第12話 それでもドラムはしたいのだ。

「おねーさん? 見るところ」

「そうだけど」

「あんまり似てないね」

「妹は可愛かったからね」

「可愛い…… うーん……」


 彼は何とも言い難い表情になる。とりあえず、この「おねーさん」は客である、ということを思い出して、


「で、今日は何を?」

「あ、レコード探してるんだけど。……の」

「ああ、こっちに何枚かあるけど」


 そう言って、レコード棚の方を指す。大した量はないようだったので、ハルは一瞬不安になる。


「あるの?」

「あのバンドは、こっち方面好きな人ならたいてい一度は聴いたことあるってくらいだからね。マホちゃんも好きだったし」

「そのマホの持ってた奴が、何か針飛びしちゃってて」

「あー、あの子、好きなものは何度も聴くからね」

「よく知ってますねえ」

「よく会ってたからね」


 は?


「あ、別に誤解しないでよ、あの子はオレがバンドもしてるってから、いろいろ聞きにきてたの。自分もバンド組みたいからって」

「何…… 初耳」

「だろーね」


 だろーね? 

 カチンときた。ずいぶんと、何か妹について良く知っているようではないか。自分よりずっと。だが、そんなこと表情には出さず、


「バンド…… 何してるの」

「オレはギターだけど」

「あの子はドラム?」

「うん。学校の友達は、ロックにキョーミないヒトが多いからどうしたらいいかって」


 そりゃないでしょう。マホの交友関係。高校は音楽系の女子校。そして大半が音大進学組。


「じゃ、これ」

「あ、これねー。ここのさあ、バラードがいいんだよなあ」

「バラードねえ…… 確かその曲がすり減ってたのだけど」

「ありゃいい曲だもん」

「『ロック』にしちゃ珍しいんじゃない?」

「でもいい曲でしょ?」


 あっさりと彼は言う。


「マホちゃんは、もう来ないの? おねーさん」

「あたしは波留子って名ですけどね。うん、しばらくはあの子は」


 もう来ない、なんて絶対に言わない。


「だとしたら、あれもはがそうね」


 彼はそう言って、二階の小スタジオへ向かう階段の壁に貼ってあるメンバー募集の紙を指す。


「結局来なかったけど」

「メンバーをああやって探すの?」

「いろいろ。マホちゃんは、まわりに誰もいない、って言ってたから、じゃあここへ来るヒトの中から探せばどお? って」

「ふーん」

「でも女の子のハードロック好きって、やっぱり少ないし、聴くヒトが少なければ、演るヒトなんてもっと少ないじゃん。どーしよーもないっていうのかな……」

「男の方がやっぱり多い?」

「そりゃあね」


 何でだろう?


 ハルは思う。自分の演ってるクラシックピアノは、女も多い。

 クラシック部門は、大体男女半々くらいだと思う。それに、実力世界だ。男がどうの女がどうのって、関係ない筈なんだけど。


「ふーん……」

「それじゃ、2500円です」

「はい」


 大きな袋に入ったLP盤は、持って歩くにはいまいち安定が悪い。



「久々に、何か弾いてみたらどうです?」


 ある日マリコさんが言った。ピアノの方がほこりをかぶっているのに気付いたのである。

 そうね、とふと考えたら、一か月くらい、毎日ドラムを叩いていたのである。

 メトロノームに合わせて、基本のメソッドやコンビネーションをただただ叩きまくる。疲れたら休憩。

 しばらくは、ふとももが痛くて仕方なかったこともある。

 加減を知りなさい、とその都度マリコさんに言われていた。まあその甲斐あってか、ある程度形にはなってきた。毎日時間はたっぷりあったし、誰も邪魔はしない。覚えたてには絶好の条件だったと言える。

 叩いている間、は時間が勝手に過ぎていく。リズムだけを追っていく時は、他の雑念が頭に入ってこない。そうでないとき、どうしても、妹のことだの、あの店員に言われたことだの、どうしても頭の端々に浮かんで、離れない。繰り返し繰り返し、同じ内容が、頭の中にちらついて、消そうと思っても消えない。

 別に妹のことを忘れたい訳ではない。

 ただ、あの店員に言われたことは、少なからずハルにはショックだったのだ。

 ロックが好き、も知らなかった。ロックバンドを組みたかったことも、知らなかった。相談の一つも受けなかった。

 そりゃ、ハルに相談したところで、何にもならなかっただろう。それは理屈としては判る。だが、はじめから相談の範囲外に置かれていたことが、何やら、ひどく悔しいやら悲しいやら、胸をよぎる瞬間、痛い。

 そしてそういった思いは、自分で出そうと思って出てくるのではなく、勝手に出てきてしまうからタチが悪い。

 無意味に出てきて、無意味に自分を傷つけて去っていく。それはピアノを弾いていても起こってくるものだったので、最近はピアノに向かってなかったのだ。


「何かリクエストは?」

「ショパンのなら何でも」


 じゃあれにしよう、とハルは「小犬のワルツ」の譜面を置いた。そしてピアノの蓋を開ける。あれ?


「どうしたの?」


 マリコさんは不思議そうに訊ねる。


「ううん、別に……」


 何だろう。ハルは手に何か前と違う感覚があるのに気付いた。

 譜面は開いて前へ。そして鍵盤に手がかかる。数小節…

 ハルはその瞬間、気付いた。

 手が止まった。


「どうしました?」

「弾けない」

「え?」

「感覚が違いすぎてる。すぐに手が思い出してくれない」

「そんな」


 確かに譜は読める。どうすればいいのかも、頭では判る。

 でも、ピアノの曲を弾くときには、頭ではないのだ。確かに、曲を覚えるまで、その譜は手がかりだけど、手に覚え込ませてしまった後は、弾くときには「目安」に過ぎない。他の人がどうかは知らないが、ハルはそうだった。なのに。


「ブランクあったから」

「違う」


 それだけじゃない。ドラムだ。

 頭と身体が、少なからずドラム仕様になっている。それまでの完璧にピアノ仕様だった身体がほんの少しでも、変わってきているのだ。

 すねにはいつのまにか筋肉がついてしまっているし、両方の親指にはタコができている。右手は何度か水ぶくれが出来て、そのたびに割っては、繰り返したおかげで固くなりつつある。

 それだけだろうか。


「ハルさん」

「さて」


 どうしたものか。ハルはとりあえず譜面を閉じ、ピアノの蓋を閉じた。

 それだけではない。頭の何処かが、クラシックを弾くことを拒否している。音楽をやりたくないのではない。

 それでもドラムはしたいのだ。

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