第10話 「それで楽器に八つ当たりですか?」
しまった。
マリコさんは帰ってきてすぐ時計に目を移す。こんな遅くなるはずではなかったのに。こりゃ怒ってるだろーなあ……
ピアノのある、そして今はドラムもある部屋にしか灯がついていないのを見て彼女は思う。
「ハルさん、ただいま」
そっとドアを開ける。
音に弾かれる。
音が溢れ出て来た。それもどう考えたって、彼女の耳には騒音にしか聞こえないような。
ハルはとにもかくにも、叩いていたのだ。むろん形も音も滅茶苦茶である。この家からこんな滅茶苦茶な音が出てくるなんて、マリコさんは想像したこともなかった。
「ハルさん」
ハルは気付かない。何かに取り憑かれたかのようにスティックを握りしめ、ざらざらと響きながらはねっかえりの音を出すスネアや少し気の抜けたようなタムや、ヒステリックなシンバルの間をひっきりなしに動き回っていた。
「ハルさん」
まだ気付かない。こんなに近くにいるのに?
「ハ・ル・さ・ん!」
とうとう耳元まで言って叫んだ。ひっ、と身体半分浮かせて、ようやく音の洪水が治まった。
「何マリコさん、早いじゃない」
「何言ってるんですか。外は真っ暗ですよ」
そう言って窓の外を指す。あらら、とハルは汗をぬぐった。よく見ると、全身汗まみれだった。
「それで私の入ってきたのも気付かないってのは、よっぽどその楽器、気にいったんですねえ」
「気に? うん、そーかもね」
「自分のことなのに、もう少し、自信持って言ってくださいよ」
「ちょいとむしゃくしゃしたことがありましてね」
「それで楽器に八つ当たりですか? それじゃあ、楽器が可哀そうですよ」
「何マリコさん、ユーキ君と同じこと言うのね」
ハルは肩をすくめる。
「そのユーキ君に、もう少し叩き方を教わった方がいいですよ」
マリコさんは、今夜は天ぷらだ、とメニューを告げた。
*
八つ当たり、というのはまあ嘘ではない。
夕食の天ぷらは、どちらかというと野菜がメインだった。ぱりぱりと音がしそうなくらいにからっと揚がったかき揚げを口にしながら考える。
だが、途中でどうでもよくなったことは事実だった。
どうだったっけ?
ユーキや、他のパーカッション連中がやっている場面を思い浮かべる。
とりあえずこんな形。ではどうやって叩きましょう?例えばスポーツ番組のテーマ曲。彼女はそのフュージュン・バンドの名前も知らない。知っているのはメロディと、その中のリズムだけ。でも、そのメインのリズムの一番下を押さえてるリズムがよく思い出せない。
オーケストラのコントラバスや、横叩きのバス・ドラム。それにティンパニ。あれはどういうリズムだったんだろ。
そしてその一番下のリズムが足の動きになっていく。
硬くてよく響くスネア・ドラムは自己主張をしきりに繰り返す。
駆け回るタム。軽く笑い声を立てるハイハット。頭の中で駆け回るメロディに合わせて、まだ未知の楽器を、ああでもないこうでもない、とハルは叩き回っていた。
ついつい、気がつくと、ものを噛むのすらリズムを取ってしまいそうな。
それは、何日か後に、どうにもこうにもならなくて、ユーキに電話するまで続いた。お電話一番、すぐさま参上、と彼はすぐにやってくる。
「でも動くようになったんだから、すぐ上達するってば」
にっこりとユーキは笑う。
「ものすごーく基本といや、とにかく手の練習法ってのがあってね。それ専用のメソッドの本だって出てるんだけど――― どっちかというと、僕はハルさんなら、全くのサラなんだから、手足のコンビネーションから勧めるよ」
「と、いうと?」
「あのさ、オレ結構昔からドラム…… というか、太鼓は叩いてたけど、ドラムセットってのは、叩いたことなくてさ、セットで始めたのって、高校の途中からだったんだけど、手と足のリズム感が全く違ってんの」
「何、手だけ空回りって?」
初めは手の方がよく動くから、リズム感も正確だと思ってるでしょ? ところが、メトロノーム使って練習してるうちに、気をつけてる足の方が正確になっちゃって、手の方はいい加減になっちゃったりして…… 目立たなくするのにすごーく時間かかったもの」
「ふむ」
「だからさ、ハルさんはピアノしてる人だから、両方の手に同じくらいの力かかってるじゃない。そうゆう方法知ってるってゆうか」
「なるほど」
それもそうだ、と妙に納得してしまった。
「で、よく基本って言われるのは」
そしてユーキは幾つかのパターンを紹介してくれた。あ、そーか、とハルは数学の公式が見つかったような気がした。8ビート、16ビート、2ビート―――
「たいていの今出回ってるロックなんかは、こうゆう奴の組み合わせ。簡単な曲なら、これだけ覚えとけばできるよ」
「それ以外ってのは?」
「ジャズとかフュージョン、それにダンス系では、もっと派手にややこしいリズム・パターンってのもあるけどね」
でもね、と軽く首を回して、
「でも、クラシックじゃないんだから、どう覚えるか、は、結局あなた自身なんだよ」
ふむ、とハルはうなづいた。
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