第27話 「いつまでも目をつぶっている訳にはいかないんですよ」

「ハルさん電話ですよ」


 翌々日の夕方である。


「……はいもしもし…… ああ、カラセさん」


 一応彼は年上らしかったので、そう呼んでみる。


『参っちゃったよー。オレあんたの名前忘れちゃってて』

「それでよく通じたわねえ」

『お姉さんの方、って言ったんだけど』

「……それで、どうしたの?」

『やだなー、こないだ言ったじゃない。バンドの練習の』

「……ああ」


 そう言えばそうだった。女の子が来るとどうの、という発言にちょいとカンに障るものがあったんで、意識的に記憶を逸らしていたようである。


「いつ?」

『明日の夕方、5時にあのスタジオ予約とってあるからさ、おいでよ。2時間たっぷりあるし』

「可愛げのない女二人が行ったところでつまんないんじゃないの?」


 少し意地悪を言ってみる。


『いやいやそんな』

「……冗談。うちの女の子はキョーミありそうだからね、行くよ」

『女の子、って、あんたがまほちゃんって呼んでいるって?』

「……そうだけど」

『妹さんのマホちゃんはどうしたの?』

「……事情があって、しばらくいないの」


 嘘ではない。


『……ふーん…… じゃ、オレもあの子はまほちゃんって呼んでいいのね?』

「手え出したら怒るわよ」

『……わかりました。ところでおねーさん、名は何て言ったっけ』

「波留子よ」

『……ああそう言えば、ハルさんって呼んでたね。じゃ、明日ね』


 受話器を置いてから、ハルは半ばしまった、と思った。

 もともとハルは彼のやっているバンド自体には興味はない。ただ、カラセは「マホ」を知っている。それも自分の知らない範囲の彼女を。

 そしてそれを自分は知りたがっている。「まほ」が興味を持っていることは本当だが、口実に過ぎないことも知ってはいる。


「……どうしたんですかハルさん…… 顔色良くない」


 掃除機を持ったまま、マリコさんは受話器のそばでぼうっとしているハルに言った。ハルは考え込んでしまっていたことに気がつくと、


「マリコさん…… そう言えば最近ユーキ君元気?」

「元気なようですよ」


 表情一つ変えずにマリコさんは言う。


「会っていない?」

「私たちはそういう関係って訳じゃあないですよ」

「……!」


 マリコさんは掃除機を階段下の物置に入れると、お茶いれましょうか、とハルに訊ねた。


「廊下でする話じゃあないでしょう?」


 確かにそうである。


「寝たりはするんですがね」


 淡々と、マリコさんは言う。


「でも、私たちは友達なんですよ」

「いつから?」

「あの雷の日ぐらいですか。まださほど経ってはいませんね」

「好きなの?」

「あなたが彼に思う程度には、好きですよ。でも恋愛じゃあない。それは彼だって同じだし、私たちはそれ以上のことはする気もないし、望みもしない」

「だからと言って」

「寝る関係にならなくても良かったんじゃなかったって?」


 次の瞬間、ハルはギクリとした。マリコさんがにっこりと笑ったのだ。

 目以外の部分に、まんべんなく、笑みをたたえたその表情は、……怖かった。これまでになく怖いものだった。

 マリコさんという人は感情がない訳ではない。

 出さないだけなのだ、ということを時々鮮やかに思い出させる。確かに神経が太いのかもしれない。だが、それだけではない。非常に強固な意志でガードしているのだ。それも、身近な人間に特に気付かせないようにするために。


「どうしてでしょうね?」

「……あたしに訊くの? あたしが答えられる訳ないじゃない!」

「でも私たちの関係の中心はあなたなんですから」

「はい?」


 ハルは困惑した表情になる。

 どう言ったものか、と目の前の茶を飲み干す。ところが焦った喉に暖かい飲物は、ただ乾きを誘うだけだった。バランスを崩して、思わず咳込んでしまう。大丈夫ですか、とマリコさんは慌てて背中をさする。


「……大丈夫…… それより、コトバの意味が判らない! どういう意味なの? あたしが真ん中にあるって」

「判りません?」

「判らない」

「私たちは、あなたのことを、同じくらいに好きなんですよ」


 先程の笑顔のままで、言う。

 ハルは一瞬息を呑み、その拍子で再び激しくむせた。今度はマリコさんは手を掛けなかった。……胸を押さえながら、ようやくそれが治まったころに、マリコさんはそれまでの笑みを消した。


「私たちは、ずっとその状態を続けたかったんですよ。あなたと、私と、彼と。私と彼があなたを好きで、あなたのために何かをして暮らしていくという構図。バランスのとれた三角形」


 マリコさんは軽く目を伏せる。


「でもそれは終わったんです」

「何故」

「彼女がいます」


 まほのことだった。


「私もユーキ君も、別に彼女のことは嫌いじゃあありません。でも滅茶苦茶好きという訳でもない。それは判るでしょう?」

「……」

「ただ、あなたは彼女のことが妙に好きでしょう?」

「……そうね」


 否定はできない。よく判らないけれど。


「バランスは、崩れたんです。もう」

「それとマリコさんとユーキ君がそういう仲になるのとどう関係があるってのよ」

「判りません?」

「判らないわよ」


 言わなくては、判らないのよ。ハルは思った。マリコさんは表情からも行動からも、自分にその意味を悟らせないんだから。


「もともとバランスが崩れる気配は、彼女を拾った時点から感じてはいました。でも、私たちはそれでもしばらくは目をつぶっていたんです。バランスが崩れはじめたことから」


 だけど、雷が鳴った。


「いつまでも目をつぶっている訳にはいかないんですよ」


 だから、自分達の間で無意識に張っていた結界を破ることにした。言い出したのは彼。だけど自分だってそう言ったかもしれない。


「きっとあなたはもっと先へ行く。それもたぶん彼とは関係ない世界へ。私はあなたについていくことはできるけれど、彼はできない。彼には彼のしたいことがあるし、あなたの為に彼は自分を変えることはできない」

「関係ない世界?」

「あなたはジャズ向きではない。クラシックを一緒にしたい相手はもういない。だったら彼と同じ方向は向けないでしょう? だからと言って私にはそれがどの方向か、なんて言えませんけれど」


 マリコさんは伏せていた目を開く。


「でもあの子の居る方向でしょう?」

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