第17話 「ここは何処?」

「お早うございます」


 ユーキが戻ってきたのは、もう昼だった。お早うじゃないわよ、と訂正するハルににっこりと彼は笑う。


「お食事は?」


 マリコさんが訊ねる。


「お昼ですか? まだですよ」

「じゃあ私と……」


 マリコさんはハルの方をちら、と見る。


「彼女の様子を見てきてくれませんか?」

「彼女?」


 ユーキは怪訝そうな顔をする。昨日知り合いの子が来たのだ、とマリコさんはユーキに説明をしながらハルに聞かせていた。そういうことにしよう、と。


「よく眠っているみたいだし…… 食事どうするか、食べられるか、聞いてみてくれません?」

「はいはい」

「やっぱりちょっと長い移動って疲れるものなんですねぇ」


 しゃあしゃあと、顔色一つ変えずにマリコさんは言う。ハルも滅多に見たことはなかったが、マリコさんの度胸はただ者ではないと思う。

 医者に適している人間、というのは、その位の度胸の持ち主だとはいうが。大量出血や、内臓をいきなり見せつけられても、それが何であるか、とっさに判断して、次の行動に移らなければ、患者の生命に関わることだってあるのだ。


 ハルはドアを開け、閉じたままのカーテンを開けた。さっと明るい陽射しが広い窓から入り込んで来る。そして「彼女」の寝顔に降り注ぐ。

 あまり長くはない髪が枕の上に広がっている。多少寝汗をかいているようで、額にはいくらかの前髪がはりついている。ハルはそっと近くに用意してあったタオルを取ると、軽く額に触れる。ぴく、と身体が動いたような気がした。

 マリコさんは、言外に、起きるようなら起こして下さい、と含めていた。起きるだろうか?

 ハルはそのままじっと「彼女」の顔を眺めている。

 妹と同じくらいの年齢だろう、と思う。背恰好も体型も、似ている。

 だけど、顔は何処をどう見ても、似てはいない。

 どちらかというと、妹は「美人」のタイプだった。むしろこの眠る彼女は「可愛い」という評価のタイプだ。

 太くはないが、眠っているときは少し頬がぷく、と膨れていて、やや紅く染まっている。結構彫りは深そうな目をしている。まだ開いたところは見たことがないが、なかなかくっきりしたものだろう。

 毛布から飛び出した手にまかれた包帯が痛々しい。


 何と呼んだらいいんだろう。


 起こすにしても、どう言ったものか、とハルは首をかしげる。


「……」


 とりあえず、ぽんぽんと軽く、布団の上から叩いてみた。

 突っつくよりはましじゃなかろうか、と思う。



「わざと別の所に泊まったでしょ?」


 マリコさんはユーキにカフェオレを勧めながら訊ねた。


「判りました?」

「ハルさんは判ってないでしょうね」

「そうでしょうね」

「しみじみ、あなたって、可哀そうだわ」

「そうでしょうかね」


 やや、違う返答が来る。


「だってそうだって思いません? ハルさんは、どう転んでも、自分はユーキ君には友人以上の感情は持てないってことですよね」

「見てれば判るから。そんなこと」

「平気?」

「さあ」


 ユーキはカフェオレに口をつける。一口味わってから、角砂糖をもう一つ入れてかき回す。


「マリコさんから見て、歯がゆいかな?」

「―――とも言いきれないから、私もきっと変なんでしょうね」

「うん。だから、僕もきっと変なんだと思うけど――― 確かに、ハルさんの『こいびと』になってみたい、とも思うこともあるけれど、それよりも、『ながく』付き合っていたい、という方が強いから」

「細く長く」

「友達でも、こいびとでもそんなことはどっちだっていいわけ」


 そこでマリコさんは、ブランチ時の話題を口にした。


「そりゃ男だから、そういう生物だから、したくないってのが珍しいんだよね。僕だって、したくないといや嘘だけどハルさんに関してはそうあまり思わないんだ」

「思わない?」

「例えばね、会っていると、別に友達として付き合う気はあまり…… 向こうにもそういう気は見えなくて、でも寝てみたいな、ていうひとは、確かに僕にだってあるんだって。でも、たいていそういう女の子に訊くと、その子自身もそんな場合が多くて。結局それだけで終わる。お互いその翌日には、もう顔も覚えていない…… みたいな」

「ちょっと意外」

「そう? でも、判らない。そういうひとだから、そういう部分で惹かれるのかもしれないし、そういうひとたちは、責任取る取らない、という問題を起こすほど自分自身にルーズじゃないし…… そう考えると、僕はいちばん卑怯なのかもしれないけど」

