一章
絶望
一話 変わり者の神父
時は前日に遡る。
ようやく冬の寒さが和らいできた、穏やかな昼間。届いた一通の封筒を握り締め、俺は家から飛び出した。
宛先にあるレクス・フラート――間違いなく、俺の名前だ――を何度も見返して、中に入っていた書類の内容を繰り返し読み返して。今にも口から零れそうな鼻歌を何とか堪えながら、いつもの道を走る。
髪を揺らす風は柔らかく、コートがいらないくらいに暖かい。すっきり晴れた青空が眩しくて目を細める。
すると、丁度通り掛かったトラックが少し通り過ぎたところで停車し、運転席から顔を出したおじさんが俺を呼んだ。
「ようレクス、今日も教会か?」
「こんにちは、ドナートおじさん。試験の結果が届いたので、神父様にご報告しようかと思いまして。おじさんは畑仕事ですか?」
「おうよ。やっと雪が溶けてきたからな。そうか、レクスはエスパーダ大学を受けたんだったか。結果は……その嬉しそうな顔を見れば聞かなくても伝わってくるぜ。ほんと、村一番の勤勉さだな」
ニヤニヤと指をさしてくるドナートおじさんに、俺は慌てて頬を押さえる。どうやら嬉しさを隠しきれていなかったらしい。
「うう、恥ずかしい」
「ははっ。今までの努力が報われたんだから、素直に喜んでおけよ。じゃあな、キュリロスさんにもよろしく言っておいてくれ」
手を軽く振ってから、ドナートおじさんが段々畑に向かって車で走り去って行った。おじさんの言葉が、じわじわと胸に染み込んでいく。
夢じゃない。今までの努力が、本当に報われたんだ。
「……へへっ。これで少しは、ライラに近づけたかな」
世界中を飛び回って活躍している恋人を思いながら、俺は再び教会へと急ぐ。ほんの一歩だが、彼女に追い付けた手応えをようやく実感が湧いてきた気がする。
ここはクローゼ村という、首都プラティーナから遠く離れた田舎村である。人口は四百人にも満たない上に、これと言って取り上げるような特色も無い。
あえて言うなら村全体が家族のように仲が良く、こんなご時世でも平穏な時間が流れているということくらいだろうか。
「こんにちは、レクスくん。最近、ライラちゃんと連絡取ったりした?」
買い物を片手に、すれ違い際に話し掛けてきた中年女性。彼女はオレリーさんと言って、俺の家の近所に夫と二人暮しをしている女性だ。子供に恵まれなかった為か、俺のことを実の息子のように可愛がってくれている。
いや……俺と幼馴染のことを、と言った方が正しいか。
「こんにちは、オレリーさん。ライラは……いや、あいつ……忙しいみたいで。最近は全然」
「そう、やっぱり忙しいのね。最近、国境沿いでまた大きな戦争があったんでしょう? 吸血鬼なんて早く駆逐されて欲しいわ。もしライラちゃんから連絡が来たら教えてね」
じゃあね、とオレリーさんが立ち去る。色々と思うことはあるけれど、今は考えないでおこう。俺は気持ちを切り替えて、青い屋根が目印の教会へと向かった。
※
この村の教会を管理するキュリロス神父は、村の住人が全員頷くくらいの変わり者である。
「神父様!」
教会の扉を開け礼拝堂の中へと飛び込む。それほど広くはない堂内は虹色のステンドグラスから漏れ出る光に照らされて、何とも幻想的な空間となっていた。
「おや、レクスくん。どうしたんだい、やけに嬉しそうだね?」
「あ、えっと……すみません、キュリロス神父様。お祈り中でしたか」
長い髪をさらりと揺らしながら、キュリロス神父様が振り返り穏やかに微笑んだ。この辺りでは珍しい黒髪に、深い緑色の瞳。線が細く整った容姿は中性的な雰囲気だが、その身に纏うのは古めかしいカソックである。
彼と出会って十年程経つが、休日でもこの装いなのだから物好きである。身なりを整えれば、すれ違う人が振り返らずには居られないような麗人だ。
「構わないよ。愛する信者に喜ぶべきことがあったんだ、神は必ず寛大な心で許してくれるとも」
