十話 蜜毒に溺れる夜


 教会の最高権力者としてその座を預かり、教皇と呼ばれるようになってからどれくらいの時が経っただろうか。


 そして、『彼女』と過ごす夜もまた、一体どれだけ積み重なったのだろうか。


「狂信者さまはとても可愛らしい方だわ。大切なもののために戦う男性って素敵。それに、とても若いわ。まるで子犬のよう」


 くすくすと笑いながらグラスを傾け、ワインを楽しむ彼女は何年経っても変わらない。

 緩く巻かれた髪と、熱っぽく潤む瞳は目も覚めるような鮮やかな紅。一糸纏わぬ姿でベッドに腰を下ろす様は毒々しいまでに淫らだが、雪のような肌はまるで男を知らない少女のそれ。

 どれだけ唇を這わせても、何度爪を立てても彼女の肌に傷は残らない。十分も経っていないのに、鎖骨に咲かせた鬱血痕は今にも消えてしまいそうだ。

 手に取らせて、極上を味わわせておきながら絶対に手に入らない淫らな夢。

 それが彼女、血の伯爵夫人という吸血鬼だ。


「おや、貴女が吸血鬼に興味を持つとは珍しい。やはりこの老体では満足させられませんでしたか?」

「あらロメオってば、いじけてしまったの? 可愛い坊や、こちらへおいでなさい」


 着替えようとした手を止めて、わしは彼女に招かれるままベッドに戻った。空になったグラスはサイドテーブルに置かれ、蝶のような手が肩に止まり、細い指が撫でるようにしてシャツを滑り落とす。

 頬を擽られ、甘い香りと共に口づけを贈られれば、どんな男も逃げられない。吸血鬼だという嫌悪は、とうの昔に溶かされた。


「ねえ、ロメオ。今からでもわたくしのものにならない? 永遠にわたくしの兵士として、可愛がってさしあげるわ!」

「光栄ですが、お断りします。わしは、ロメオ・ヴァレンシアは命が尽きるその時まで、教皇としての職務を果たさなければなりませんから」

「あら生意気。それじゃあ、次はちょっとイジワルしちゃおうかしら」


 ベッドに押し倒され、彼女がくすくすと笑いながら跨ってくる。可憐な蝶に弄ばれ、卑しくも熱を帯びる欲が夫人の中へと飲み込まれる。

 彼女の太腿を伝う白濁が一滴、シーツを汚した。


「そうそう、狂信者さまのことなのだけれど。わたくしが頂いてもよろしくて?」

「ッ……そんなに、お気に召したのですか?」

「ええ、とても。彼のことを考えると、胸がドキドキしてしまうの」


 ほら。そう言って彼女はわしの手を取り、自分の胸元にあてさせる。雪のように白い肌は瑞々しく、熱い。

 彼女の腰がゆらりと踊り、もどかしい快感が理性を擽る。柔らかく、形のよい膨らみがすぐそこにあるというのに、彼女の手は触れることを許さない。


「ねえロメオ、これってやっぱり恋かしら。わたくし、狂信者さまに恋しているのかしら」

「……この状況で他の男の話をするとは、お行儀が悪いですぞ」

「神に信仰を捧げるあの方は、どんな風に女を抱くのかしら。いいえ、もしかしたらそんな経験ないかもしれないわね。うふふふ。こんな風に組み敷いたら彼、どんな可愛らしい顔を見せてくれるのかしら。想像するだけで、熱くなってしまうわ」


 夫人が鮮やかな血色に色づく唇を指でなぞりながら、うっとりと目を細める。まるで恋い焦がれる少女が、持て余す欲を自らを慰めるよう。

 ということは、今の自分はそういう玩具か……彼女だけが満足するためだけの行為がもどかしい。


「はあ……これまで集まった情報から判断しますと、今の教会ではダンピールであっても狂信者には歯が立ちませぬ。ですので、貴女が欲しいのならどうぞお好きに」

「あら素直。素直な子は好きよ。嬉しいから、ご褒美をさしあげるわ」


 夫人の両手が、わしの両手に指を絡められた。ご褒美、の意味を掬いとって彼女に自分の浅ましい熱をぶつける。

 金糸雀が歌うような嬌声が、紅い唇から溢れた。焼ききれる理性。夢中で彼女を貪るように愛し、実らない種を注ぎ込む。

 彼女は真祖の吸血鬼になってから、一度も身籠ったことはない。真祖を孕ませるには、同等の存在でなければならないのだろう。


「あん、相変わらず激しいわね。十年前よりも老け込んだくせに、生意気だわ」

「貴女があまりにも魅力的なので」


 強がってはみるが、もう限界だ。明日は立ち上がることも難しいかもしれない。

 虚勢を張ったのが伝わってしまったのだろう。夫人は何事も無かったかのようにベッドから落ちて立ち上がると、そのまま窓際に寄って窓を開け放った。

 冷たい夜風が彼女の髪を大きく揺らし、月明かりが美貌を飾る。


「でも、正直なところわたくしの兵隊でも狂信者さまを止めるのは難しいと思うの。だからね、ロメオ。わたくし達、協力しない?」

「協力……ですか?」

「ええ、今以上に。例えば、前に言っていた……ダンピール強化剤、だったかしら。そのお薬の完成に必要なものを提供してあげる」


 艷やかに微笑して、夫人が髪を押さえる。さながら絵画のような美しさに、息を飲む。


「その他のことは、後でお話ししましょう。今夜は楽しかったわ。いい夢を、ロメオ」


 一際強い風が吹き込むのと同時に、夫人は霧のように姿を消した。これは夢か、それとも現実か。

 すぐに訪れる睡魔に身を委ねる。嵐の前の静けさ、というには甘過ぎる、蜜のような毒に溺れた夜だった。

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