「卑怯とも言い切れないわ。難しいわね。じゃあ例えば、私がユーキくんにそう誘ったら、どう思う?」


 こういう切り返しが来るとは思わなかった。ユーキは一瞬びっくりした顔を向けたが、すぐににっこりと、


「あなたはそういうことは言わないでしょう? マリコさん」

「どうして?」

「あなたと僕は、そういう点が似ていると思うけど。ただあなたは女性で、オレは男だから、そうゆう現れ方が違うだけで」

「性差別発言?」

「男の方が不利な気もするときはあるけど。本能という奴が、時々、理性を無視する場合があるでしょ」

「女だってそうゆう時はあるわよ」

「そお?」

「そりゃどうしてもその気になれない相手とはできないけれど。でも、それはそれとして、やっぱり勝手に身体の方が騒がしくなる時期だってあるし」

「ふーん」

「そうゆうときは、男の方が楽じゃないかって思うわよ。すり替え行為にも、明確な果てがあるでしょ?」

「そうだね」


 くすくすとユーキは笑う。マリコさんも、確かにこの年下の男と自分が似通った部分があると認めざるを得ない。少なくとも、こういう話をあっさりとして、通じる相手というのは、女の友達にだって、そうはいないのだ。

 マリコさんは、自分が一人の人物に捉えられているのを知っている。それ故に、誰かと寝ようという気が理性の上では出てこないのも。

 そして、自分はそれで済まし、ユーキの場合は、その分が「後くされのない」女性へ走ってしまうのも、理解はできるのだ。

 マリコさんは、別に潔癖症ではない。したいことはすればいいと思っている。ただ、やってしまったことに責任は持て、という主義である。それはマリコさんだけでなく、日坂の家の人々の気風ではあったが。はじめから責任の要らないひととしか寝ない、というのは、彼女の主義には反しないのだ。「様々な人がいるんだから」。


「そういえば、僕とあなたのもう一つ共通点って知ってる?」

「なあに?」

「ハルさんに敬語を使いたくなってしまうとこ」


 苦笑一つ。マリコさんは空になったユーキのカップを見て、もう一杯どお?と 勧めた。


「じゃ、お言葉に甘えて」



 ゆっくりと上半身を起こしながら、「彼女」はきょろきょろと辺りと、ハルの顔に視線を動かしていた。何処へ視線を落ちつければいいのか、判らなかった。


 状況が把握できない。

 ここは何処、いったいどうしてここに居るの、何があったの、自分は誰だったの。

 この中で、まず答えられそうな疑問を彼女は拾い出す。自分は。

 名前は。年は。学校は。家族は。

 家族。


 散弾銃のように浮かぶコトバ、回る思考、それが答を得ようと彼女にぶつかっては弾け、たいがいは答を出さぬままに消えていく。だが、その単語は、消えなかった。消えずに、別の疑問を彼女自身から導き出す。


 家族。「居たのだろうか」?

 名前。「あったのだろうか」?

 家。「あれは本当だったのだろうか」?


 ぶるぶる、とやがて視線は定まるが、身体は震え出す。最後に残った三つの単語は、彼女を中心にしてぐるぐると回り続けている。


 ハルはゆっくりとベッドの彼女の脇に屈みこむと、


「大丈夫」


 そう言って、彼女の肩にそっと両手をかけた。

 その肩に伝わる重みと体温のせいか、彼女の震えは次第に治まっていった。だが、疑問は消えない。


「ここは何処?」


 瞬間、ハルは左半身がぞくり、とした。耳から飛び込む音が、直接彼女の身体に触感をもたらしたのは始めてだった。


「ここ? ここは、ホテル――― のコテージのひとつ」


 痛い、とふと彼女は顔をしかめた。打ち身の一つにハルが触れてしまったらしい。ごめんなさい、とハルは手を離す。距離がある程度取れて、やっと二人はお互いの顔を見合わせた。

 あ、やっぱり、とハルは彼女の目を見て思う。あまり大きくはないけれど、くっきりとした、綺麗な目だった。形そのものがいい。アウトラインとまつげと、まぶたの彫りの深さと、ちょうどいい具合にかみ合っている。

 それ以外は、特に特徴のない顔だとハルは思う。ごくごくありふれた、高校生の女の子に見える。だが、その口元にはつい目が行ってしまう。数秒前のあの声!

 何だったんだろう、と記憶を探る。今まで、「声」にあんなに感じたことはなかったのに。

 だがその疑問はさておいて、ハルはとりあえず正気を取り戻したこの子に、マリコさんからの質問をまずぶつける。


「……えーと、お腹すいてない?」

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