「は、はあ。それなら、良かったです」
「それで、何があったんだい?」
招かれるまま聖堂内に足を踏み入れ、神父様に封筒を渡した。多少よれてしまった封筒を神父様は丁寧に開いて、中の書類に視線を落とした。
……どうしよう、そわそわする。
「おお、無事に合格したんだね。おめでとう、レクスくん」
「ありがとうございます! 神父様にはずっと勉強の面倒を見て貰っていたので、こうして入学試験に合格出来て嬉しいです」
村民の大半は中等学校、もしくは高等学校が最終学歴だ。俺のような若者の中には大学に進学し、都会へ出て行く者も少なからず居る。
そして俺も、昔から抱いていた夢を叶える為に、首都にあるエスパーダ大学へ進学する為に試験を受けていたのだ。
こんな田舎に居ながら合格出来たのは、神父様がずっと勉強を教えてくれたから、なのだが。この人は決して自分の能力や功績を誇ったりしない。
「それは違う。確かに私はきみの教師役を担っていたけれども、全てはレクスくんの努力による結果。そして、きみが頑張っている姿をずっと見守ってくださった神の祝福のおかげなのさ」
「そ、そうですか」
「そうだとも。さあレクスくん、一緒に神に祈ろう。祝福をくださった神へ感謝を述べ、そしてこれからの道行きも見守ってくださるようにお願いしようじゃないか!」
勢いに押されるまま、神の彫像の前で膝をついて祈りを捧げるよう促される。
仕方ない。潔く諦めて指を組み目を瞑れば、隣りで神父様も同じように膝をついた気配が伝わってきた。俺は薄く目を開いて、静かに祈りを捧げる彼の横顔を見る。
神父様……キュリロス神父は、科学が発展した現代において珍しく真面目で熱心な聖職者だ。近年の教会は医療や武器開発、ライフラインの整備など幅広く手掛けている巨大な組織と化したというのに、彼は未だに人々に神の教えが何たるかを説こうと日々奮闘している。
こういう性格が少々煙たがられているものの、キュリロス神父は教会の仕事だけではなく孤児院の管理や子供達の教育、村人の診療など多くの役割を担ってくれている為に基本的には皆に頼られ好かれている。
それにしても、神か……本当に存在するかどうかはわからないものへ祈るなんて、虚しい行為だ。返事とかあればまだマシなのだが。
「そうだ、レクスくん……うん? どうかしたのかい?」
「うえっ!? い、いや! 何でもないですが、何でしょう!?」
「ふふっ、相当試験に合格したのが嬉しいみたいだね? 明日の授業なんだけど、久しぶりにきみに先生を頼んでも良いかな?」
「え、授業ですか?」
祈りを終えて立ち上がった神父様にならって、俺も立ち上がりながら思わず聞き返した。頭半分くらい高い位置にある緑色の目がいたずらっぽく笑って、俺を見返す。
「うん。さっき見せて貰った書類によると、入学式まであまり時間がないじゃないか。これからは引っ越しの準備で忙しくなるだろう? だから、その前に見事エスパーダ大学に合格したレクスくんが授業をしてくれたら、子供たちも勉強の励みになるんじゃないかと思ってね」
でも、と神父様が続ける。
「無理はしなくても良いよ。別の日に開く『頑張ってお勉強しに行ってね会』は参加必須だけど、これは今思いついただけだから」
「な、なんですかその会」
お別れ会とか激励会とか、そういう類のものだと思っておこう。
何にせよ、子供達の為なら断る理由は無い。
「大丈夫です、やります。何の授業をすれば良いですか?」
「そうだなぁ……やっぱり、きみの専攻である『吸血鬼学』が良いんじゃないかな。ほら、最近また激しい戦闘があったっていうから、皆の興味も引きやすいと思うし」
「わかりました、準備しておきますね」
そう言って、俺は翌日の準備をする為に教会を後にした。
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