第8話 何でドラムだったんだろう。

 学校付近に来るのは久しぶりだった。大学の高い壁、校舎を囲む緑の木々の隙間から音がこぼれてくる。ロングトーンをしている管楽器の音が特に耳に響く。


「わーいハルさんだーっ」


 にこにこしながら自分よりやや背の低いユーキが店の中へとやってくる。そしてレアチーズケーキとコーヒー、と頼むと彼はすとんとハルの正面に座った。


「元気そうでよかった。でも少しやせた?」

「どーかなあ。うちヘルスメーター無いから」

「じゃもっと食べてよ」

「あたしを丸くする気か?」


 ハルはくすくすと笑う。


「で…… 言われたとおり、ドライバも持ってきたけど。何で要るの?」


 だぼついたジーンズのポケットの中からTの字形のネジ回しを幾つか出す。


「何か知らないけれど、要る羽目になっちゃって」

「だってこれってスネアのだよ」

「だから要るのよ」


 ユーキは首をひねる。何秒か複雑な表情をしていたが、ま、いいか、とその話はそこで打ち切った。コーヒーがいい香りをたててとケーキと共にやってくる。


「みんなどお? 元気?」

「うん、みんな心配してたよ。ナカザさんやヘーさんあたり。カスミちゃんなんかしばらく暗かったよ」

「ありゃ」


 ハルの友達はこのユーキのように、他のパートに多かった。ヴァイオリンの同級生ナカザ嬢、フルートの先輩ヘーさん、それに声楽科のカスミちゃん。そのあたりがよく学内で出会うと話をしたり、共通学科が休講になったりするとフルールのような喫茶店、学内のカフェテリア、そうでなきゃ図書館や中庭でとりとめのない話をする仲間だった。

 だが、それらの女友達は、切り捨てたところで、大した感触はなかった。いつか社会に出た時には、きっと別れて、忘れてしまうだろう。そんな感覚でつきあっていた。自分は冷たい奴かな、とも思うことは思う。

 目の前にいるユーキは、どちらかと言うと女友達と付き合っている感覚があった。だかその「切り捨て御免」の女友達よりはずっと気楽で、つきあい易かった。まあ喋り方のせいもあるのだが、妙に「可愛い」。

 とはいえ、顔形が女っぽいというのではない。小柄なせいか、何かしらちょこまかとあちこちを動きまわるハムスターに似てるな、と思っていた。特にこれといって、頼りになるとかそういう訳でもない。だが、一緒にいると、気が楽になる。そういう友達だった。あくまで友達である。


 友達以外なら。


「ああ、メイトウさんにこないだ会ったよ」

「ふーん」

「元気そうだった」

「そう」

「あなたの所へは、メイトウさん、行ってないんだ?」

「ないね。別においでと言ったこともないし」

「留学、決定したみたい」


 だろうな、と彼女は思う。メイトウという奴は、付き合ってた女に何が起ころうと、自分の予定は変えない。


「ねえユーキくん、メイトウの話はよそう。もう関係ないから」

「別れたんだっけ」

「や、別れたも何も、もうどっちでもいーな、と」

「ふーん…… じゃもしあなたがフリーだったら、僕が立候補してもいいの? あなたのそおいう相手」

「はて」


 どうしたものかな、とハルはコーヒーを飲み干した。別に驚きはしない。薄々知ってはいたから。

 だがその場ではその話はそれ以上には出なかった。とりあえず本日の目的、のために、ハルは自宅まで彼を連れてきた。


「マリコさあん、専門が来たよ」

「あらまあ。よーこそ」


 玄関にさっと出てきて、エプロンを翻し、花のようにふわっと笑うマリコさんにユーキは驚く。


「これは従姉のマリコさん。マリコさん、ユーキくんだよ」

「まあ、どーぞおあがり下さい」


 殆ど「お母様」の役だな、とハルは思う。前からそういう要素はあったが、ここのところ特にそういう雰囲気が増えてしまった。いーのかなあ、結婚前の女性に。そんなことをちら、と頭の片隅にかすめつつ。


「こっち」


 結構部屋数は多い。それに比較的新しい。彼女は練習室へと彼を迎え入れる。ダンボール箱が無造作に広い部屋のあちこちに置かれている。


「誰かドラムやるの?」

「やるつもりで買ったらしいのだけど」

「ま、いーか」


 彼もあの事故のことは知っていたから、それ以上は聞かない。つまりこれを組み立てたい訳ね。納得すると、開けてもいいか、と許可を求めた。


「どーぞ。あたし全く判らないから」

「やってみればいーじゃない。基本的なこと、ならピアノ覚えるよりずっと楽だよ」

「そお? だって手足四本別々の動きじゃない」

「何言ってんの。ピアノだってそうでしょ。しかも手なんか十本の指別々に動かしてるくせに」

「だってあれは子供の時からの訓練で」

「そーゆーのがないと、ピアノってのは本当に大成したりはしないでしょ。でもドラムってのは、僕らくらいの年から始めても大家になったひとだって大勢いるよ」

「でもセンスとか」

「リズム感は要るだろーけどね」


 そう言いながら彼は一つ一つの箱を開け始めた。新品の楽器特有のにおいがふっと鼻につく。だが開けられた箱の数が増えていくに従って、それは気にならなくなっていった。


「とりあえず、の高さにセッティングしておくからね。もし直したいのだったら、ここで調節して」

「固くて動かないじゃない。どーすりゃいいよ…… ペンチ?」

「そうゆうときは、ほら、これで」


 彼は二本のスティックで椅子の調節ねじをはさんで見せる。手では固くて動かなかったそれが、以外に楽々と回った。


「ほー」

「まあこれも慣れの一つってことですか…… だから、今からでも遅くはないって」

「本気? あたしにやれっての?」

「別にそんなことは言ってないけど。でも、この楽器、誰も使うひとないのに、放っとかれるってのは可哀そうだと思うし」

「買った主がいるじゃない」

「帰ってくるまで、でも、慣らしとくと、音が良くなってくるでしょ」


 もっともである。

 だけど。

 ハルには疑問だった。何でドラムだったんだろう。

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