背も同年代の娘の中では多少高い方だが、それでも見上げないと視線が合わない。

 青年は目を眇めて足元に倒れ伏す魔物を睨んだ。瞳の光が鋭く増すと、先ほどの人懐こい印象ともまた様子が変わってとても不思議な感じがする。

「ここではこんな魔物がよく出るのか?」

「はい。毎日現れるわけではないけれど、前よりは確実に増えていると思います。ここ最近は休む間もなくあちこちから呼び出されます」

 里珠は青年の問いに頷いた。魔物退治の依頼は日々の家事仕事より多く、もはや日課である。

 青年は腑に落ちたように表情を明るくする。

「ああ、ではあなたがこのあたりで『女神』と呼ばれている人なのだな」

「……なんで知ってるんですか!?」

 思わず叫んでしまった。

 とても恥ずかしい。しかも他人の口から真剣に言われるのは非常に恥ずかしいことだと今知った。

 何か特別な力があるわけではない。ただ、国に武人として仕えたことのある祖父と今も仕えている父から手ほどきを受けていたというだけのことだ。幼い頃から鍛えられてきたせいで気配や風を読むのは得意という程度。

 ただ、下手に武器の心得のない男よりも戦い方を心得た里珠の方が機敏に動くことができ、魔物と戦えた。始めは冬場の男手のない時に魔物が現れたからとはいえ、戦う力があったから里珠は飛び出したのだ。そうして里珠は季節関係なく魔物退治に赴くようになっていた。

 そしてついた呼び名が『護り神』だ。武器を振るい魔物を討ち伏せる姿が美しいからと『守護の女神』などという大層な呼び方をされることもある。多少大袈裟ではと思ってはいたが、戯れやからかいだと適当に流していたのだけれど。

「報告書にそのように書いてあったが……」

「みんなが勝手にそう呼ぶだけです!」

 まさかこんな、飛竜に乗るような立場の人が見る書類にまで書かれるだなんて。全力で否定して止めておけばよかったと里珠は今更ながら後悔した。

「誰かがやらなきゃいけなかったんです。みんな魔物に困っていて、私はそれをなんとかする力が他の人よりあって、ただそれだけで……だからそんな立派なものじゃないんです……」

 力仕事をする男性たちに比べたらずっと非力だ。父や祖父ならもっと楽に魔物を倒せるだろう。国を治める竜族直轄の部隊――つまり今目の前にいる飛竜の乗り手のような人たちなら、おそらくもっと簡単に魔物退治をするのだ。

 でも今ここでは自分が最適だった。自分しかいなかった。しかし、魔物は徐々に強くなり、この先一人で戦いきれるかも怪しいのだ。神の名を冠するだなんて、とても。

「自分に力があるからと魔物にひとりで立ち向かえるのはとても立派なことだと思うが。誰にでもできることではないだろう。それに、先ほどの戦いっぷり、十分戦女神と呼ばれるにふさわしかった」

 何の混じりけもない純粋な賛辞に、里珠の顔は真っ赤になった。こんな風に言われるのは初めてだった。恥ずかしいような嬉しいような何とも言えない気分になる。

「え、は、あ……ありがとうございます」

 初対面の人相手に何をやっているんだろうと思った。





「……今まで誰も、来なかったんだな」

 青年の声が少し低くなる。里珠が顔を上げてみると、青年は少し怒っているようだった。

 魔物は以前から現れるようになっていた。里珠の村の長をはじめ、周辺の集落からも歎願や報告は上げていたと聞くが、今まで特に都から人が来たことはない。

 この国を治めるのは、少し前に王位を継いだばかりの若き竜の末裔だ。竜王と呼ばれる国の長はその力をあまねく領地に放ち守護を与えるとされている。だが、里珠の住むこの地には魔物が現れて人々を脅かしているのは事実。

 ここは国の中でも辺境だ。主要街道が通るわけでもなく、国の重要な資源がとれる場所でもない。国境には近いが重要な関所があるわけでもない。

「村長は報告しているとは言ってました。でも、こんな国のはずれに陛下の加護が届かなくても仕方ないと」

「仕方なくはないだろう」

 里珠の言葉は青年の怒りをはらんだ言葉に遮られた。先ほどよりもずっと怒っている。瞳に宿る光は見るものを射抜きそうに鋭い。

「ここは竜王の護るべき領地だろう。捨て置かれていい場所なんてあるはずがない」

 すまない、もっと早くに知らされるべきだった。来るべきだった。

 そう言われて里珠は目を瞠り、そして飛竜を目に留めて思いつく。

 そうだ、この人は飛竜に乗れるほどの人なのだ。国の中枢にずっと近い人。

「助けて、くれるの」

 里珠が思わず呟くと、青年の瞳の光は和らぎ、優しい笑顔が浮かぶ。

「当たり前だ。民を護るために国と王はあるんだろう?」





 依頼された村の長に無事魔物退治ができたことを報告し、里珠は自宅へと戻った。

 出迎えてくれた母は傷だらけの娘の帰宅に一瞬沈黙したが、怒りもせず労わってくれた。まずは武具の手入れを……と思ったのだが、これは強引に取り上げられた挙句ものすごい勢いで湯屋に追い立てられてしまった。

「手当の前にまずはその汚れを落としていらっしゃい。これは母さんがしておきます」

 その剣幕に抵抗できず、里珠はおとなしく湯に向かう。普段から頻繁には入れるわけでもないが、近くに大きな湖と森を抱える里珠の村ではそれなりに習慣化していた。

 汚れを落とし新しい衣服に着替えるとさすがに人心地がつく。

 里珠はほっと一息つくと鏡を覗き込んだ。あれだけの状況だったのに奇跡的に顔に傷は負わなかったようだ。万が一顔に傷をつけたら嫁入り前なのにと母に嘆かれるのは目に見えている。今もきっと滲みる薬が用意されているに違いない。

 それでも母は魔物退治を決してやめさせたりはしないのだ。

 婚姻の時に困るからと母の厳命で伸ばしたままの髪は腰まであり、里珠はそれを結い上げながら昼間のことを思い返す。



『戻ったら、早速手配しよう。この飛竜ならば都まではすぐだから、数日しないうちに対応できるはずだ』

 初めて会う人なのに、里珠はこの青年を全く疑わなかった。飛竜に乗れるのはごく限られた人だけ。しかも乗り手を選ぶというから、盗んだ竜に乗っていたり身分を偽っていたりということもないだろう。

『事情を聞くために伺うこともあるだろう。名を教えてもらえないか』

『西封村の里珠と申します』

 地図にも載らないと揶揄されるほどの辺境だ。それでも青年はその名を知っているようだった。

『里珠殿か。西封ならば湖が目印になるな、分かった』

『あの……あなたの、名前は?』

 少し迷って里珠が尋ねると、青年はああ、と思い出したような顔をする。

『名を訊くのなら、こちらが名乗るのが先だったな。申し訳ない。俺は、獅苑しおんという』


 しおん、と里珠は口の中でその名を転がす。花の名前にも似た不思議な響き。どこかで聞いたことがあるような気もするのだけれど、里珠は思い出すことができなかった。 

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