第4話 元気で、幸せに

 きびすを返して記憶のなかの足跡を辿っていくと、前回兄と邂逅した場所に辿りついた。公園のすぐ傍だ。あまり憶えていないけれど、家の近所だからアデルと遊んだこともあるはずだった。

 白い柵で区切られた敷地のなかの、ちいさな遊具の名前をひとつずつ思い出していく。


 てつぼう。

 すべりだい。

 ぶらんこ……そこで、ブランコに腰かけていた青年に気がついた。

 兄だった。


 確かに「待ってるから」とは言われたけれど、いつどこに現れるかもわからないリディアを本当に待っているとは思わなかった。ココの言葉に背中を押されてとりあえず〈穴〉を通ったはいいものの、兄に会えずにアデルのもとへ戻る可能性のほうが高いとさえ考えていた。

 或いは、兄にも会えず、アデルにも呼ばれず、ただどこかへ消えるのだろうと。


 ……待っていたのだろうか。

 九日間、ずっと。さすがに帰宅はしただろうけれど、毎日こうして、ひとりで。


 足を止めたままずっと視線を送り続けるのも不審だという自覚があったので、思いきって兄のほうへ一歩を踏み出した。

 公園のなかは砂地になっている。石ころを蹴り、草を避けつつ近づく足音を聞きつけて、青年は顔を上げた。


「……恭子!」


 彼が立ち上がった瞬間、リディアはぴたりと足を止める。

 幸い彼もそれ以上近づこうとはしなかった。

 黒い短髪に、焦げ茶色の瞳。日本人らしい目鼻立ち。兄だと言われてもやはりしっくりこない。顔立ちは、目元が似ているといえば似ているかもしれないが、やはり髪と目の色がはっきり異なるから、『兄妹』には到底見えないに違いないとリディアは感じていた。


「わたしね、魔法が使えないの」


 するりと口からまろび出たのはそんな言葉だった。


「わたしみたいに魔法の使えない人が、魔法を使うための技術もあるんだけど、それもセンスがさっぱり。できることといったら編み物とか、お菓子作りとか、それくらいなんだよね。だから正直、こっちにいても向こうにいても、わたし自身のできることや能力にたいした違いはないんだと思う」


 だから、世界はリディアだけを元に戻そうとした。

 魔術が使えて〈妖精の目〉を持つアデルでは、この世界に再び順応するにはまた時間がかかる。その点、リディアはお手軽だったのだ。

 けれどリディアは運命を択んだ。

 自らの意志で己はかくあるべしと決めた、あの世界が、リディアの運命だ。

 世界の作用などに頭を垂れない。きっとこれから何度同じことがあっても、リディアは同じように択ぶ。


「もちろん血はつながっていないし、髪や目の色は違うし、みんなは魔法が使えてわたしには使えないし、人間よりずっと長生きだったり、種族が違ったりもする。でも、家族なの。そう思える存在がたくさんできた。わたしのほんとうの幸いは、向こうの家族とともにあるの」


 兄は、前原泰希は、少女の言葉に耳を澄ましていた。

 言葉を遮ることも、おとぎ話のような話を嗤うことも、彼女の選択を詰ることもなく、ただじっと目を見つめて聴いていた。恭子はたったそれだけのことが嬉しくて、つい眉を下げてえへへと笑う。


「それに、先生をひとりにしたくないし……」


 自分で口にしたそれは、驚くほど素直に、恭子の胸にすとんと落っこちた。

 彼女の正直な想いであると同時にひとつの疑問に対する答えでもあったからだ。


(ああ、か……)


 あの静謐なベルトリカの森で、百年の孤独のなかを穏やかに、しかしどこか切迫した目的を求めて生きる、黒き魔法使い。

 イルザークもきっと同じだったのだ。

 もしもイルザークが天界の神々の掌から零れ落ちて冥界へ沈むようなことがあれば、きっとリディアもついていく。

 彼がひとりにならないように、寂しくないように、罪を重ねないように、いつか救われるように、それが叶わないならばいっそこの手ですべてを終わらせてあげられるように。


「……『先生』って、恭子を拾ってくれた人のことだったっけ」

「うん、そう。放っておいたら全然掃除しないし、お料理もしないの。年がら年中引きこもっちゃって顔色悪いし、すぐ部屋が汚くなるし、口下手っていうか致命的に言葉が足りなくってね、今回も隠し事ばっかりで……」


 慌てて両手で口をおさえる。

 一緒にいたいと望んだそばから文句ばかり言うのもおかしな話だが、全部事実なので仕方ない。苦笑しながら、腰まで伸ばした真っ直ぐな栗毛をひと房掬って見下ろした。


「でもね、わたしの髪の毛をきれいだって言ってくれたのよ」


 母がこの髪を憎んだ。

 だからずっと、男の子みたいなベリーショートにしていた。すこしでも目立たないように、母の気に障らないように。イルザークが恐る恐る頭を撫でながら褒めてくれて、初めて赦されたような気がしたのだった。


「そうか」兄はちいさくうなずき、右目のあたりを手の甲で拭った。「いい人なんだな。おれたちよりも、ずっと……」


 あまり長くはいられない。

〈穴〉が閉じてしまえば帰れなくなってしまう。

 兄の震える肩に気づきながら、リディアは一歩、後ずさった。


「お兄ちゃん、ありがとう。『あの日』わたしを連れて行かないでくれて」


 自ら択んだ運命のもとに帰るため、もう一歩、後ろへ。


「そのおかげで恭子はいっくんと一緒に世界を越えていまの家族と出会えたから。だからもう苦しまなくていいよ。恭子のこと忘れて、お兄ちゃんはお兄ちゃんの周りにいる人を大切にして、いっぱい幸せになってください」


 おまえの兄だと名乗ってくれた。

 それだけでじゅうぶんだと、いまの彼女はそう思えた。


「恭子のこと、憶えていてくれて嬉しかった」


 兄は最後までその場から一歩も動かず、引き留めることもなく、少しずつ離れていく妹から目を離さなかった。


「恭子、元気で」

「うん。お兄ちゃんも元気で」

「幸せにな」

「うん。お兄ちゃんも、幸せに……」


 ちょっとだけ。

 ちょっとだけ泣きそうだったのは、誰にも内緒。


「さようなら」

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